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鶴を食べる?|江戸時代・将軍は鷹狩で鶴を捕らえ食べていた!

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鶴食べたことありますか?

鶴を食べたこと、さすがにないですよね。僕はありません!

日本では、1892年に『狩猟規則』を公布し、捕獲を禁止する鳥類として12種を保護鳥として指定しました。その中に鶴は入っています。

国によっては違い、アメリカなどは多くの州で鶴の狩猟が解禁となっています。(生息数が増えたから)以下の画像は、テキサスの狩猟グループの人のものですね。

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\僕も注文して食べてます(鶴じゃないです)/

江戸時代・鶴を食べていた人々

鶴は高位高官の料理でした。記録によると茶会の亭主役が近衛家熙(このえいえひろ)のときに、鶴が料理の中で振る舞われています。

この時は、将軍・徳川吉宗みずから鷹野で獲ってきた鶴を送られています。この時の献立は以下のようです。

汁、鶴、真刻ミ大根・青味芹・鶴ノ筋、一位様ヨリ進上、公方様御挙ノ鳥ナリ、院・享保九年十月二三日

公方様御拳ノ鳥。公方とは、この場合、将軍吉宗ですね。御拳(おこぶし)とは、江戸時代、将軍が、冬季に江戸の近郊へ出て、自ら鷹を拳にとまらせて、鶴などを捕えさせることです。

大名で将軍家から鶴を拝領できるのは、三家・三卿のほか、一部の高位高官に限られていたのです。

三家・三卿

江戸時代の「御三家」といえば「尾張、紀伊、水戸」です。

「御三卿」とは、田安徳川家、一橋徳川家、清水徳川家を総称した呼び名です。

御三家と同様に、将軍の跡継ぎを輩出することを目的に創設されました。八代将軍吉宗の時代、その次男宗武を当主として田安徳川家が、その四男宗尹(むねただ)を当主として一橋徳川家がはじまり、その後九代将軍家重の次男重好を当主として清水徳川家が創設されました。

各家は将軍と同じ江戸城内に屋敷を与えられ、将軍家の家族のような扱いを受けていました。あまり知られていない御三卿ですが、実は徳川将軍家と深いつながりがある高貴な家柄なのですよ。

鶴のすじ

この近衛家煕の会席には鶴がもちいられ、そして、すじを添えました。

鶴がごくまれにしか食膳にのぼらなかったことを示しているものに、生鶴でも塩鶴でも足の筋を一本か二本入れるのが鶴の賞味の仕方であると、「茶湯献立指南」で供膳作法を説いています。

めったに味わう機会がないから、その吸物が鶴なのか山鳥なのかわかりませんよね。それを鶴だと黙ってわからせるために、足の筋を添えることを誰かが案出したようなのです。

鷹狩復活! 鶴の料理

1716年(享保1年)、徳川吉宗は八代将軍の座につくと、生類憐みの令によって貞享以来久しく絶えていた鷹狩を、1716年(正徳6年)直ぐに復活させました。政治改革(享保の改革)の一環です。

家康に始まり、家光と鷹狩りの好きな将軍が続きました。しかし、「生類憐れみの令」を命じた五代将軍綱吉は鷹狩りをやめさせたのです。飼育されていた鷹は伊豆諸島で放鳥されたそうですよ。

徳川吉宗はみずからも鉄砲を打ちました。

享保10年3月27日に、下総国小金原で催した大がかりな狩猟では、勢子の数が数万人、獲物の鹿が673頭、猪・狼・兎の類が110頭、要した費用が2700両余りだったんです!(現代で4400万円ほど)

翌10年の同日にも同じ小金原で催し、獲物の総数480頭、費用は5270両におよんだとあるんです。(現代で5400万円ほど)

すさまじいですね。

しかし余りしばしば催したために、江戸近郊の猟場の鳥獣類が極端に減ってしまいました。

日光山の近くで雀を二千三千と捕えて籠に入れて運び、ひそかに猟場に放しておくというようなことまでおこなわれたらしいのです。

う〜ん。やらせ的ですが、鷹狩は楽しかったのでしょうね。

鷹狩のために

吉宗は、1716年(享保元年)10月に「御留場」を再指定しました。

「御留場」は、おとめば、と読みます。一般の狩猟を禁止する場所です。江戸時代、将軍の狩猟場をこう呼びました。実際には、江戸十里四方を鳥や動物の威嚇や殺生を禁じた地域としたのです。同年11月には、幕府任命の鷹師(鷹匠)を置きます。

