トピック

日本橋は江戸時代10回も焼失した!|20回ほど架け替えられた江戸の象徴・驚きの事実

本投稿にはプロモーションが含まれます。

江戸の象徴はあの浮世絵でもよくみる日本橋ですね。

歌にもなっていますね。

日本橋が焼け落ちたとは想像できません。ましてや、江戸時代10回も焼け落ちているのです。

江戸の大火は、北西季節風がはげしく吹く旱天続きの時期に多く、旧暦では正月から3月までが最も多かったのです。空気もこの時期乾燥していますからね。

烈風に煽られた火は、木造ばかりの家をなめ尽して空高く燃え上りました。そのため、火の粉が遠方にまで降り落ちたのです。延焼速度は想像を絶する急速だったのですね。

したがって、今日の私たちには、想像できないほど、どうしてこういうところまでが全焼したのであろうかと、思える焼失が多いのです。

江戸城焼失(明暦の大火)

明暦の大火で、天下の勢を結集して造営した江戸城の天守閣が類焼によって焼失しました。これは大変ショッキングな事件です。

この明暦の大火では、まず本丸に飛火して西丸の外は全焼しました。

大奥が焼失したこともあります。1668年(寛文8年)2月6日の小日向から出火した大火で、同様に堀を飛びこえて本丸の大奥に延焼したのです。

また、1717年(享保2年)正月22日小石川馬場から出火した大火も200余町を灰燼に帰し、 死者も100余人を出しました。

この時大名屋敷も多数焼失しています。火は本丸にまで及んだのですよ。

この時八代将軍吉宗は自ら本丸の屋上に登り、身に降りかかる火の粉の中で防火しました。すごい光景ですね。そのために、本丸炎上はまぬがれたといいます。将軍がこのような総指揮をしなければ、本丸炎上ということになっていたかもしれませんね。

\いつも古地図を片手に散歩しています/

日本橋焼失!!!

天下の名橋日本橋も明暦の大火で焼失しました。

一度や二度は焼失したかもしれないと思う人もいるでしょうね。しかし、前述したように、幕末までに10回!!!も焼け落ちたんですよ!

一度の大火で、隅川の二つの橋をはじめ、大小53の江戸の橋が焼失したという有様で、江戸城焼失とともに、隅田川の新大橋や 永代橋が完全に焼け落ちてしまったということは、今からすれば信じられないようなことです。

隅田川を越える火

現実には、江戸の大火は隅田川を容易に飛び越えて延焼しているのです。そのため、猛火に包まれると、どうしようもなかったのです。

たとえば「お七火事」と呼ばれる1682年(天和2年)12月28日の大火では、「天和笑委集」によると、本所や深川の人たちが心配している浅草の火が、隅田川を越えて延焼したことを次のように記しています。

ただ浅草の火をあやふくおもひゐけるに、此火きしを限に焼とどまりしかば、あらめでたや千秋万歳、今はことなるしさいあらしと心をくつろげ、おもひをはれてゐたりし所に、浅草御門の火、本両国橋の町家にうつり、其あひ四丁にあまりてほとりをしらぬ角田川を安々と飛こし、ゑこう院本堂のむねにうつる。

そして、歌舞伎や人形浄瑠璃の劇場などを焼き払った火が隅田川のほとりまで焼き尽し、大河をやすやすと飛びこえ、みつまたの小島へ延焼して川向うを海まで全焼したことも記されています。

このような様子ですから、大小多数の橋が架けられていた江戸では、大火で橋も焼け落ちることが多かったということが想像できます。

「御触書寛保集成」によると、1660年(万治3年)正月、「どの橋にも、荷物を積み置いてはならぬ」、という条文に続いて、「橋の両向うの者どもは橋が焼けないように橋をふせぎ仕る(つかまつる)べきこと」、と記されています。

明暦大火による体験からの対策と思われます。橋を焼失させないように、火災現場では、そのための消火隊が全力をあげて防火につとめたのです。

それでは、天下の名橋日本橋が、明暦大火をはじめとして、幕末の1858年(安政5年)までに10回も焼け落ちていることを書こうと思います。

「明暦の大火」の跡を歩いてみたら、様々なものが見えてきた!江戸の都市形成明暦の大火はとても大きな火事でした。その後、江戸は火除地を作るなどして、防火対策に重点をおいたのです。その明暦の大火の火元や、火除地を実際に歩いてみました。...

