「日本人の主食は、何か」と聞かれたら、多くの人が「米のごはん」と答えると思います。
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この投稿のまとめ
1)お米が主食というイメージは明治になってから
2)明治以前は、主食として雑穀など、さまざまなものが食べられていた
3)お米が主食になったきっかけは戦中の配給制度
4)お米がやっと主食の座についた昭和の時代、様々な食材を国民は食べ始め、それ以後、お米の消費は少なくなっていった
どれくらいお米を食べているの?
総理府編「国民生活白書」などの統計をみると、現代の平均的な米(飯)食度は1日1.4食です。10年間ほどの統計をたどってみても、その割合にほとんど変化がみられないのです。
毎回、3食お米を食べると言う人いるかな?、と考えた場合、疑問ですよね。街にはたくさんの食事があります。ラーメン、うどん、お蕎麦、をはじめとする麺類。ピザやパンなどの小麦粉を材料とするもの。お米以外の食事がたくさんあります。
米飯は、日本人の食事全体の約半分の賄い量にしかすぎないということ。これをもって堂々と主食といえるのでしょうか。
人口と米の生産高があわない!
実は、歴史的に米の生産高を持って日本の全人口の食糧とするには、断然足りなかったのです。
民俗学者・柳田國男が「明治大正史世相篇」で、こう言っています。
- 明治二〇年代に「米は全国を平均して、全食料の五割一分内外を占めて居る」政府側の調査をとりあげているのです。
- 以後はそれまでおもに都市の慣習であった米飯食がしだいに地方にも広がることになった、といいます。
- 理由は、台湾などからの流通米をも加えてのふんだんな軍隊食(米飯が主食)の徴兵経験をもって、地方にも広がっていったと言っています。
後で詳しく書きますが、農村部から軍隊に入る理由として「腹一杯、米が食えるから」という理由が多かったのですよ。
柳田國男が言っている明治20年代とは、初めて鶴岡市で学校給食が出た時代です。
あの給食は質素なものではなかったのか!?
これは、明治22年に出された初めての学校給食です。
おにぎりのお米は7分づき(搗き)米ですが、立派な白米ですね。全国的に農村部ではなかなか食べられなかったご馳走なのですよ。しかし、日本で最初のこの給食が出たのは、山形、それも米どころの庄内地方だったからこそ、実現したものだと考えられます。地方差があったのです。
1878(明治11)年に大蔵省が行った各府県の調査を用い、 日本海沿岸の平野地帯(秋田、山形、新潟、富山、石川)では米を常食、東日本では粟、蕎麦、 稗が多く西南日本では麦、甘藷が多かったとしています。
足りなかった米はどう補ったのか
弥生時代から
日本では、古くさかのぼれば弥生時代(紀元前2、3世紀)以降、稲作が盛んに行なわれてきました。
弥生時代だけでなく、どの時代においても、水田を開拓し稲を量産することが、為政者の中心的な施策ともなっていたのです。しかしながら、どの時代をとってみても、日本の国土における稲作は、全国民の全食を賄えるだけの生産量をあげることができなかったのは事実です。
つまり、国民全員に米が行き渡らないことが、歴史上長かったわけです。
米は神聖なもの?