「御留場」地図

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堀江家文書(ほりえけ・もんじょ)首都大学東京コレクション図書情報センター蔵

この絵図をみると、江戸近郊の農村(当時)が6つのエリア(筋)に分けられているのが分かります。それは、東から西へ葛西筋、岩淵筋、戸田筋、中野筋、目黒筋、 品川筋となり現代の東京 23 区にほぼ重なるようです。当時農村に発布された「御鷹場御法度手形」では、 鷹場に家や寺社の新築が禁止されていました。鶴がいる期間は、立ち入り、そして凧揚げも禁止です!

そして、組織としては幕府任命の鷹師(鷹匠)組織は頭に戸田勝房を任命し、その配下に鷹師同心上役2名、見習い3名、鷹師同心33名を一組としました。また別組として頭に小栗正を任命、その配下に鷹師23名、上役3名、見習い2名、鷹師同心33名を決めたのです。

両組合計で120名ですよ!

二組の鷹部屋(鷹匠は千駄木組と雑司ヶ谷組の二組)で飼育する鷹は、およそ50羽。

鷹の数、合計100羽です!

飼育される鷹は、オオタカが一番多く4割近くを占め、二番目がハイタカの3割ほどです。ハヤブサは1割ほどだったらしいですよ。

鷹を飼うために

鷹を訓練する場所を「御捉飼場(とりかいば)」といいます。

鷹の餌は、スズメとハトにかぎられ、鷹は一日にスズメを10羽、ハトを3羽を食べました。

鷹は2組で100羽ですから相当な量を食べることになります。

1年で、、、

  1. スズメ:365,000羽、
  2. ハト:109,500羽
  3. 合計474500羽

鳥が足りないときには、犬を食べさせたという記述もあります。生類憐れみの令の時代とはあまりにも違いますね。

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広重の絵

これは、歌川広重の「名所江戸百景 箕輪金杉三河しま」です。

江戸時代の三河島(現・荒川区東日暮里)は鶴の飛来地でした。毎年11月になると、竹の囲いをめぐらして、鶴の餌付けが行われていました。これは、鶴に人の姿で余計な心配をかけないようにとのこと。

ここは、将軍が自ら鷹を使って鶴を捕獲し、朝廷に献上する「鶴御成(つるのおなり)」の猟場の一つでした。

この絵の遠景に網差(あみさし)と呼ばれる役目の人が描かれています。担いでいるもみ(籾)をまいて鶴に餌付けをしているのです。つまり、鶴の飼育場所ですね。

いつから鶴を食べたか

いつから武将たちが鶴を食べたかについてははっきりしていません。

豊臣秀吉が朝廷に鶴を献じて、「鶴献上の例」を開いたといいます。

足軽の家に生まれた秀吉は、信長や家康と違い、幼少期から武家文化に親しんできたわけではありませんでした。

鷹狩りへ強い関心を見せるのは、実は天正15年(1587)に九州を平定し、鷹の産地として有名な日向国を擁する島津氏を服属させてからです。秀吉は島津氏を鷹巣奉行(たかすぶぎょう)に任じ、他の家臣にも鷹の養育を命じるなど、積極的に質の良い鷹を求め始めたのです。

江戸幕府も「生類憐みの令」を出した綱吉以外は、年始の嘉例として代々それを踏襲して幕末まで鷹狩をしています。

鶴を食べるようになったのは、鷹狩が盛んになった結果としての風俗であったのかもしれませんね。当然これは庶民の風俗ではありませんでした。

記録上の鶴の汁が、信長・秀吉の時代には少なく、寛永以後の茶会席ににわかに多くなってきたのは、徳川幕府の支配体制が安定して平和になった結果、鷹狩を催す機会がふえてきたためであろうと思われます。

葛飾北斎が描いた丹頂鶴

やっぱり戦争に明け暮れている状態では、狩りなどしている余裕ありませんからね。

信長・秀吉時代以前の、足利将軍を饗応した献立などには、鶴の記載はほとんどみられません。

鷹狩と鷹匠制度の目的

将軍吉宗が、鷹狩と鷹匠制度を再興したのは、食膳を豊かにするためではなかったのです。平和に馴れて、優柔惰弱に流れやすくなってきた武士一般の気風を、すべての政治とともに天和以前にかえすのが目的でした。

