江戸城(現在の皇居)
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将軍の食事・朝食編
将軍の朝食は二の膳までとなっていたみたいです。現代のホテルのビュッフェで好きなものを好きなだけ食べ放題というものを見たらどう思うでしょうね。
周延「千代田之大奥 婚礼(部分)」国立国会図書館蔵
プレゼントにどうぞ!
一の膳
飯と汁
刺身と酢の物などの向付(向付とは、手前に置く飯と汁の両椀に対して、器を向こう側に置くところからつけられた、なますや刺身の名称です)
平(煮物:平/ひらとは蓋つきのやや浅めの塗り物椀に盛られた煮物のことです)
二の膳
吸い物
焼き魚
魚は喜ばしいということから「鱚(きす)」が選ばれたようです。「魚」偏に「喜」ですからね。塩焼きと付け焼き(タレをつけて焼くものですね)があったらしいです。ちなみに、この漢字は国字、つまり日本で作られたものです。
キスは本来、キスとは呼ばれておらず、「キスゴ」と言うのが本来の呼び名・表記だったらしいです。語源は「生直(きす)」で、性質が素直で飾り気のないという意味に、魚名語尾(魚を表す)「ご」がついたということ。いづれにしても、縁起の良い魚として扱われていたのですね。
この二の膳ですが、一日、十五日、二十八日には「鱚」に替わって「鯛」、「平目」などの尾頭付きが出されていたようです。
将軍の食事・昼食編
二膳付きです。
魚は「鯛」や「平目」、「鰈(かれい)」、「鰹(かつお)」などがついたみたいです。
コノシロは
食べられなかったのは「コノシロ」です。「コノシロ」は「この城」を食べるということにつながり、縁起が悪いとされたとか。「コノシロ(この城)」を焼いて食べるのですから。
第11代将軍徳川家斉が晩年のころの話。将軍職を世子の家慶に譲って江戸城、西の丸に退隠した後、御殿から火が出ました。それで西の丸全体を焼亡してしまったことがあるのです。
その時に詠まれた川柳は、、、
コノシロを焼いて隠居は味噌をつけ
「この城」を焼いて隠居はしくじった、という意味ですね。う〜ん、なるほどうまいな〜。
豚肉も食べられた
時に将軍が所望するものも出されたみたいです。特に、徳川慶喜は「豚一殿」って呼ばれるほど豚肉が好きだったようです。「豚肉がお好きな一橋様」という意味ですね。薩州家老の小松帯刀(こまつたてわき)に何度も豚肉をねだっていたという逸話が残っています。
薩摩で豚肉が食べられたという話題はリンク先をご覧ください。
慶喜はポークピカタが好きだったみたいですよ。
興味深いですね。こういう料理が江戸城で出されていたのかもしれないのです。幕府はフランスと近い関係にあったから、フランスを通じてイタリア料理のポークピカタの料理方法を知っていたのかもしれませんね。
将軍の食事・夕食編
二の膳ではなかったみたいです。大きな膳に「雁」、「鶴」、「鴨」などの鳥料理が出ることがあったみたいです。お酒もついたみたいですよ。
「鶴」料理
「鶴」とは驚きですよね。実は、江戸時代、武家の間で最上の鳥とみなされていたのは「鶴」だったのです。その優美な姿のためか、茶会や饗宴の席に「鶴」が登場するようになったみたいですね。家光の代から「鶴御成(つるおなり)」といって鷹狩りで捕った鶴を朝廷に献上し、残ったものは大名たちに贈られたこともあります。
宮中では正月十七日に、将軍家から贈られた「鶴」を清涼殿の前で「鶴の庖丁」という儀式で料理して、天皇に献じました。
将軍も「鶴」は食べていたみたいですね。しかし、その味は、、、「マズイ」ものだったらしいですよ。
命日には精進料理になる
将軍は、祖先の命日には肉を食べないし、酒も飲むことは避けました。ということは、将軍の代が後になればなるほど過去の将軍の命日が増え、精進料理の日が多くなったのです。
特記すべきは天ぷら
初代将軍徳川家康が鯛の「天ぷら」を食べて命を縮めたとされているので、江戸城ではどんな食材でも「天ぷら」は許されなかったらしいです。また、一説には「天ぷら」による失火で火事を起こしやすいという理由もあるようです。
明暦の大火
- 寛永11年(1634)西の丸炎上
- 寛永16年(1639)本丸炎上
- 明暦3年(1657)本丸、天守閣炎上
- 天保9年(1838)西の丸炎上
- 弘化元年(1844)本丸炎上
- 嘉永4年(1852)西の丸炎上安政6年(1859)本丸炎上
- 文久3年(1863)本丸炎上
- 慶応3年(1867)二の丸炎上
江戸のファーストフードとして人気があった「天ぷら」は、大変火災を起こしやすいものでした。火事が多かった江戸では、引火しやすい油を扱う「天ぷら」は屋外での営業しか許可されず、店内で商売する場合でも、店の前で揚げて売らなければならないものだったのですよ。
江戸城では、「十分な火掛かり(火事の際消火作業をすること)ができない」と言われていました。様々な制約があり、当時の消火方法、主に建物を破壊して消火することが困難だったのです。実際に江戸城は建物があまりにも大きく、また土壁がないので、またたく間に火が広がってしまう可能性が大きいのです。棟が続いているので延焼を断とうにもうまくいかないのですね。
上記のような理由で「天ぷら」は江戸城内では、作ってはいけないものだったのです。
将軍はビタミン不足?
