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江戸の外食文化3|江戸の料理といや〜「天ぷら」だぁ!

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日本の代表的料理として知られる「天ぷら」。「江戸三昧(江戸の郷土料理)」の一つとして、江戸料理の代表的なものです。「天ぷら」は屋台に始り、後年高級店へと変化していったのです。


今や「TEMPURA」は世界的に有名ですね。

日本古来の油で揚げた料理

唐菓子

日本に「揚げ物」が伝わったのは8世紀から9世紀ころ、奈良・平安時代と言われています。しかし、この時は今のような「おかず」ではなく、米粉を練ってあげた「唐菓子」として紹介されました。平安貴族はこの「唐菓子」が大好きであったらしいです。

精進揚げ、または、衣揚げ

鎌倉時代には精進料理として「揚げ物」が伝来しています。この頃には、油を生成する技術も発達していなかったため、油を大量に使う揚げ物を食べることそのものが難しかったようです。それゆえに庶民には浸透していかなかったようです。

これらのものは植物性の材料を使ったもので、いわゆる「天ぷら」とは別系統のものです。

天ぷらはどこから来たか

天ぷらの語源には諸説あります。

  • ポルトガル語の「テンペラート」(油を溶くという意味。テンペラ画に同じ語源)
  • ポルトガル語の「テンポーラ」(カトリックの季節行事で食べられたもの)
  • ポルトガル語の「テンペロ」(料理するという意味)
  • スペイン語の「テンプロ」(寺院を意味する)

我が国に南蛮料理を初めて伝えた書「南蛮料理書」に「てんふらりの仕様」というものがあり、鳥の肉を使うと記されています。「てんふらり」とは、小麦粉をつけて揚げるとも書かれています。これは、南蛮料理の紹介本であり、人々にはまだ天ぷらは食べられていないと思われす。

江戸時代の代表的料理書「料理物語(1643)」には衣揚げも「てんふら」も書かれていません。

「料理食道記(1669)」の「てんふら 小鳥たたきて鎌倉、えび、くるみ、くずたまり」が「てんふら」と書かれた初めての文献です。

「料理献立集(1671)」には、「どじょうくだのごとくきり、くずのこたまこを入、くるみ・あふらにてあげる」と衣揚げと思われる記述が見られます。

鸚鵡籠中記(おうむろうちゅうき)は、元禄の頃、尾張藩の尾張徳川家の家臣であった朝日文左衛門重章の日記ですが、ここに「天ぷら」は出てきます。元禄6年(1693)正月29日に「酒の肴、てんふら(嶋えひ、とうふ)麩(ふ)にしめ」と書かれているのです。天ぷらを肴に一杯ですね。

「天ぷら」「さつま揚げ」「つけ揚げ」|地方により呼び方が違い混乱する!その実態は?「天ぷら」と呼ぶものが地方によって違うということに驚きます。その「天ぷら」の歴史的な面、そして現在の各地での扱い、名称などを書きました。...

安土桃山時代に伝わったか

色々調べると、日本の「天ぷら」は、安土桃山時代に伝わった南蛮料理が変化したもののようです。当時の油は食用ではなく、灯明用でした。初期の天ぷらは主に「ごま油」、「榧油(かやあぶら)」などが使われていて、時々オリーブオイルも使われていたようですよ。オリーブオイルは「南京油」といいました。

「榧油(かやあぶら)」は、、、

種子は食用となり、焙煎後の芳香から「和製アーモンド」と呼ばれることもある。生の実はヤニ臭くアクが強いので、数日間アク抜きしたのち煎るか、クルミのように土に埋めて果肉を腐らせて取り除いてから蒸して食べる。あるいは、灰を入れた湯で茹でるなどしてアク抜き後に乾燥させ、殻つきのまま煎るかローストしたのち殻と薄皮を取り除いて食すか、アク抜きして殻を取り除いた実を電子レンジで数分間加熱し、薄皮をこそいで実を食す方法もある。果実は落下したものを自動車が踏み潰すと路上が滑りやすくなるほど油分が多く、食用油や灯火用に使われる。

ウィキペディアより

オリーブオイルは、、、

日本の歴史に始めてオリーブオイルが登場するのは、約400年前の安土・桃山時代のことです。当時、キリスト教伝道のため日本を訪れたフランシスコ派のポルトガル人神父が持ち込んだものでした。そのため、蘭方医たちが、「ホルト(ポルトガル)の油」と呼んで薬用に使ったとされています。
その後、江戸時代の鎖国政策により、日本におけるオリーブの普及に歯止めがかけられました。江戸時代に書かれた「本朝食鑑」という書物では「外科を学ぶもので、オランダ流を学ぶものは、ポルトガルの油を用いている ( 中略 ) ただ、南蛮船が伝送するものだけを用いているので、価もやすくなく、量も少ない。そのため代用としてごま油が用いられている」( 意訳 ) とあり、オリーブオイルを手に入れるのに苦労した往時が偲ばれます。

