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鰹は刺身 刺身は鰹
鰹の刺身、好きですか?僕は大好きです。新鮮な鰹の刺身って美味しいですよね。
鰹は刺身 刺身は鰹、ということわざご存知ですか。鰹に関する話題をみてみましょう。
堅くして食べた魚
カツオは、「堅魚」また「松魚」とも書きます。「堅魚」は、干すと堅くなることから。
そして、松魚」で、カツオと読むのはとても不思議ですね。これは、鰹節の色が灯明に使った松の根株に似ていることから「松魚」とも書く、または、鰹節がおめでたい松の幹に似ているところから松魚、鰹節をきると松の年輪のようだから、と諸説あります。
江戸時代の有名な俳人、山口素堂の句にも「松魚」とあります。
目に青葉 山時鳥(ほととぎす)初松魚(かつお)
頭部がやや烏帽子に似ているので「えぼし魚」ともいうのですよ。
朝廷のシェフ・磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)の故事
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)の故事に「頑魚(かたうお)」が出てきます。磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は、古代の伝説上の人物です。孝元天皇の皇子大彦命の孫とされています。
膳氏(かしわでうじ)の祖先とされる伝説的人物なんですよ。
膳氏(かしわでうじ)は、「膳」を氏の名とする日本の氏族。古代に朝廷の食膳を担当、監督していた伴造(とものみやつこ)氏族です。職業・職能をもって大王に仕えた豪族(氏)は、それぞれの職業・職能に従事する集団から構成されています。この集団を伴といい、伴のリーダーを伴造(とものみやつこ)というのです。
「日本書紀」や、789年(延暦8)に磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)の子孫の高橋氏が朝廷に奉った「高橋氏文」にカツオに由来する話が出てきます。
その話の背景
日本武尊(やまとたける)の死後、我が子の死を景行天皇は深く悲しみました。そして、日本武尊(やまとたける)の日本平定の遠征と同じ経路をたどって我が子を偲びたいと、房総へ渡って来たということから話は始まります。
「景行天皇はおっしゃいました。いつまで愛しい我が子を思い悲しむのだろうか。天皇は日本武尊の平定した国々を見巡りたいと思いました。伊勢に行幸して、転じて東国へ向かい、十月上総国に至り、安房浮島宮に着きました。」
カツオが釣れた
お傍に仕えていた磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は、天皇が葛飾野に狩りに出かけた時、大后(おおきさい/天皇の正妻 第一のきさき 皇后 嫡后)の八坂媛(やさかひめ)とともに浮島に留まっていました。
その時、大后(おおきさい)が磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)に言いました。
「この浦に「駕我久久(ガガクク)」と聞こえる不思議な鳴き声の鳥がいる。その鳥をぜひ見たい。」
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は舟を出して探しますが、どこかへ逃げ去って捕らえることはできませんでした。
舟を返す時、多くの魚が舟を追って来ました。六雁命が弓の先の部分の堅い角弭(つぬはず)を海中に入れると、魚が食いつき、面白いほど多く捕れました。そこでその魚を「頑魚(かたうお)」と名付けました。 (これは、今の言葉で言うカツオです)
また舟が干潮で砂上に上がってしまい、掘り出す際、八尺白蛤(やさかのうむぎ)を得ました。この二つを大后(おおきさい)に献上したところ、お喜びになり、さっそく料理して天皇にお勧めしたらよろしいでしょう、との言葉を賜りました。
カツオを料理してみたら、、、
そこで磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)は、武蔵国造や秩父国造の先祖たちを呼び集め、これをなますにし、煮焼きし、さまざまに料理して盛り付け、準備を整え、天皇が狩りからお帰りになってから進上し、たいそう喜ばれたということです。
これは、ルアー釣りだ!