将軍が食べるご飯は白い方がいいとされ、可能な限り研がれていました。それゆえに、ビタミン不足を発症し、脚気でなくなったと考えられる将軍もいたのです。
3代将軍「徳川家光(1623〜1651)」(長らく脚気に悩まされた後、脚気衝心で死去)、13代「徳川家定(1824〜1858)」、14代将軍「徳川家茂(1846〜1866)」と夫人「皇女和宮(1846〜1877)」などが「脚気」で死亡しています。ちなみに、この家茂と和宮は大の「甘党」です。
「脚気衝心」の意味は脚気に伴う心臓機能の不全のことです。
第14代将軍・家茂の場合
死の3か月前(慶応2年4月)頃から胸の痛みを訴え、その後、脚の腫れがひどくなり、座ることも出来なくなり、気力は旺盛だったものの、日増しに悪化し、大阪城滞在中の7月に亡くなりました。症状や経過から「脚気」が死因と考えられるのですが、当時は診断や治療方法も分かっていませんでした。
歴史上の人物や多くの人々は、「脚気」でどの様に命を奪われたのでしょう?
ビタミンB1が足りない → 動脈が広がり、心臓から出る血液量が上がる
→ 心臓への負荷が増す → 心不全 → 脚気で死亡
このような問題は深刻ですね。家茂は大の甘党。好物は羊羹(ようかん)、氷砂糖、金平糖、カステラ、最中(もなか)などです。「スイーツ将軍」とも言えるこの家茂、彼の頭がい骨を調べると、31本の歯のうち、30本が虫歯だったそうです。
江戸患い(江戸わずらい)
江戸時代、それまで主に玄米を食べていた江戸の人々にも白米食が広がりました。以前は、白米は身分の高い人しか食べられないものだったのです。
ところが、その頃から奇妙な病が流行り始めました。白米を食べる習慣は都市部から広がり、地方ではまだまだ玄米食が中心だった当時、江戸を訪れた地方の大名や武士に、足元がおぼつかなくなったり、寝込んでしまったりと、体調が悪くなることが多くなりました。そんな人たちも故郷に帰るとケロリと治ってしまうことが多かったため、この病は「江戸わずらい」と呼ばれました。当時の明確なデータはありませんが、亡くなる人も少なくなかったと思われます。
のちにわかったことですが、これはビタミンB1不足が招いた「脚気」という病気が原因でした。胚芽部分に多いビタミンB1は、精米で取り除かれてしまうため、白米にするとわずかしか残りません。当時の人々は一汁一菜が基本で、ご飯を大量にとり、おかずの量も数も少なかったこともビタミンB1不足の原因となっていました。
地方から江戸にきた大名たちは、この「江戸患い(江戸わずらい)」にかかることが多かったそうです。そして、地方に戻るとぱたっとその症状が治りました。
そのために「江戸患い(江戸わずらい)」と呼ばれたのですね。地方の大名たちは国元では雑穀なども食べていたのに、江戸にいくと「見栄をはって」白米ばかり食べたからです。
興味深いことにこの「江戸患い(江戸わずらい)」は、同じ江戸にある薩摩藩邸内では発症しなかったそうです。薩摩の武士たちは豚肉を食べていたことが原因だと考えられています。詳しくはリンク先をご覧ください。
江戸患い(江戸わずらい)については、日本人の主食は本当に米なのか、という話題の中にも書いてあります。
脚気の原因がビタミンB1の欠乏だと確認されるのは大正時代になってからです。現代日本人もほとんどの人は白米中心に食べているのに脚気にかからないですよね。その原因は、おかずをたくさん食べているからです。上記のように将軍と言えども、比較的おかずが少ないですよね。これでは脚気にかかりやすいと思います。
もともと武士には脚気は少なかった
将軍の食事のための役人
江戸城には将軍と御台所の食事のために、百人以上の役人が働いていたようです。その中で、将軍の食事を賄う「膳奉行」というものがいました。定員は3〜5名です。ここでいう御台所は奥方のことです。
御賄頭(まかないがしら)
御賄頭は台所へ食料品を供給する役です。江戸城中の食材は御賄所が一括して買い付けたようです。
いわゆるバイヤーですね。
