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「お刺身」か「お造り」か?
関東では「お刺身」、そして関西では「お造り」と呼ぶことが多いです。共通した元の名称は「切り身」です。武士文化の関東では「切る」ということばが忌み嫌われたので(腹切りとか)、「お刺身」と呼ぶようになったということです。
関西では、「切る」「刺す」もどちらも嫌われ、「お造り」となったのです。
\江戸時代、これを刺身に使いました/
中原康富の日記『康富記』では
1448年 8月15日の中原康富(なかはらのやすとみ 1400~1457 室町時代の官吏)の日記「康富記」では「鯛の指身として、鯛なら鯛とわかるようにその魚のヒレをさしておくので、サシミ」とあります。
その場合、ヒレの形態がわかってないと魚の種類を判別できませんね。この場合の「サシミ」は直前に調味料を付ける「切身」という意味だったらしいです。
刺身の日
上記、「康富記」が書かれた8月15日にちなんで、この日は「刺身の日」となっています。
江戸時代の「和漢三才図会(わかんさんさいずえ 江戸時代の百科事典)」(1712年)には「肉塊細く切りたるを 鱠(なます )と為す、大に切りたるを軒(さしみ)と為す」と書かれています。細く切って切身の中心まで酢がしみ込み易く、保存性を高めたのが鱠(なます )だということです。そして、大きめに切って保存性が低下したのを刺身と言っていたということですね。要するに、この時代の分け方は以下のようです。
- 調理場で酢に合えるのを鱠(なます )
- 調理場で酢に合えないのが刺身(さしみ)
古くは「鱠」(なます )で食べていた。
鱠(なます )とは、切り分けた獣肉や魚肉に調味料を合わせて生食する料理です。魚とは限らなかったのですね。
膾(なます )の文字は、なんと古事記や日本書紀の時代から見られます。それは生肉を細かく刻んだものを指しているようです。「なます」の語源は「なましし(生肉)」とも「なますき(生切)」が転じたものと言われています。焼いたり、煮たりする以外は、(古くはこの鱠(なます )の形で魚を食べていました。
しかし、時を経て今の形の「刺身」が主流になりました。
万葉集にも
醤酢(ひしほす)に蒜搗(ひるつ)き合(あ)てて鯛願ふわれにな見えそ水葱(なぎ)の羹(あつもの)
長忌寸意吉麿(ながのいみきおきまろ)
二つの食べ物がこの歌で表されています。
- 鯛の刺身(酢で締めた鱠(なます )と思われる)
- お吸い物
歌の心は、、
1)「鯛」を早く食べたい。(ノビルの球根をすりおろして酢と味噌とで混ぜた薬味で食べる鯛)でも、2)「羹」(あつもの)が手前に見えている (ミズアオイのお吸い物)
「お吸い物がジャマで、鯛が遠いじゃないか!早く鯛を食べさせろ!」と焦る気持ちが出ている歌なのですね。作者の刺身(鱠、なます )への強い気持ち(ある意味執着)が表れていますね。
平城京では
奈良の平城京出土の木簡には「多比鮓(たひすし)」の文字がありました。木簡(もっかん)とは、墨で文字を書くために使われた、短冊状の細長い木の板です。
これは、昭和35年、奈良の平城宮跡から出土した大量の荷札木簡の中に、若狭国遠敷郡青の里(現在の福井県高浜町青郷地区)より、多比鮓(たひすし/鯛すし)を献上したことが記されていたものです。この多比鮓は、以下の記事にも書かれている「なれずし」でしょうね。
(わかさのくに おにふぐん あおのさとの みにえ たひのすし いっカク)と読みます。
この木簡は上と下に刻みが入っていますね。このことから、荷物にくくりつけられていたことが判ります。
この木簡は、すしの存在を示す最古の現物資料なのですよ。
平安京では
平安京になり、「延喜式(えんぎしき)」(927年 平安時代の法令集。各地の特産物も記載されている)には鮎(あゆ)、鮒(ふな)、鮭(さけ)、阿米魚(あめのうお)(アマゴ)が記載されています。しかし、前述の万葉集であれほど賞賛された「鯛」は不思議に出てきません。ここに書かれているのは、様々な「なれずし」です。内陸の平安京では新鮮な海産物が入手しにくかったのでしょうか。
「なれずし」とは、主に魚を塩と米飯で乳酸発酵させたもので、江戸時代までは「スシ」といえばこの「なれずし」のことが多かったのです。
平安時代後期
平安時代の文献にあまり見られなかった鯛は、平安末期の「類聚雑要抄(るいじゅうぞうようしょう)」(1136年 恒例・臨時の儀式、行事における調度について、指図によって詳しく記したもの)に再登場します。
新大納言の饗応の献立には干物 8種、生物 (なまもの)8種とあり、生物として鱸(すずき)、鯛(たい)、鮎(あゆ)、鯉(こい)、蛸(たこ)の 文字が見えるのです。すなわち平安末期の宮廷人が「鯛」を、それも生で食べているということです!