つまり、鷹狩を通じて、「尚武の精神」を呼び起そうとしたのです。

鷹狩を盛んにおこなった吉宗は、一方では代々の幕閣がそうしたように、質素倹約を奨励し
ました。

また自身も率先して倹約の励行に務めたことは知られています。

1722年(享保7年)の2月に、室鳩巣が加賀の奥村源左衛門に送った手紙のなかに、将軍の倹約はいよいよ徹底して、朝夕は一汁三菜、城中で老中などに出す膳部は一汁一菜、酒もそれまでの三献から一献に節約するようになった(『兼山秘策」)と書いてあ
ったといいます。

こんな中、鷹狩をして鶴が食べられていた

吉宗の時代、幕府の台所は逼迫(ひっぱく)していました。同年の七月に、幕府はついに諸大名に対して、知行一万石につき百石の上げ米を課し、代りに参勤の期日をゆるめるという政策をとりました。

この場合の上げ米とは、幕府が諸大名に課した上納米です。

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それでもなぜ鷹狩?そして鶴?

鷹は元々自然では、自分より大きな鶴を襲うことないと言われています。

その鷹を飼い慣らし、鶴など大型鳥類を襲わせるように調教することが、将軍の権威を見せることになると考えられていたのです。

権威です!権威のため!

鷹狩りは古来より君主の権威見せる儀式なのです。日本だけでなく草原の覇者モンゴル帝国や、中央アジアから満州にいた契丹でも権威の象徴となっていました。鷹狩は、中央アジアから西アジアの一帯で、遊牧民が始めたのではないかと言われています。

契丹人の絵

吉宗は権威の復活と尚武奨励を込めて鷹狩りを復活させたのですね。

そして、どうしても鶴を捕らえないといけないもう一つの理由は、、、

鶴の肉は高貴なものと考えられていて、毎年将軍は新年のお祝いとして天皇へ献上していたからなのです。

実際,タンチョウヅルは大きくて,しかもおいしくなかったそうです。タカが襲うのはナベヅルだったそうですよ。

最後に、、、それ、本当に鶴ですか?

以前、豊岡の「コウノトリの郷」を訪れたことがあります。その時に、学芸員の方に、「コウノトリをツルと間違えることはありえるか」と質問しました。

その時の学芸員の方の答えは、「江戸時代など、コウノトリとツルは混同されていたようだ。」というものでした。

そこで、かつてそんなに日本全国にツルはいたのだろうか、と、常々疑問だったことが晴れました。

ツルにまつわる芸術

ツルにまつわる芸術は多いですね。

能の「鶴亀」はとても有名です。


(神楽坂deかぐらむらより)

他にも、長唄「鶴亀」そして現代は団伊玖磨のオペラ「夕鶴」もありますね。

尺八の曲には「鶴の巣籠」という曲があります。鶴巣篭は、尺八古典本曲を代表する一曲です。

鶴の恩返し?

鶴の一声という諺があるが、コウノトリは鳴かないのです。

コウノトリは発声器官が発達していないため、ヒナのころの一時期を除いて鳴くことができないのだそうです。

クラッターリング

コウノトリのコミュニケーションの方法は、上下のくちばしをたたいて「カタカタ」と音を出すこと。これはクラッターリングというものです。

(機織り機の音はカタカタとします)

これは「鶴の恩返し」の中などに出てくる機織りの音に似ています。やはり、あの話はやはりコウノトリが主人公だったのかもしれませんよ。

「松上の鶴」?

美術の世界はもっと顕著で、花札の「松上の鶴」という絵柄がおめでたいものとしての象徴です。

マツにツル、でこれは「しりとり」にもなっていますね。大変、風流な絵ですが、日本に飛来するツルは木にはとまらないのです!

木にとまるのはコウノトリ、しかもよく松を生活の場として好むのです。そうなると益々コウノトリの可能性が大です。あの花札も「松にコウノトリ」かもしれません。

花札「松に鶴」

江戸時代の人は、多分にコウノトリのことを鶴と見間違えていたのかも、、、。

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