日本橋を焼失させた10回の江戸の大火

1)明暦の大火による日本橋焼失

  • 通称:振袖火事
  • 出火地点:本郷丸山本妙寺
  • 死者:最大で10万7千人と推定
  • 焼失:江戸大半(江戸城天守焼失)
  • 大小名邸 500 余、寺社仏閣 300 余、倉 9000 余、橋 61
  • 焼失面積:4.748㎢
  • 旧暦:明暦3年正月18日 新歴:1657年3月2日
  • 発生時刻:12時

「明暦炎上記」によると「橋残リタルハ呉服丁ノ一石橋・浅草橋計、此外ハ皆焼失ス」とあります。

そして、「後見草」の記事によると、「所々にて橋々焼落申候中に、風吹廻し能候や、一石橋残り…..十八日に焼……翌十九日も云々」と、あります。

これから、日本橋が焼失したのは十八日であったと考えられます。それゆえ、「むさしあぶみ」によると、十九日に江戸城を焼いた火が京橋・中橋のあたりに延焼した時、「中橋を北へとこころざすものもあり」という表記は、中橋以北の市街は、もう日本橋の焼失とともに、かなり焼跡になっていたのでしょうね。人々は、その焼跡を歩いて避難したものと思われます。

日本橋焼失に、車長持や町人持ち出しの荷物が大きく関係しています。「むさしあぶみ」には、「伝馬町から浅草まで八町四方人と車長持でひしめき錐(きり)を立てるところもない」と書かれています。

「後見草」には、以下のようにあります。

「日本橋上車長持推詰り、橋の中は一足も行がたし。連二人とも申合せ、欄干をとらヘ一足づつ欄干の外壱尺程の所を漸に歩み、南の橋台にあゆみ付、危き目にて渡り」

「危き目にて渡り」とは、焼失寸前の状態ですね。このあと間もなく日本橋は焼け落ちました。進行全く困難であって、消火活動はほとんど不可能であったと想像できますね。

江戸の外食文化1|始まりは大火事から!明暦の大火がきっかけに現在は多様な外食産業が盛んです。その外食文化の原点は江戸時代にあったのです。ある災害がきっかけとなって外食が人々に広まっていきます。...

2)天和の日本橋焼失(八百屋お七の火事)

  • 通称:八百屋お七の火事
  • 出火地点:駒込大園寺
  • 死者830~3,500人余
  • 焼失した武家屋敷:241、寺社95
  • 焼失面積:7.665㎢
  • 旧暦:天和2年12月28日 新歴:1683年1月25日
  • 発生時刻:14時

歌川豊国 八百屋お七

天和の大火の出火元は駒込の大園寺だとされています。
大円寺から出火した火事は、隣の同心屋敷に延焼し、本郷方面に燃え広がりました。本郷にあった加賀藩前田家の上屋敷も炎上したようです。火事は本郷から湯島・神田方面に向かいました。

幸いにも、湯島天神・神田明神の社殿は焼失を免れたようです。火事は柳原の土手沿いに東に向かい、浅草橋門も焼失し、火の手が近づいた小伝馬町牢屋敷では、明暦の大火の時と同じように囚人の切放しが行われました。

浅草橋門を焼失させて火事は、隅田川を飛び越えて、ついには回向院に飛び火しました。回向院もまもなく焼失し、火事はさらに隅田川沿いに南下して、霊厳寺、富岡八幡宮も焼失させて、ようやく翌日29日の午前5時頃に鎮火しました。

富岡八幡宮(歌川広重)