この話って、擬似餌、つまりルアー釣りですよね。カツオの一本釣りもルアーを使います。(一本釣りの場合、「かぶら」と呼びます)釣りをする僕にとっては、とても興味深い話でした。
頑魚(かたうお)の表記が変化していった
この「かたうお」を「堅魚」と表記するようになりました。
かたうおの「かた」は「かたくな」の「かた」で、「頑」の意です。この魚は、干して固くなるのでかたうおとよんだのです。
古代はこのカツオは生では食べなかったのですよ。釣り上げて比較的に早く臭みが出るからでしょうか。干して固めて食べたのです。その「かたうお」の略語が「かつお」です。
そして、その後、「堅魚」の二字だったものが「鰹」の一字に変化しました。
鰹には別の意味も
中国の「鰹」という文字は、違う魚なのです。それは、タイワンドジョウ科タイワンドジョウ属の淡水魚なんですよ。朝鮮半島、中国に生息します。体は細長い円筒形で、暗黒色。体長は1メートルほど。カムルチーですね。
本居宣長の『古事記伝』にも「漢国の鰹字を当てたるには非ず。漢国の鰹は鱧(ハム)にて堅魚とは太く(イタク)異なり」とあるのです。
日本の「鰹」は半国字
半国字とは、日本で作られたということでは国字ですが、中国にすでに存在していて、かち合ってしまったものです。同形衝突とも言います。これは、ある「漢字の字体」が時代とともに変化し、変化後の字体が「従来からある別の漢字」と同じ形になってしまったものです。つまり、カツオを「頑魚」から変化させてきた日本、ようやく「鰹」に落ち着いて見たら、、、
「あれ?中国にすでに鰹という文字があって違う魚だった!」というわけです。
「万葉集」の歌
「万葉集」第九巻には高橋虫麻呂による「水江浦島子を詠める歌」があり、その中にカツオが出てきます。
水の江の 浦島の子が 堅魚(かつを)釣り 鯛釣り誇り
この歌から読み取れるように、万葉時代には鯛と同じように用いられたと思われています。
縄文石器時代に捕食されたので、貝塚からもカツオが発見されるのですよ。天平時代の木簡にも「堅魚」が書かれています。日本では、太古から食べられていた魚なのですね。
勝つぞ!とカツオ食べる
「北条五代記」では、北条氏綱 (うじつな)が1537年(天文6年)の夏に小田原沖での酒宴の話にカツオが出てきます。
北条氏綱
舟上にカツオが飛び込んだことから「勝つ魚!」だと喜びました。その後、出陣の際には「勝負にカツオ」として酒肴 (しゅこう/酒の肴)に用いたと伝えられています。
う〜ん、これは「平家物語」のスズキが船に飛び込んでくる話と似ていますね。スズキは出世魚なので、平家がとても喜んだくだりです。
かつお節は縁起物としてとくに武家で珍重され、正月には甲冑 (かっちゅう)の前に供えられたりしていたそうです。
そして、勝男武士、松魚節 (かつおぶし)の名で祝いの代表的な贈答品とされました。生食するようになったのは鎌倉時代からといわれます。それまでは干物にされていたのですね。
鰹節を本場、枕崎で削った体験も書いています。リンク先をご覧ください。
お寺では、、、
なまぐさを禁食した僧侶たちの中でも、かつお節は「薬木を削る」と称して食べられたのですよ。僧の隠語では木魚 (もくぎょ)とよばれました。
神社では、、、
神社の屋根の上にある鰹木 (かつおぎ)(勝男木)は形が鰹節似ていることが由来とされています。鰹木は「堅緒木」「堅魚木」「勝男木」などとも書きます。
カツオ釣りの所作をしてその大漁を祈る祭りは各地でみられるそうですよ。
高波をこえて
高波をえいやえいやと鰹舟 素逝
素逝とは長谷川素逝(1907年(明治40年)2月2日 – 1946年(昭和21年)10月10日)のことです。
父が大阪砲兵工廠の技師であったため大阪府で生まれたが本籍は三重県津市。1915年父の退職により津に戻り、津中学校、京都市の第三高等学校を経て京都帝国大学に入学。
俳句を田中王城、鈴鹿野風呂に師事し、1929年野風呂主宰の「京鹿子」同人。また高濱虚子にも師事し、1930年「ホトトギス」初入選。 後に平畑静塔らとともに「京大俳句」創刊に参加するも、1933年に志を異にして決別。同年、「阿漕」を創刊・主宰。 1937年、砲兵少尉として応召。同年、病により内地送還。1939年、戦争を詠んだ句を集めた句集『砲車』を刊行。その後の句集に『三十三才』『ふるさと』『村』『暦日』がある。1946年、「桐の葉」を主宰。同年、結核により旧大里陸軍療養所で死去。39歳。一時旧制甲南高等学校の教授も務めた。
昔のカツオ漁/八丁櫓(はっちょうろ)
昔のカツオ漁は、いわゆる三十五反の帆を巻き上げ、八丁櫓(はっちょうろ)勇ましく釣りに出ていました。
八挺櫓(はっちょうろ)の史話
焼津には、この漁船と八挺櫓(はっちょうろ)についての興味深い史話があります。
八挺櫓の漁船は、既に明暦年間以前(1655年以前)に使用されていたと推測されています。江戸時代、八挺櫓は「八ドロ」「御法度の櫓」として、特に許可のないものには使用が禁止されていました。漁船については七挺櫓以上の使用は許されていませんでした。江戸時代、交通は軍事の要として江戸幕府に厳しく管理されていたのです。海運業も例外ではありませんでした。
軍用船よりも速度が出てしまうと問題が生じます。民間の船は櫓(オール)が7本以下の船しか認められていませんでした。