Nippon Olive HPより

南蛮屏風

徳川家康は本当に「天ぷら」を食べ過ぎて亡くなったのか

僕が少年時代に読んだ「マンガ日本の歴史」では、家康は天ぷらを食べ過ぎて亡くなった、という記載があり、それをとても印象深く覚えていました。

しかし後に、死亡した時期と天ぷらを食べた時期が離れている、ということがわかり、印象が変わりました。

死因については、をかやの油で揚げ、その上にすった韮をすりかけた天ぷらによる食中毒説が長く一般化されてきた。しかし、家康が鯛の天ぷらを食べたのは、1月21日の夕食で、死去したのは4月17日と日数がかかり過ぎていることから、食中毒を死因とするには無理があった。

ウィキペディアより

家康は健康オタクでとても食べ物などに慎重だったようです。部下に命じて、大鯛2枚、甘鯛3枚を揚げさせお腹いっぱいになったといいます。本当でしょうか。73歳の老人がそんなに一人で食べられると思えませんが、、、。いづれにしても大食いしてしまったのですね。

江戸城ではその後、「天ぷら」は御法度になりました。リンク先にもその話題は書いてあります。ご覧ください。

天ぷらは屋台から始まった

江戸では「天ぷら」といったら材料を魚に限ったものの呼び方でした。「江戸前」の魚介を使ったものを「天ぷら」と呼び、野菜揚げとは別にしていました。

野菜は「胡麻あげ」と呼ばれていたのです。江戸前の新鮮な魚介の「天ぷら」屋台が街頭に現れるのは、江戸中期、天明5年(1785)です。江戸の「天ぷら」についてはリンク先にも書いてありますので、ご覧ください。

そのころの天ぷらダネは、以下のようなものです

  • アナゴ:夏から秋が旬
  • ギンポ:全長約20cm で細長いドジョウのような魚/3月中旬から4月が旬/船橋のものが珍重されました
  • 貝柱:船橋、浦安、羽田沖のバカガイ/11月から翌2月まで
  • ハゼ:秋が旬
  • キス:5月から7月が旬
  • 車海老:羽田、船橋のもの

竹串に刺して、醤油につけて食べました。

江戸時代の「天ぷら」屋のたいがいは屋台です、そして橋のたもとにありました。橋詰は防火の意味から広場になっていたからです。火事の多い江戸では、「天ぷら」は室外で商売するのが最適でした。客は食べた後、橋の欄干に汚れた手をなすりつけたようですよ。

「近世職人尽絵詞」には下級武士が顔を手拭いで隠して食べていたり、丁稚小僧が手づかみで食べていたりしています。これに見られるように、高級な料理ではなかったようですね。

高級「天ぷら」店出現

「天ぷら」屋台がどんどん繁盛していく中、高級「天ぷら」店も出てきます。享和年間(1801〜1804)、吉兵衛という日本橋に屋台を出していた者が、それまでの食材をやめて高級な食材を扱いだします。それがきっかけで「天ぷら」屋台にも変化が生じます。1800年代に食べ物が贅沢になり、高級な「天ぷら」屋が出現するのです。ちゃんと座る席を設けた居見世ができたのが、文化年間ごろ(1804〜)です。

お座敷天ぷらは文久の頃(1861~1863年)に登場しています。文久三年(1863)に浅草黒船町の福井扇夫という人が、「鮮ぷらの出揚げ」という名で大名屋敷などにネタとなる魚介と器具を持ち込み、客の目の前で天ぷらを揚げて出しました。それが、ちまたで「大名天麩羅」と呼ばれるようになり、これがお座敷天ぷらの起源とされているのです。

竹串に刺して食べていますね

そして、幕末安政期には「天婦羅屋」として店構えを持つ店が増えます。慶応年間(1865〜)には庭もあり、畳に座り食べられる高級「天ぷら」店ができるのです。今まで、「下手(したて)なもの」として見下されていた「天ぷら」ですが、粋を凝らした贅沢な天ぷらを豪商や上流の武士も食べるようになったのです。

御座敷料理の「金ぷら」と「銀ぷら」

江戸末期になると高級な「天ぷら」が出てきます。それが「金ぷら」と「銀ぷら」です。「金ぷら」、「銀ぷら」は江戸両国柳橋の深川亭文吉が創始者で、江戸時代末期に大流行しました。その流行の金ぷらのつくり方が後世に伝わりその後、大正、昭和初期にかけて、小麦粉と卵を使った衣が一般的になったのだそうです。

「新版 御府内流行名物案内双六」より

この絵双六(すごろく)には料理屋・蕎麦・蒲焼・すし・菓子屋のほか天ぷら屋の名前も見ることができます。
絵双六には「すわ町 金ぷら」という文字、そして黄色い天ぷらの絵が書かれています。「金ぷら」とは卵黄を加えた小麦粉の衣をつけた天ぷら(衣に蕎麦粉を使った天ぷらを指すことも)のことです。高価な卵を使うことによって屋台の天ぷらとは一線を画したと言われ、諏訪町(台東区駒形あたり)にあった「金麩羅屋」は、その「金ぷら」を出すお店として繁盛していました。