この火事で焼け出された有名人に、松尾芭蕉がいます。

なぜ、八百屋お七の火事か

八百屋お七に関しては、いくつかの伝説が残っています。その一つは、以下です。

この火事で、江戸は本郷の八百屋一家が焼け出され檀那寺であった吉祥寺に避難しました。八百屋一家には「お七」という名の16歳の娘がいました。このお七が寺の小姓と恋仲になったのです。やがて家も再建、一家は寺を引き払いますがお七の小姓への恋慕は募るばかりでした。恋の病にとりつかれたお七はついに恐ろしい考えを抱くようになります。

「もう一度火事が起これば恋しいあの人に会えるかも」

ついに、お七は自宅に放火します。幸いすぐに火は消され大事には至りませんでしたが、放火は大罪です。

お七は捕らえられ、火あぶりの刑に処せられてしまったのです。

ちなみに、「天和の大火」は別名「お七火事」とも呼ばれます。そのことから、お七の放火が原因の大火と勘違いされることもあるのです。しかし、お七の話の中では、「天和の大火」ではお七はあくまで焼け出された被害者なんですね。

3)元禄の日本橋焼失

  • 被害詳細不明
  • 出火地点:石町 2丁目(日本橋区)
  • 焼失面積:2.734㎢
  • 旧暦:元禄11年12月10日 新歴:1699年1月10日
  • 発生時間:20時

1698年(元禄11年) 12月10日、日本橋の石町から出火、八丁堀まで延焼し、日本橋も焼け落ちました。「年代炎上鑑」に「同年(元禄十一年)十二月十日庚戌ノ日本石町二丁目より出火、八丁堀迄焼、日本橋焼、並中村座・市村座類焼云々」とあります。

4)正徳元年(一七一一)の日本橋焼失

  • 死者および焼失被害:詳細不明
  • 出火地点:連雀町(神田区)
  • 焼失面積:4.201㎢
  • 旧暦:正徳元年12月11日 新歴:1712年1月18日
  • 発生時刻:6時

この年は旧暦5月7日に正徳と改元、12月11日に神田の連雀町より出火、霊岸島まで焼失、日本橋も焼け落ちました。

「万年記」正徳元年十二月十一日の条によれば、「未中刻、筋違橋内出火、至通町・本町・日本橋・中橋・霊岸島・八丁堀辺 焼失、日本橋焼落」とあります。

車長持

この時、幕府は、全国幕府領に設置してある法令などを領民に公布掲示した“高札”を、内容も古くなり、その後変更もあったとして建て替えました。
その中に、火事の際避難にあたり、混雑を招きまた二次災害の源になるとして「車長持」に家財などを載せて避難することを、30年ほど前の1683年2月(天和3年1月)に禁じていましたが、このたびの高札建て替えにあたり、その製造までも禁じたのです。

“車長持停止ス。タトヒ誂え候者(注文した者)有共、造ベカラズ(製造してはいけない)。一切に商売スベカラザル事”。

車長持とは、衣類や家財道具などを収納した長持に車輪を取り付け運搬できるようにした、木製のキャスター付き収納ケースです。

火事で避難する時、たくさん必要な荷物が積めて、時には子どもなども積んで、さぞかし便利であったでしょうね。しかし、混雑している避難路をふさぎ、最後はもてあまして道路上に放置などされると、それに飛び火し燃えて大変な事になったと思われます。

再三再四の使用禁止のうえ、遂に幕府が製造まで禁止したのは、やり過ぎとの非難が浴びせられそうですね。しかし、幕府の禁止令をものともしない庶民を相手にして、避難路の開放、二次災害防止を考えれば適切な処置だと思います。

現在で言えば、避難路の中央に立ち往生した車両があるようなものです。

またこの高札建て替えの時。「火事の節、地車大八車ニテ荷物ヲ積退ベカラズ」とあるのも車長持禁止と目的は同じです。「地車」とは荷物運搬用の台車、「大八車」とはこれも荷物運搬用の車です。先頭に梶棒がついていて1~2人で引っ張るようになっています。