なおこの時代の献立の特徴は、酒、塩、醤、酢の四種器の調味料が別皿になっています。料理自体には味はなく、食べるときにお好みで調味料をつけながら食べたのでしょうね。現代でもそういう食べ方がありますね。
鎌倉時代のカツオ 「徒然草」百十九段
カツオについては鎌倉時代に、吉田兼好(1283頃~1350頃)が徒然草でこう述べています。
「鎌倉の海に、かつおという魚は、彼のさかいには双(そう)なきものにして、此の頃もてなすものなり。それを鎌倉の年よりの申し侍りしは、「此の魚、おのれら若かりし世までは、はかばかしき人の前へ出ずること侍らざりき・・・・」と申しき。かような物も、世の末になれば、上ざままでも入りたつわざにこそ侍る。」
あんなカツオのようなものが、世も末らしく、上流箙人(えびらびと)、つまり身分のある人の食卓にまで入り込んでいるのは嘆かわしい、という意味です。カツオは「下種」(ゲス)な魚であるのに、という気持ちが表れています。
しかし、これは、この話を語った老人も、これを聞いていた吉田兼好も「武士の心」を誤解していた、という説があります。鎌倉武士がカツオを好んだのは、彼ら独特の縁起をかつぐもので、カツオは「勝男」に音が同じだったからというものです。
カツオの刺身については、リンク先にも詳しく書いています。ぜひご覧ください。
カツオの栄養については、リンク先をご覧ください。
願掛け、文字遊び
武士たちは、常に生死の関頭に立たされているだけに、真剣になって縁起をかついだのですよ。鎌倉武士の北条氏綱(ほうじょううじつな)は戦いの引き出物に、縁起をかついで鰹節をいつも使ったと言われています。
とにかく鰹を「勝男」と書くことで、勝利する武士でありたいと強く願っていたのですね。のちの戦国時代には、鰹節を「勝男武士」と書く文字遊びもあったくらいです。
だんだん今の刺身に近くなった
室町時代になると、海産魚を手に入れることが以前より簡単になりました。1399年 6月10日の鈴鹿家記(すずかかき)に初めて「さしみ」という記載が出てきます。しかし、それは「指身 鯉イリ酒ワサビ」で鯉(こい)を使っていました。
そして、1448年 8月15日の中原康富の日記『康富記』では「サシミ」の名称についてこう書いてあります。「鯛の指身として、鯛なら鯛とわかるようにその魚のヒレ をさしておくので、サシミ」ここで、現代のような刺身が日本人に食べられるようになったのです!
刺身は酢で食べられていた
室町時代末期、海産魚の流通事情はかなり良くなったようです。 1489年頃の「四条流包丁書」に、鯉(こい)、鯛(たい)、鱸(すずき)を刺身としてワサビ酢、ショウガ酢、タデ酢で食べることが紹介されているのです。
(この酢をつけて刺身を食べること、今度試してみようと思います)
その頃、西の京と称された山口の記録では、都を意識した料理が見られます。明応九年(1500年)大内義興(おおうち よしおき 周防( 山口)の戦国大名)が、将軍職を追放された足利義稙(あしかが よしたね)を、 鯉(こい)、鯛(たい)、鱸(すずき)、鰤(ぶり)、鯒(こち)、魬(はまち)、鰡(ぼら)などの刺身でもてなしているのです。
ちなみに、ボラ、の刺身、は意外に美味しいです。これは獲れる海域の水質により味がかなり違います。高度成長期に沿岸水域の汚染が進み、それに伴って「ボラの身は臭い」と嫌われるようにもなったためです。
僕は岡山県牛窓でボラが釣れたときに、近隣の漁師に「鯛よりうまいから刺身にして食べたら?」と言われ驚きました。実際に刺身にして食べたらとても美味しく再び驚きました。
江戸時代には
江戸時代、刺身や鱠(なます )を庶民が盛んに食べるようになりました。
この頃の鱠(なます )は、ショウガ、タデ、芥子(からし)、 ワサビなどをつけて、酢を和して食べるものらしいです。これは、1695年に刊行された「本朝食鑑」(ほんちょうしょっかん)に書かれているようです。
一方で「刺身にもこの数品を用い、 炒り酒を和して食べる」とあります。刺身にもこれらをつけて食べていたのですね。また「諸魚の生鮮なものなら悉く(ことごとく)この二つ(鱠(なます )と刺身)にすることができる」と書 かれていることから、鱠(なます )、と刺身で多種類の新鮮な魚を食べていたことがわかりますね。
「炒り酒」とは「煎酒」のことです。多くは「煎酒」と書かれています。江戸の人々に愛された調味料です。日本酒に梅干と花がつおを入れ、コトコトと煮詰めます。これは江戸時代の食卓に欠かせないものだったらしいです。この「煎酒」は、色々な料理にあいます。
サバは刺身にはダメ?
