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ロッシーニ・クラシック界のグルメ王|並外れた美食への想い

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ジョアキーノ・ロッシーニ(1792 〜 1868)はイタリア生まれ、パリで活躍した作曲家です。主にオペラを作曲しました。

大変魅力的な音楽を作る作曲家で、同時代に生きたショパンは彼のオペラが大好きでした。僕も彼の作品は好きで、オペラの序曲、そしてオペラアリアなどを指揮しています。

(2006年/ルーマニア国立交響楽団のニューイヤーコンサート)

19世紀前半のオペラって華やかでいいですよね。

ロッシーニは作曲家として有名ですが、音楽史上最も有名な美食家としても知られているのです。ちなみに、彼の名前をつけたフランスのステーキ料理「トゥルヌド・ロッシーニ Tournedos Rossini」は、フランス料理の料理書にもよく記載されているとても有名なものなのですよ。

ロッシーニ(1856)

彼の音楽を聴いたことのない料理人にとってロッシーニ は、オペラを作曲したことのある美食家・料理人と思われているにちがいないと思います。それだけ料理業界に多大な影響を与えた人物なのです。ロッシーニの人生は実に興味深いですよ。

ロッシーニは早期リタイアの先駆者

ロッシーニのキャリアは驚異的で、34歳で音楽界の頂点に立つことになります。パリにある「イタリア劇場」の総監督、そして今のパリオペラ座である王立アカデミーを実質的に支配しました。

劇場監督として年二万フラン(今の日本円で三千六百万円くらい)。名誉職でさらに年二万フラン(またまた今の日本円で三千六百万円くらい)の収入の上に、楽譜出版と作品再演からの収入がありました。つまり、クラシック音楽史上、音楽だけで資産家になった唯一の作曲家なんです。
ロッシーニ(1929)37歳(早くも肥満気味ですね/絵画だと通常男前に描くので実際はもっと太っていたのかも/ピアノの上に彼の作曲したオペラの楽譜が見られますね。「オテロ」「ウイリアム・テル」そして「泥棒かささぎ」)

作品は売れに売れて37歳にして早くもオペラ作曲家から引退(完全に音楽界から離れるのは44歳)。この引退は、一説にはトリュフを探す豚を飼育するためとも言われていたのですよ。こんなに若く引退できたのは、フランス国王シャルル10世の即位に際して、「フランス国王の第一作曲家」の称号と大金(終身年金)を得たからですね。

ロッシーニに年金を与えたシャルル10世

これは二つの契約で、一つは新作ごとに一万五千フラン(現在の日本円で二千七百万円くらい)、そして終身年金・年六千フラン(現在の日本円で約一千万円くらい)です。

76歳で他界するまで「元作曲家」として美食を極め、様々な伝説も残っています。

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ロッシーニの簡単な経歴

  • 1792年2月29日:モーツァルトが没した85日後、アドリア海に面した中部イタリアのペーザロに生まれる
  • 1800年(8歳):ボローニャに移り住み、ボローニャ音楽院で学ぶ
  • 1810年(18歳):フィレンツェで一幕のオペラ・ファルサ「結婚手形」を発表。次々とオペラを発表しヨーロッパで名声を得る
  • 1824年:(32歳)パリにあるイタリア座の音楽監督に就任。フランス国王シャルル10世の即位に際し、年金を得る
  • 1829年:(37歳)最後のオペラ「ウィリアム・テル」を発表
  • 1830年:7月革命、シャルル10世退位、年金が無効とされる。その後、新政府を相手に終身年金を求める裁判を起こす。
  • 1836年:(44歳)自身の年金に関する裁判に勝って終身年金を得る。音楽界から引退、イタリアのボローニャ(のちにはフィレンツェへ)に移住
  • 1855年:健康が回復したとしてパリに戻る。著名人を集めたサロンや高級会員制レストラン「グルメのための天国」を経営。
  • 1868年:死去。

興味深いのは、1830年から35年までの法廷闘争期間です。シャルル10世の退位に伴い新政府が年金を打ち切ったからです。裁判が審議される間、ロッシーニは、ますます料理の創作に情熱を注ぐようになったそうです。そして、トリュフとフォアグラを使った様々な料理を考案しています。勝訴してよかったですね。

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ロッシーニの作品(音楽)