ともに避難路をふさぐおそれがあるが、平常時はともに荷物運搬車として活用されているので、製造禁止とはならなかったのですね。

車輪のついていない長持は、部屋や押入の片隅で衣類などを入れるなどして活用されているが、車長持を連れて避難する姿は、大風呂敷に家財道具一切を入れ背負って避難する庶民にとって、富の象徴と写ったのかもしれません。或いは避難時、邪魔物として川に落とされたものもあるかもしれません。

結構、世論を気にして禁令を掲げている幕府・町奉行にとって、避難時の邪魔物として製造禁止にしても問題は起こらなかったのかもしれませんね。

ちなみに関東大震災の時は、荷物を乗せた大八車が道を塞ぎ、火災を拡大させる要因になったといわれています。

5)正徳六年(一七一六)の日本橋全焼(記述により半焼)

  • 被害詳細:不明
  • 出火地点:湯島無縁坂(下谷池端)
  • 焼失面積:7.609㎢
  • 旧暦:正徳6年正月11日 新歴:1716年2月4日
  • 発生時刻:6時

この時は正月十一日に湯島無縁坂から出火、霊岸島へ延焼した時に焼失しました。「月堂見聞集」によると「日本橋半焼」とあります。

6) 明和の日本橋焼失

  • 死者:1万4700人 行方不明者:4060人
  • 焼失した町:904
  • 出火地点:目黒行人坂大園寺
  • 焼失面積:14.063㎢
  • 旧暦:明和9年2月29日 新歴:1772年4月1日
  • 発生時刻:14時

有名な行人坂の火事で、明和九年(一七七二)二月二十九日目黒行人坂の大園寺から出火、千住まで焼き払った江戸大火でした。

「北更遺言」によると、「あらめ橋落、伊勢町河岸・瀬戸物町・室町・駿河丁・両替町・鞘町・品川町・小田原町通り、有河岸通、日本橋焼落」とあります。

7)文化の日本橋焼失A

  • 死者:1200人
  • 焼失した町530・大名屋敷80・寺社80
  • 出火地点:車町(芝区)
  • 焼失面積:9.379㎢
  • 旧暦:文化3年3月4日 新歴:1806年4月22日
  • 発生時刻:0時

1806年(文化3年)3月4日午前11時ごろに芝の車町から出火、折からのはげしい西南風に煽られ、麴町辻・京橋・日本橋・神田・浅草に燃え広がり、翌五日の午前十時ごろ鎮火しました。 このため日本橋も全焼したのです。「政鄰記」には大小の橋が30余ヵ所焼け落ちたことが記されています。そして、日本橋のことは次のように書かれています。

道三橋・銭瓶橋・呉服橋・常盤橋焼落、扱南伝馬町・中橋・日本橋・此間丁数五丁程、四日市土手筋不残、二本橋(ママ)・室町越後屋等、本町・石町・銀町・此辺左右今川橋迄(まで)一軒も不残、尤も橋も焼落。

8)文政の日本橋焼失B

  • 死者:2800人
  • 焼失家屋:37万(大名屋敷 47、武家屋敷 900 余、町人家 11 万 8 千余、土蔵 1630 余、橋 50
  • 出火地点:佐久間町(神田区)
  • 焼失面積:4.384㎢
  • 旧暦:文政12年3月21日 新歴:1829年4月24日
  • 発生時刻:6時

1829年(文政12年) 3月21日、神田佐久間町河岸から出火、北西風烈しく、日本橋・京橋・芝辺一帯を焼き、日本橋も全焼しました。

この時、橋の焼け落ちたものが63というほど多かったのです。

そのため、橋があるものと思って逃げて来たところが橋すでに無く、火は後ろより追かけて来て川に飛びこみ、このため溺死したものが多かったといいます。

日本橋の焼失については「春の紅葉」に次のように書かれています。

本石町に移れる火、本町・大伝馬町・室町・駿河町・伊勢町・小田原町・安針町・品川町・鞘町・両替町のすぢすぢ金座の官署を焼おはりて、日本橋を焼落し云々。

9)弘化の日本橋全焼

  • 死者推定800から900人(数知れず)
  • 焼失した町:126・武家屋敷400・寺社187
  • 出火地点:片町(小石川)
  • 焼失面積:8.739㎢
  • 旧暦:弘化3年正月15日 新歴:1846年2月10日
  • 発生時刻:14時