弥生時代の集落の高床式建物は、全て高床式倉庫であったようです。人が地面に穴を掘って住んでいたときに、「米」は、湿気か来ず、ネズミにもかじられず、千木や鰹木で飾られた神殿みたいな建物に納められていたのですね。米は「神聖にして侵すべからざる」存在として認識されていたことになります。
その後、この高床式倉庫は神明造として、神社の建築に変化していくのです。
律令制においても米は、「租」とされ国庫に入れられました。国庫に入れられた米は宮廷の官人達が食べるためではなく、様々な物と交換されたり労働の対価として支払われたと考えられます。
すなわち米は「貨幣」の役割りをしたのですね。
江戸時代に大名の富、権力、地位を示すのに、領地からとれる米の収穫高をもって「~何万石」といった表現が使われましたよね。金本位制ならぬ米本位制が採られていたのです。米こそ価値の基準であったのですね。
その後の歴史での米収穫も
古くから「六公四民」とか「五公五民」という言葉があることからもわかるように、農村においては、収穫した米の半分以上を非食料生産者(おもに都市住民)に供出する責務を負わされていた史実があります。
「六公四民」、「五公五民」というのは年貢率のことで、六公四民ならば、六割が領主の取り分、残りの四割が農民の取り分ということです。
例えば江戸時代は
農民に納税義務といっても一人一人の百姓ではありません。江戸時代は村請制といって年貢は村単位で納めたので、領主取り分と村の取り分の分配比ということになります。
このように、近世の幕藩体制のもとでの年貢米制度は、そのもっとも極端な例といえます。
別の見方をすると、米を動かすことができたのは、政治経済の権力者であり、米は権力の集中するところ、つまり都市部(江戸など)に集められ、貯えられ、消費されたのです。
「いまわの米粒」
これは「ふり米」の話とも言われています。各地の農山村に伝わっているものです。死期におよんだ病人の耳もとで米粒を入れた竹筒を振り、いますぐに米を食べさせてやるから元気をだしなさい、と励ますストーリーなのです。
白いごはんをふんだんに食べるのが悲願だったから、せめて米粒の音だけでも聞かせてやろうという慰さめと励ましですね。この話が農山村に広く分布することには大変意味があります。
農民は稲は作りますが、米を口にしにくい状況におかれていたことを物語っているのです。
7割の人々の食事
時代によりその割合が多少かわりますが、近世・近代を通じて、農村人口は、ほぼ7割方と考えていいと思います。
日本人の一般的で伝統的な食事の形態は、農村部のものに求めるのがいいと判断することが多いです。
では、時代ごとの制度として生産量の半分以上もの米を都市部に供出していた農村部では、どうやって米の不足分を補ったのでしょうか。
株飯と雑炊こそが主食
日本のほとんどの地方に古くから開かれている畑では、主食ともなりうる作物が作られてきました。そして、周囲の山林からも食の恵みがありました。それらは、以下です。
- ムギ
- アワ
- ヒエ
- イモ
- ダイコンなど
- 木の実
- 山菜
そこで、米の不足分を上記のような作物や採集物で補うという食べ方の工夫がなされてきたのです。
工夫されてきた食べ物
以下が米中心でなく、他のもので作った代表的な食べ物です。
- 麦飯
- 粟飯
- 稗飯
- 芋飯
- 大根飯
- 筍飯
- きのこ飯
- 栗飯など
江戸期であれば、享保6年(1722年)に田中休愚が編じた「民間省要」にそのようすがよく描かれています。田中丘隅とも書きます。田中休愚(たなか きゅうぐ、寛文2年3月15日(1662年5月3日) – 享保14年12月22日(1730年2月9日))は江戸時代中期の農政家、経世家です。
田方に生るる百姓は、雑炊にしても米を喰ふ事あれど、山方野方に生まれては正月三ヶ日といへど、米を口に入るる事なき所多し、粟、稗、麦など食に炊とても、菜無干葉、芋の葉、豆ささげの葉、其外あらゆる草木の葉を糧として(後略)
糧として
ここで、「糧」という言葉がでてきます。これは、「糅(かて)」とも書きます。意味は「糅飯(かてめし)」のことです。米に雑穀、あるいは根菜を混ぜて炊いたのが、「糅飯」であったのです。それを、糅(糧)ともいいますが、より広くは「飯」といいます。
ですから、「飯」、と、「御飯」(ごはん)は区別されるべきなのです。
- 「糅飯(かてめし)」がケ(褻= 日常)の主食
- 「御飯(ごはん)」がハレ(晴 = 非日常)の主食
歴史的にみて、主食としてさまざまなものが食べられてきたということがわかります。
なお、「糅飯(かてめし)」を汁でうすめたものが「雑炊」ですね。かつて民間の日常においては、糅飯と雑炊こそが主食だったようです。
古い時代の主食をひとつに定めることはできない!