ロッシーニは多数のオペラを作曲しました。「ウィリアム・テル」「セビリアの理髪師」など有名ですね。「ウィリアム・テル」序曲からの「スイス軍の行進」などよくCMなどに使われているので一度は耳にしたことがあると思います。フジテレビ系列でかつてあった番組「オレたちひょうきん族」のテーマ曲でもありましたね。

ロッシーニに関わる料理、またはロッシーニが創作したもの、その時代にロッシーニに影響された料理の数々

1 ロッシーニ 風付け合わせ

2 トリュフの簡単なラグー

3 コンソメスープ、ロッシーニ風

4 子はしばみの実のミネストラ、ロッシーニ風

5 つぐみと栗のミネストラ、ロッシーニ風

6 狩りのミネストラ、ロッシーニ風

7 ミネストラ、ロッシーニ風

8 ヤマシギのミネストラ、ロッシーニ風

9 野鳥のピュレのポタージュ、ロッシーニ風

10  マカロニ・ポタージュ、ロッシーニ風

11 リゾット、ロッシーニ風

12 トリュフ入りスパゲッティ・ビアンコ

13 注文したマカロニ、ロッシーニ風

14 トゥルヌド、ロッシーニ

15 フィレ肉、ロッシーニ風

16 添え物付きロースト、ロッシーニ風

17 腎臓のトリュフ風味

18 仔牛のともくり肉、ロッシーニ風

19 ロンボ、ロッシーニ風

20 仔牛の胸腺のエスキャロップ、ロッシーニ風

21 羊のコートレット、ロッシーニ風

22 子羊のコートレット、ロッシーニ風

23 タンバル、ロッシーニ風

24 家禽のコキーユ、ロッシーニ風

25 肥鶏、ロッシーニ風

26 きのこスープのコロッケ

27 ブージェ、ロッシーニ風

28 ロッシーニ風クリーム

29 ヴルデ、ロッシーニ風

30 ショーフロワ、ロッシーニ風

31 家禽のシュプレーム、ロッシーニ風

32 ハムと鶏のムース、ロッシーニ風

33 鳩、ロッシーニ風

34 エビ、ロッシーニ風

35 舌平目の切り身、ロッシーニ風

36 アーティチョーク、ロッシーニ風

37 カルドン、ロッシーニ風

38 ロッシーニ風オムレツ

39 ロッシーニ風卵

40 ロッシーニ風卵(半熟または落とし卵)

41 ロッシーニ風卵(皿焼きまたはココット入り)

42 ロッシーニ風炒り卵

43 きのこ、ロッシーニ風

44 セーブ、ロッシーニ風

45 トリュフ、ロッシーニ風

46 ピエモンテのトリュフ、ロッシーニ風

〈以上、「ロッシーニと料理」水谷彰良著より〉

たくさんありますね。

ロッシーニの考案したレシピ

それではロッシーニの代表的な創作料理のレシピを見てみましょう。これは古典料理の完成されたものの一つとされています。この料理によってロッシーニの名前はフランス料理史の中に永遠に刻まれることになります。

トゥルヌド・ロッシーニ風

伝統的な本来の作り方は以下のとおり。
まずは牛ヒレ肉の中心部を3cmほどの厚さにカットし、表面は強火で、中心部は明るいピンク色、血が滴るくらいのレアの状態に焼き上げます。この焼き加減を専門用語では「セニョン」(Saignon)と呼びます。
焼きあがった牛ヒレ肉は休ませながら適温で提供できる状態で保温しておきます。

これとは別に、やはり厚めにカットしたフォアグラをソテーします。

ソースは「ペリグー」または「ペリグルディーヌ」と呼ばれるものを用意します。
これはフォンドヴォーがベースの濃厚なソースに甘口のマデイラ・ワインで風味を加え、粗くカットしたトリュフを加えた芳醇なソース。

付け合せにはジャガ芋を使って、グラタン仕立てや薄くスライスしたソテーを添えます。

リヨン・ド・リヨンでは主にディナー時に提供しているこの料理。[牛ヒレ肉のロッシーニ風]をぜひご賞味ください。

フランス料理店「Lyon de Lyon」の公式HPより

これはロッシーニがキャフェ・アングレのシェフに与えたレシピだとされています。キャフェ・アングレは1802年にパリでシュヴルイユ Chevreuil が開いたレストランです。1912年に閉店。