1846年(弘化3年正月15日)、小石川片町の北、武家地から出火、本郷・湯島・神田より鉄砲洲・佃島まで焼き尽し、日本橋も全焼しました。

「増訂武江年表」には今川橋の南詰で焼死体が12、3人あったのを見たと記したあとに「日本橋・江戸橋も焼落」 とあります。

「池魚録抄」にも「駿河町・品川丁・鞘丁・本町三丁目・日本橋焼落」と書かれています。

「天保弘化嘉永雑記」にも日本橋焼失の記事があります。この年の日本橋全焼については、「天言筆記」として刊行された「藤岡屋日記」のなかに、「火の用慎やんれぶし」というのを収載し、そのなかに、日本橋焼失を詠みこんでいるところが興味深いところです。

風はますます
ふきや町なれば
親父橋さへ
あきれた火事よ
最早江戶橋
もふあらめばし
日本橋さへ
焼落まする

10)安政の日本橋全焼(半焼が有力か)

  • 被害:町の数 259・武家屋敷 80余
  • 出火地点:相生町(神田区)
  • 焼失面積:1.206㎢
  • 旧暦:安政5年11月15日 新歴:1858年12月19日
  • 発生時刻:20時

1858年(安政5年11月15日)、神田相生町から出火、日本橋・京橋一帯を焼き払い、日本橋を半焼とも、あるいは全焼とも伝えています。

「続武江年表」によると「日本橋半分焼」とあり、「嘉永治年間録」には「橋ハ日本橋・荒布橋・和国橋・弁慶橋・和泉橋等焼る」とあり、 また、「見聞雑録」にも「一石橋は残る。 日本橋は焼落る」ともあるので、半焼と焼落るとの二つの記録があるのです。

橋は半焼でもたしかに焼けて通行不能になったことはその通りだから、どちらでもよいようなものですが、正確には月岑の記した「続武江年表」の半焼というものが正確なものに近いかなと思います。

それはこの書が、神田姫子町に住んでいた江戸の町名主斎藤月岑の著で、この日の火災で、月岑は役目柄出動していて、昼すぎに廻り道してようやく帰宅したところ、自分の家はすでに四時ごろ (午前十時ごろ)に類焼により焼失していたらしいのです。

それは、「月岑日記」に記してあり、 さらにこの火事の火元のことや焼失地のことなどが詳しく記してあること。また月写の自宅は焼失したが、土蔵は焼けなかったので、翌日から家族とともに土蔵住いをして、ただちに仮普請にかかり町名主役は一日も休んでいないことなどが記してあることなどからすると、斎藤月岑は日本橋が焼け落ちた状況が「半分焼」という状態であったことを自分の目で確かに見届けたので、そのことを正確に記したものと思われます。

まとめ

明暦三年(1657年)から安政五年(1858年)までの202年間に10回も日本橋は焼け落ちました。

江戸が火災の多い都市とはいえ、この数字だけ見ても驚きです!

まさに「火事と喧嘩は江戸の華」だったわけです。

将軍は江戸城で何を食べていたか|毎日冷飯を食べていた!?将軍は江戸城内で何を食べていたのか興味深いです。調べてみると面白いことがたくさんわかりました。...

中古しかありませんが、、、これはすごい本です。いつもこの本を持って各地をドライブしています。山川出版社「歴史散歩」×昭文社「全国道路地図」コラボ企画。各地の小さな史跡から歴史的な大きな史跡まで網羅しています。この本のおかげで驚きの出会いが何回もありました。

こちらの記事もオススメ!