歴史的に、各地で様々な主食といえるものが見られます。
- 鹿児島県の奄美大島あたりでは、イモ(サツマイモ)とムギとが半々ぐらいの米なしの混ぜ飯を食べていたようです。
- 喜界島や屋久島でも、ほぼ同様。
- 屋久島では、イモを切ってムギの上にのせて炊きました。
そして、炊きあがったらイモとムギを混ぜて食べるのです。それにカツオと野草の煮汁を添えて食べもしたようです。
米はハレの日の食として貴重で、高倉で厳重に保管されていました。 - 大隅半島から熊本県の球磨地方、宮崎県の米良・椎葉地方にかけては、冬期にイノシシが獲れたあとは、猪肉が主食だったところもあるのです。肉がない時期には、ヒエとムギの株飯や、ダイコンの葉を干して細かくきざみ、味噌とムギを炊きあわせた雑炊などを主食としていました。
- 米良・椎葉地方では、カシノミギャーといって、カシの実を臼で搗いて水簸した澱粉を米に炊きあわせたり団子にまとめたりして食する習慣も長く伝えられていました。
- 四国から中部地方の山地にかけては、サトイモが重要な主食物のひとつでした。ゆでたり焼いたりして食べるだけでなく、練りつぶして餅状にして食べることも多かったのです。これをかい餅(掻き餅)といいます。
- 四国の山地などでは、正月に米の餅を搗かず、あんをまぶしたかい餅を馳走とした、という事例もあります。
- 中国山地でも稲作よりも畑作に頼るところが多く、そこでは麦飯や稗飯をおもに食べました。
- 広島県の山地では、麦飯にダイコンを混ぜて炊いた大根飯をもっともよく食していたこともあります。
- ダイコンが重要な主食物であったところは、かなり広範囲の山村にわたっており、富山県から北、秋田県へかけての日本海側一帯もダイコンが主要な食物でした。
- 中部地方以北の山村では、トチの実を貯えておいて、これを割って身をとり、灰汁で煮てアクを抜き、それを団子や餅にして、冬のあいだの主食とするところもあったといいます。
猪の肉が主食の地方があったとは驚きです。
江戸患い(江戸わずらい)
江戸時代、米を主食にしていた者には、ビタミンB1不足による脚気が蔓延していました。それは江戸で多かったのです。米は主に都市部で消費されていたことがわかりますね。
そのため脚気は別名「江戸患い(江戸わずらい)」とも呼ばれました。
第3代将軍・徳川家光、そして第14代・徳川家茂も脚気で苦しんだのですよ。権力者の食事内容は記録されていますが、庶民がどのようなものを食べていたのかは、推定するしかないですね。
しかし、この「江戸患い(江戸わずらい)」のように江戸で顕著に発生したことを考えた場合、江戸時代までは一部の人をのぞいて、たとえ米を食べることがあっても白米ではなく玄米を食べていたと思われます。そして、米以外の麦などの雑穀を食べることが多かったのではなかったかと推定できるわけです。
江戸患い(江戸わずらい)については薩摩人と豚肉の話題にも書いてあります。そして、将軍は何を食べていたか、という話題でも書いています。どうぞご覧ください。
主食が米という考えは明治から
明治という国家は、有形無形のさまざまな分野で「日本」という統一を性急にはかった形跡がみられます。
一方に、開国による西欧文明への過剰なまでの反応がありました。そして、他方に、幕藩体制という、いうならば地方分権の前代から、官僚体制による中央集権の時代への大転換があったのです。
大政奉還の絵(邨田丹陵)
神仏分離、皇国史観、国民という概念など、いまにして思えば、ほとんど一夜にしての「国家思想」の統一がなされたのですね。
東京上野公園の様子
ある種のあきらめ
米は前代から神聖視され、絶対視もされてきました。しかし、米が主食材となりえないことへのある種のあきらめを誰もがもっていたのです。米の生産量が人口に対して、そもそも少ないですからね。「いまわの米粒」の伝説がそのよい例です。
主食の構成変化は
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(平野師応(1886)「農事統計表」東京大日本農会 )
まだまだ明治19年になっても、半分くらいしか、米は主食になっていませんね。
明治19年の各地の常食比率
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