(キャフェ・アングレ)

この料理には逸話があります

以下、イタリアの料理研究家マッシモ・アルベリーニが記録した逸話です。「食卓4000年史」(1972年)に記載されています。

ある日、新しい肉料理を思いついたロッシーニは、自分の料理人にそれを調理させました。ところが、台所で調理手順を監視する主人・ロッシーニ を邪魔に思った料理人は「そんなことされたら、上手に料理できません!」と嘆きました。そこで、ロッシーニが言ったのです。

「よろしい!それならよそを向いて調理したまえ。「わしに」に「背を向けてね」、、、、」

tournez moi le dos (わしに背を向けて) = トゥルネ・モア・ル・

これが元になって「トゥルヌド」の語源という説が有るのです。

もちろんロッシーニはワイン通

多数のワインコレクションがあり、フランス、イタリア、ポルトガル、ペルーのものさえもあったらしいです。自宅で催される晩餐会には、5〜6種類のワインが提供されていたようです。

1836年、ロスチャイルド家はシャンパンの大口買い付けを行う際、ロッシーニに鑑定を依頼しています。

ロッシーニの人生はお気楽なものだけだったのか?

ロッシーニのような食通が出てきた背景には、いくつかの理由が考えられます。もちろん彼の生まれたイタリアの豊富な食材や料理の影響もあるでしょう。そして、フランス革命によって宮廷や貴族に仕えていた料理人たちが、そのパトロンたちの雇用から自由になり(実際は雇えなくなった)市街に出てレストランなどでブルジョアに対して料理を作るようになったこともあります。お金さえあれば、特上の食材が手に入る時代になったのですね。こうやって一部の特権階級が独占していた美食の世界が、一気にブルジョアに広まったのです。

一つの例としては、 1789年、フランス革命勃発時に、美食家・シャンティ城主コンデ公の厨房長だったロベールは、リシュリュー街104番地にレストランを開店しました。コンデ公が革命を避けて国外(ドイツ)に逃亡したからです。このようにかつての王侯貴族のために働いていた料理人が新しい勝利者「ブルジョア」のために街で料理を作り始めます。つまり、料理人が革命で失業しなければ、美食が庶民にまで広がらなかったわけです。

このような時代背景の中で、ロッシーニのような美食家が生まれたのですね。

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激動の時代を生き抜くロッシーニの力

ロッシーニの話題だと、美食家とか早期リタイアーとか、明るい話題が多いです。さぞ、楽天的で恵まれた人生を送ったと思いきや、彼の生きた時代は激動の時代だったということを忘れてはいけません。

バスティーユ監獄占拠の絵

ロッシーニはバスティーユ監獄襲撃つまりフランス革命勃発の年の3年後に生まれました。

ロッシーニが育ったボローニャは教皇領からチスパダーナ共和国に変わります(その頃はイタリアという統一国家はありません)。ロッシーニが5歳の時に彼の父親は政治的理由で投獄されます。その後、解放され、一人息子のロッシーニを残して彼の母親とボローニャに旅立ってしまうのです。オペラ作曲家となり、いろいろな都市を転々としますが、最後にはフランスに行き、パリで「イタリア座」の音楽監督になります。そして国王との年金契約をした6年後に七月革命が起きています。その後、二月革命第二共和制。そしてナポレオン3世による第二帝政の時代と、ロッシーニはたくましく生きていたとも言えるでしょう。晩年はこのようなヨーロッパの動乱の一端に巻き込まれ、精神錯乱に陥り、自殺まで考えているのですよ。(その頃の肖像画はまるで別人のように痩せ細っています)しかし、妻の献身的介護のおかげで見事に立ち直ります。そして社交界に復活し、数々の逸話を残して亡くなりました。

彼の人生を見ると、激動の時代を生き抜く力が人一倍あったのだと、こう思えてなりません。

民衆を導く自由の女神(ドラクロア/1830)七月革命を表現しています

最後に(ロッシーニの言葉)

ロッシーニの言葉でこの投稿を締め括りたいと思います。

「大人になったら豚肉屋になるつもりだったのに、間違えて作曲家になってしまった」

ベートーヴェンの食事についてはリンク先に書きました。どうぞ、ご覧ください。

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