「金ぷら」「銀プラ」の違いは以下です。

  • 金ぷら:小麦粉に卵黄を加えたもの 薄衣で揚げ油は胡麻油でなく椿油で揚げる
  • 銀ぷら:卵黄の代わりに卵白だけを加えたもの 厚めの衣の天ネタを胡麻油で揚げる

金プラ屋・寿司屋・蕎麦屋等の店舗などをランキングした「江戸流行細撰記(さいせんき)」嘉永六年(1853)のものです。「金プラ屋ごま」として、櫓下柳屋や中村屋、三河屋、小倉屋など25軒の金ぷら屋が載っています。店名の下には「御ひとりまへ 百文より五十六もん ねだん いろいろ てがるにござります」と記されている。100文は、約2500円です。

東西の「天ぷら」

守貞謾稿「近世風俗史」(1837年)によれば、「京坂にててんぷらと云、油をもちざるを半片と云也。江戸には此天麩羅なし、他の魚肉、海老等に小麦粉をねり、ころもとし、油揚げにしたるを天ぷらと云。此天麩羅京坂になし。有、之はつけあげと云」、「この天麩羅一つ四文にて、毎夜売り切れるほど也、さて、一月も経たざるうち近所処方に天麩羅の店できて」と記されています。

これからわかる上方と江戸の違いは以下です。

  • 上方の「天ぷら」:魚のすり身を丸めて揚げたものを「はんぺん」といって「天ぷら」と呼ばれていた
  • 江戸の「天ぷら」:江戸前の海や河川で採れた魚介類を「すり身」にせず、衣を付けて油で揚げた

これを知って驚きました。実際に今でも関西や四国、九州では、「魚のすり身を揚げたもの」を「天ぷら」と呼ぶところがあるからです。

そして、岐阜、愛知では魚のすり身を丸めて揚げたものを「はんぺん」と呼びます。

僕の故郷鹿児島では、「魚のすり身を揚げたもの」を「つけ揚げ」と呼びます。

「魚のすり身を揚げたもの」は、関東では「さつま揚げ」ですね。 関東で「天ぷら」というと、衣をつけて揚げたものです。

江戸時代からの東西の文化の差が今でも残っていると驚きました。

明治の二大天ぷら専門店

銀座:「天金」

天金は明治から太平洋戦争前までは東京でもっとも知られた天ぷら屋でした。毎朝、魚河岸に入荷する車海老の7割を優先的に選択する権利を持っていたといいます。

なんと最後の将軍にも好まれたようですね。

天金は最盛期には東京で一番と謳われた天ぷら屋なので著名人の贔屓は多かったが、その中でも知られているのが最後の将軍徳川慶喜である。慶喜は特に天金のかき揚げを好み、大皿に一つ乗せさせて食べたと言う。慶喜が好んだ天金のかき揚げの材料は小エビ、貝柱、三つ葉で、直径5寸(約15センチ)もあったという。

ウィキペディアより

新橋:「橋善」

橋善は、魚河岸に入荷するアナゴの優先権を持っていました。

こちらの「天ぷら」屋は、アインシュタインが好きだったというからすごいですね。

興味深い写真ですね。

アルベルト・アインシュタイン夫妻が来日した1922年(大正11年)、アインシュタイン夫人が心配したのは慣れない日本食であった。しかしアルベルト・アインシュタイン博士夫妻に出された橋善の天ぷら弁当に夫妻はそのあまりの美味しさに驚いたという。夫人の懸念も解消し夫妻は43日間日本に滞在した。

ウィキペディアより

最近食べた天ぷら

そういえば、先日、友人と「新宿つな八」で「天ぷら」を食べました。サクッとして美味しい「天ぷら」でした。大正13年(1924年)初代久蔵が角筈(東京都新宿区南部の旧地名)に店を構えたのが「つな八」の始まりです。これも、江戸の伝統を引き継いでいるものですね。

「天ぷら」が、江戸の料理から日本全国で食べられるようになったきっかけは、関東大震災による東西の職人の交流とも言われています。これは、ちょうど、「つな八」ができる一年前の大正12年ですね。


古い「つな八」の写真の看板に「江戸趣味」「立ち食い」「天婦羅」「綱八」と読めます。

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江戸では橋のたもとの広場などに屋台が出ています。江戸は火災が多いために、防災のために特に「天ぷら」は、室内では料理することは禁止され、室外でないと店は出せません。

近くの茶店から「天ぷら」屋が見えます。


「天ぷら」屋台の、のぼり旗に近づいてみましょう。


竹串に刺したものを揚げてありますね。手に取り、すぐ食べられる状態です。


醤油につけて食べます。


「天ぷら」を揚げる鍋です。

お酒もありますよ。


これらの写真は、江東区深川江戸資料館で撮影したものです。

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Part 4に続きます。

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