「本朝食鑑」には、サバは「凡(およ)そ生を用いるのは 佳(よ)くなく」と記されています。アニサキス(寄生虫)の関係でしょうか。この時代、経験上で安全かどうかを書いているので、こういう記載に至るまで多くの食中毒者の犠牲があったと思われます。(コワイ!)
僕も複数回、サバで大変な思いをしたことがあります。アレルギー検査では陰性だったので、サバ自体のアレルギーではなくアニサキスによるものだと思います。
アレルギーテストの話はリンク先に書いてあります。どうぞご覧ください。
江戸時代の書物の情報、大勢の食中毒者の犠牲の上で書かれたと考えると怖いですね。「本朝食鑑」では、サバ は塩漬けにした「刺し鯖」にするようにと書かれています。これは、サバを背開きにして、塩漬けにして、その二尾を刺し連ねて一刺とした乾物です。焼いて食べたのでしょう。
カツオがたくさん食べられるようになった
鎌倉時代には下種(ゲス)だったカツオは、江戸時代になるとたくさん食べられるようになりました。
現在のカツオの食べ方は火に炙ったたたきが主流です。薬味をたくさん乗せて食べる「カツオのたたき」は僕はとても好きです。鹿児島・枕崎に行ってカツオのわら焼き体験をしました。リンク先に書きましたので、どうぞご覧ください。
広重魚尽 鰹
カツオは、江戸時代には三枚におろした半身を腹と背に切り分け、背身は炙って冷水に浸して焼霜造りにして、腹身はそのまま刺身にして食べていたのです。焼霜造り、とは、刺身を作る際に皮つきのまま調理する方法です。 魚の皮の表面に焼き目をつけて冷水で冷やすことで、余分な脂肪や臭みを取り除き、魚本来の風味を引き立ててくれるのです。要するに、現代の「あぶり」です。
醤油の流通
「下り醤油」が江戸の食文化を変化させていきます。「下り醤油」とは、西日本でつくられて江戸に下ってきた醤油。もともと醤油は和歌山から千葉県の銚子に渡ったとされ、西日本のものの方が品質がよいとされていました。
1726年(享保11年)当時、江戸市場のしょうゆの約76%は、上方からの「下り醤油」でした。これで人々の食生活が「画期的」に変わります。
それまでは、刺身の調味料は酢を主体にしたもの、鱠(なます )で食べるものが主流でした。その後、酒に削り鰹節と梅干を入れて煮詰め漉(こ)して作る煎酒(いりざけ)が加わります。これは万能調味料とも言え、室町時代から江戸時代に多く使われました。
そして、ついに江戸時代、現在に見られる刺身を醤油に漬けるという形になります。しかし、醤油の普及始めた当初、醤油は高価で庶民には簡単に手に入るものではありませんでした。
実際に煎酒を使って料理してみました。リンク先をご覧ください。
嫌われていたマグロ 現代は刺身界のプリンス
マグロはかつて「シビ」と言われました。これは「死日」を連想させ、人々はマグロを食べることを避けていました。語呂合わせですね。
マグロが食べられるようになった理由として、江戸時代の食べ方の工夫もあると思います。脂身が少なくて劣化しにくい赤身を、 醤油と酒を混ぜてひと煮たちさせた「煮きり」に漬けて食べる方法(いわゆる漬けマグロですね)が19世紀に開発され、保存性もあがりました。生臭さも少なくなることから、庶民にマグロの刺身が広がっていきます。
漬けマグロ丼
誰が刺身を食べていたか
室町時代に始まった刺身文化が江戸時代に花開きますが、生魚を食 べていたのは一部の人であることを書きたいと思います。
現代のように、スーパーに行ったら手軽に刺身が手に入るというものとは随分違った状況でした。
庶民が今のような刺身を食べたとする江戸時代、それでも刺身を食べられたのは大都市・江戸と大阪の話です。山間部や他の土地ではあまり食べていないのです。
明治後期でも、魚全体の消費量は現在と比べれば、8分の1程度です。多くの日本人が刺身を食べる様になるのは、第二次世界大戦後のことです。漁労技術の発達、そして流通の発達の影響が大きいです。
そして、忘れてはいけないのは、冷蔵庫の普及。高度成長期に冷蔵庫が爆発的に普及したことでも、刺身を手軽に食べられるよになりました。(冷蔵庫がない生活で刺身を食べることを想像してください!)加えて、廃棄物流通、ゴミ処理技術、などの高度な都市機能も関係していますね。
刺身は料理か?
日本では料理に入っていると言えるでしょう。しかし、英語圏でいうと「No」なのです。英語の Cook は prepare food for eating by using heat. のこと。つまり、後半の部分、火を使うということが大事なのです。なので、英語のcookは火を使う(加熱を伴う)場合にのみ用いられるのです。
ということで、「刺身の作り方」という英文は、cook を使わずに、How to make Sashimi, Recipi となるのですね。
全く違ったジャンルですが、鶏刺しの話題も書いています。
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\江戸時代、これを刺身に使いました/