徳川家康は戦乱の折、現在の焼津市内の城の腰、北新田、鰯ケ島から漁船を集めました。総数24隻の漁船は警衛として駿河湾を渡ろうとしましたが、天候が悪く波が高いため、懸命にこいでも前に進まなかったのです。
漁夫の一人がこれより速く船を進めるためには「八ドロ」つまり八挺櫓(はっちょうろ)を使う以外はないと進言します。そこで家康は、「焼津の小早型カツオ一本釣り漁船に限り、八ドロの使用を許可する」としたそうです。明治維新以前、その他の地域で漁船として八挺櫓を使用した所はありません。
当時の漁船の肩幅は、八尺(2.4メーター)から八尺五寸(約2.5メーター)くらいで、八挺櫓(はっちょうろ)をこぐための8人に加えて計12人から15人の漁夫が必要とされました。1艘につき約20人の人手が必要だったのですね。文政十二年(1829年)に駿河代官羽倉簡堂が記した「駿河志略」によると、航海の距離は20里から30里(約80キロから約120キロと表されています。
この話から、漁場は焼津から伊豆沖にまでわたっていたことがうかがえます。性能のよい漁船とはいえ、無動力の船で駿河湾をわたる漁は、かなりの危険がつきまとう仕事だったでしょうね。
この八挺櫓(はっちょうろ)は時代が移り、幕末ごろになってくると土佐のカツオ漁にも使われるのですよ。
明治以降のカツオ漁
やがて明治四十年ごろから、漁船に発動機が取り付けられ、次第に漁場が沿岸より遠くになります。船体も200トンくらいの大きさとなりました。
八丁櫓時代には釣りの効果を上げるのにたけべらで海面へ水を撒いていたのが、今日では舷側に機械力の撒水装置を備えたり、無線電信を備えたり、機械化が進んでいます。
漁法はアメリカ式の漁群を取りまいて獲る巾着網なども試みられたりしていますが、本格的なのは、むかしながらの勇壮活発な一本釣りで、一人前のカツオ釣りになるには、かなりの年季を要するそうです。
カツオの生態
カツオはサバ科に属する回遊魚です。20度ほどの水温を求め、南の海からイワシを追って、春から夏にかけて日本の近海へとやってきます。
南九州の沖に姿を現わすのが3月ごろ。その後、4月から5月にかけて紀州沖から房総沖へ、さらに7、8月ごろには、三陸沖から北海道沖へと北上して行きます。
サバに似て大きく、大きいものは60センチにも達します。背は鉛青色で、腹は銀白色。たいていの魚なら体全体にウロコがあるのに、カツオは胸鰭むなびれの辺りに、わずかに甲状になったウロコがあるだけなんです。
全身滑らかな皮膚に覆われ、体側には縦走する数条の濃青色の線があります。肉の味わいもさることながら、こうした姿が、江戸っ子の粋といなせな感覚にマッチして、喜ばれましたそうです。
初がつお
俎板まないたに小判一枚初がつを
この句でもおわかりのように、カツオの値段は元禄(1688〜1704)のころでもかなりの高値を呼んだようです。小判1枚だと現代の14万円くらいと考えられます。高い!
5月ごろのカツオは脂が乗ってとても美味しいのです。そして、江戸時代にはカツオ舟が小さいために漁獲量も少なく、希少性がありました。それで、江戸っ子の多少の見栄も手伝って、高値で取引きされたのです。
鮮度のいいカツオなら、やはり、刺身で食べるのが本命です。今日ではしょうがじょうゆか、にんにくじょうゆが添えられますが、江戸時代には「からしみそ」が主だったのですよ。
刺身の歴史も書いています。リンク先をご覧ください。
川柳にも
川柳にも、よくカツオは詠まれています。
- 春の末銭にからしをつけて食ひ
- 初鰹銭とからしで二度相
- 初鰹そばで茶碗をかきまはし
カツオには一種独特の味と臭いがあります。生食の場合にかぎらず、刺激の強い香辛料や、香味野菜などをそえることが必要ですね。
落語の中の鰹
古典落語の演目の一つ「鹿政談」の中、マクラに江戸の名物として鰹が出てきます。
上方の3代目桂米朝の噺は素晴らしいです。マクラはこういう感じです。
昔から三都の名物を読んだ歌なんといぅのがありまして、自慢をしたらしぃ。三都といぅのは江戸と京都と大阪でございますが、江戸はやっぱり侍の町で、それらしぃもんが並んどりますなぁ「武士、鰹、大名小路、生鰯、茶店、紫、火消、錦絵」と言ぅてね、これが江戸の名物やっちゅうんですなぁ、紫ちゅうのはやっぱり江戸の色らしぃ。
やっぱり、鰹は刺身 刺身は鰹!
刺身は、まずカツオを三枚におろして、血合いと腹骨を取り、皮を引いて、ふつうの刺身より少し分厚く造って器に盛り、青じそ、たでなどをあしらい、好みによってはおろしにんにくを添えます。普通はおろししょうがを付け合わせ、しょうゆは別猪口に入れて添えます。
美味しいです!栄養もありますよ。刺身の歴史については、リンク先をご覧ください。カツオの栄養については、リンク先をご覧ください。
僕が作ったカツオのタタキです。作る工程など、リンク先をご覧ください。枕崎お魚センターで作りました。
枕崎お魚センターの「ぶえん鰹」
僕も食べた枕崎お魚センターのカツオのタタキ、枕崎のこのカツオは、「枕崎ぶえん鰹」と呼ばれ最高に美味しいです。一本釣りした鰹を船上にて活き〆(血抜き)したあと急速冷凍します。弾力性のあるモチモチとした新食感の歯ごたえがあり、生臭さのない特別な美味しさです。