トピック

焼酎の恨みは恐ろしい|400年以上も知らずに拝んでいたその頭上には!

神社に書かれた面白い落書き

永禄二歳八月十一日 作次郎 靏田助太郎

其時座主ハ大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候何共めいわくな事哉

約10年前に鹿児島県大口市(現伊佐市)の通称・焼酎神社の郡山八幡神社を訪れたことがあります。なぜならここの神社に古い面白い落書きがあり、見てみたいと思ったからなんです。落書きは前述のようなものです。

写真は現代社寺建築の木鼻・きばな(柱を貫通する「頭貫(かしらぬき)」・「肘木(ひじき)」・「虹梁(こうりょう)」の柱から突き出た部分です。名称の由来は、「木の端→木端」から漢字が変わり「木鼻」と呼ばれるようになったことから。)

どこに落書きしてあったかと言うと、神社の建物、正面右上のしめ縄をくくりつけている「木鼻」(きばな)と呼ばれる部分の一部。

現代の言葉に訳すと

永禄2(1559)年 8月11日 作次郎 靏田助太郎

神主が大変なケチで一度も焼酎を飲ませてくれなかった。かなり迷惑なことだ。(現代標準語)

神主がドケチで一度も焼酎を飲ませてくれへんかった。えらい迷惑なこと。(現代関西弁)。

神主がわっぜケチでいっども焼酎(ソツ)を飲ませてくれんかった。えれ迷惑なこっじゃ。(現代鹿児島弁)

「其時座主ハ」は、ここの神主の最高責任者ことです。「こすてをちやりて」はこのあたりの方言で、「こすて」はケチ。「こすい」は現在では、「ずる賢い」の意味ですが、この場合「ケチ」となります。「大キナこすて」で「大変なけち」つまり「ドケチ」ですね。「ちやりて」は「~であって」の意味。

憤懣やるかたない

書いたのは大工の棟梁だろうと思いますが、憤懣やるかたない、様子が思い浮かばれますね。南九州では、上棟式とかお花見とかの祝い事や神事では必ず焼酎が振る舞われていました。大事なコミュニケーションの手段だったのです。400年以上前もそうだったのでしょうね。「自分も飲みたかったが、手下の大工たちをねぎらってやれない。ドケチめ!」と迷惑を嘆いているのでしょう。

書くのは自由だけど、、

大体、人々が参拝するその頭上にこの落書きが400年以上も「このドケチめ!」と書かれていたのだから驚きです!

棟梁の腕前

落書きは、もっとも人目につきやすい神社正面右上のしめ縄をくくりつけている木鼻と呼ばれる部分の一部の内部にありました。つまり、木の破損した内側にこの落書きをして、しかも!再び何事も無かったかのように蓋をするように元に戻して、上から釘付けしてあったのです。(さすが大工の棟梁、やることが細かい)

依頼主である神主最高責任者の悪口を、補修を依頼されていながら補修すべき横木の中にこっそり隠していたのですよ。それも、400年ものあいだその下をくぐる歴代神主たちにに「このドケチめ〜!」と社殿上部から、ふらちにもささやき続けたのです。

おおらか」を通り越して「神をも畏れぬ」大胆な落書きですよね。「食べ物の恨みは恐ろしい」どころか、「焼酎の恨みは恐ろしい」のがこの地、南九州独特な感覚なんでしょう。

焼酎神社に書かれている焼酎の種類

この焼酎神社の落書きは、永禄2年(1559年)の年号が付され、これが「焼酎」という二文字が記された最古の資料です。

さて、ここで書かれている焼酎とはどのような焼酎でしょうか。現在、鹿児島でたくさん飲まれる「芋焼酎」ではなさそうなんです。なぜなら、鹿児島にサツマイモが持ち込まれた年代に3つの説がありますが、どれもこの落書き(1559)の後なんです。

  1. 1611年に島津家久が琉球に出兵した際に兵士が持ち帰った
  2. 1698年に種子島の島主・種子島久基が琉球・尚貞王より取り寄せた
  3. 1705年に山川の漁師・前田利右衛門によって琉球から伝えられた

以上の情報から、あの落書き時代、永禄2(1559)年の焼酎とは薩摩芋が普及する前ですね。だから、肥後の「球磨焼酎」、つまり米焼酎なのではないかと僕は思っています。肥後南部を支配した相良氏は大口までもその支配地域を広げていましたからね。


現在の地図と比べると興味深いですね。

焼酎神社などと軽く呼んでましたが、名前は、、

郡山八幡神社

正式名は八幡神社です。なんと、金閣寺よりその歴史は古く、建立は建久4(1193)年なんですよ。

どうぞ、鹿児島県に旅行したら、八幡神社を訪れてください。(ちなみに、僕は鹿児島県の観光大使・「薩摩大使」を務めています)

自然豊かないいところにありますよ。

ご安心ください。

現在、参拝しても、その頭上には「このドケチ!」とささやく木札はありません。昭和29年、発見された1枚の木礼は別なところにありますから。

こちらの記事もオススメ!