御膳所御台所頭(おぜんしょおだいどころがしら)
御膳所御台所頭は料理担当のトップです。定員は3人。
これは料理長とも言えますね。
お毒味役がいて、将軍が食されるまでは長い経過が、、、結果「冷飯」
- まず、将軍用の食事はなんと10人前作られます。
- 1人前の食事を2人の役人が毒味します。
- しばらく待って(毒が回ってこないか確認)、異常がないことをお互いに確認します。2人で顔を見合わせて、うんうんと頷きあっている様子が想像できますね。
- 9人分、残りました。その食事を「舟」という台に乗せて長い廊下を運びます。御錠口というところまで運びます。
- 運ぶ間、添え番が付き添い、異物を入れるものがないか監視します。
- 9人分の「冷めた料理」を炭火で温めます。
- 毒味役の役人が一膳食べます。この時点で、8人分残りますね。
- 盛り付けの再点検をして将軍の前に御膳を運びます。
- 将軍の部屋で2人の小姓が、それぞれの膳を毒味します。この時点で6人分残りますね。
- そして、やっと将軍がお食事します。
やっと食べられるまで、作ってから2時間です!当然「冷飯」状態。これを一生食べ続けるのですから、将軍も大変です。
将軍は残しちゃダメ!
将軍の食事に食べ残しがあろうものなら、すぐに医者が飛んできて診察します。体調に問題なしとなったらさあ大変、、、「お口に合わない料理を作ったな!」と台所役人が叱責されるのです。
将軍はそれを知っているので、嫌いでも我慢して食べ続けることに、、、。
将軍は果物を見るだけ!
果物は腐りやすいので、置くだけ置いて「見るだけ」でした。これは、ビタミン不足になりそうですね。
将軍のご飯に異物が入っていたら、、、
台所役人、切腹です。
将軍が食べるご飯は、御舂屋(おつきや)という江戸幕府営中の諸士に給する領米をつく所で、精米されます。それを御舂屋(おつきや)勤めの役人が黒塗りのお盆の上に広げて、一粒一粒吟味しながら、石や欠けた米、ネズミの糞が混入していないかチェック。
それでも異物が入っていることがあったようで、その場合将軍はその異物を「そっと隠す」ということをしました。そうでないと、たくさんの役人が切腹になりますからね。
あれ?5人分余ってる!
料理は10人前作られています。余った食事は、周りの役人が食べていたと思います。
実際には、江戸城内全体で必要なもの以上にたくさんの料理が作られているのです。余った食事や食材は「余得(余分の利益)」としている記録があります。つまり、余るものとして最初から計上してあるのですね。それは、「微禄」(わずかの俸給)の者がすることとして、言わば見て見ぬふりをするような感じだったのです。中には、余った食材を使い、弁当まで作って勤め役人に売る者もいたそうですよ。
「役得じゃ。これも世の定めじゃ」
江戸城内の食事のための仕入れはこのように、最初から「余る」ことを前提に行われていたようです。常に使用量の何倍もの仕入れをして、余ったら「宅下げ」として役人が持ち帰りました。
鰹節など、2、3度削っただけで削り残し(ほとんど本体全部ですね!)は建前上「ゴミ」として処理。台所役人が持ち帰っていたようです。「今宵もゴミが大層あるの〜」とかいってほくそ笑んでいたのでしょうか。
魚は真ん中のフィレだけちょっと切り取って、残りの頭と尾は肉のついたまま一度棄てて、「ゴミとして」役人が持って帰りました。自宅で、「うんうん、ゴミも料理次第じゃの〜」と食べていたのでしょう。
鳥もササミを使うだけでその他を捨てて、その「ゴミ」を持ち帰りました。もも肉、胸肉、手羽元、手羽先もありますよ!
蒲鉾は賄役(まかないかた)からの注文20本に対して倍の40本を作りました。20本をあまらして(これもゴミでしょうね!)役人が家に持ち帰りました。
米も用意されたものの1割くらいしか使われてません。炊かれない米は「石が混ざっている」として台所役人がこれも持ち帰りました。これも「ゴミ」です。
こういうのって「役得」の範疇なんでしょうか!?
以上、江戸城内の将軍の食事の話でした。