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ベートーヴェンのモーニングコーヒー|コーヒー豆60粒はウソ?細かく検証!実際にコーヒーも淹れてみた

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ベートーヴェンの朝はコーヒーとともに

ベートーヴェンの食事は、時間の点でも量でも、大変不規則で不定であった。ただ朝食にだけは特選極上のコーヒーを決して欠かしたことがなかった。コーヒーは、ベートーヴェンはほとんど他人の手をわずらわさずに、秘蔵のガラス製のコーヒー沸かし器で自ら入れるのを常とした。来訪者たちに、彼はこの自慢の新しい容器の仕掛けを詳しく説明してきかせ、一杯ごとに六十粒の豆を自身で数えてから、トルコ式のコーヒー挽きにかけた。

これは、近衛秀麿著「ベートーヴェンの人間像」からの引用です。音楽之友社のもの。

この中の内容を詳しく検証してみましょう。そして、ベートーヴェンが住んでいたウィーンのコーヒーの歴史も調べました。(ベートーヴェンの食生活についてはリンク先にあります。どうぞご覧ください。)

ベートーヴェンの食卓|もし楽聖から食事に招待されたら、、ベートーヴェンはどのような食生活を送っていたのでしょうか。様々な記録から彼の食卓の様子が想像できます。そこに招待された客にどういう結末が待っていたかなど大変興味深い話題も残されていました。...

ウィーンにコーヒーが伝わった(通説)

ウィーンのあるハプスブルグ帝国にコーヒーが伝わるのは、1650年のことです。そして、1683年、フランツ・ゲオルグ・コルシツキーがウィーンに初めてのコーヒーハウスを作ります。

というのは一つの説。通説になっています。

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ハプスブルグ帝国内のコーヒー(細かく調べると)

ハプスブルク帝国(神聖ローマ帝国およびオーストリアの王家であるハプスブルク家が統治する、現在のオーストリアを中心とした国家群)においてコーヒーが普及しはじめた当時の歴史ははっきりしていません。

ギルド(同業者組合)や、薬局保護の意味合いもあってコーヒー販売は制約されていたからだと思われます。

ハプスブルク帝国でも、オスマン帝国との国境付近にあり、オスマン帝国の侵略をたびたび受けた地域は特にこのコーヒーに関する歴史はあいまいなのです。ハプスブルク帝国とオスマン帝国は、何回か戦争していますね。

1664年当時/戦争の様子

1665年の出来事/大使館でコーヒーをふるまう?

和平条約締結のため1665年にウィーンに派遣されたオスマン帝国大使のカラ・マフムト・パシャが、300名の随員とともに大使館を開設しました。そして、ウィーンの人々に強い印象を与えるため、豪華絢爛な衣裳を着て、2人のコーヒー給仕にコーヒーを入れさせたのです。そして代表団が帰国した1666年には、ハプスブルク帝国内でのコーヒー取り引きが盛んになっていたようなのです。

アルメニア人の活躍/コーヒー売買

コーヒーの売買はアルメニア人が一手に担ったようです。たとえば1685年に初めてコーヒーを淹れて売る免許を認められたのもアルメニア人ヨハネス・ディオダートとイサーク・デ・ルカです。

つまりヨハネス・ディオダートはコーヒーハウスを営業したのです。皇帝レオポルト1世から特権を与えられ、それからウィーン市の人口増加とともにその数を増やしていったのですね。

あれ?ウィーンにコーヒーが来た通説は違ってる

よく知られている説は最初に書いたフランツ・ゲオルグ・コルシツキーの話。1683年にオスマン帝国がウィーンを包囲した際に、オスマン軍戦線の背後にスパイとして潜んでいたフランツ・ゲオルグ・コルシツキーが、退却するオスマン兵が捨てたコーヒー豆の袋を戦利品として手に入れ、ここからウィーンのコーヒーははじまったという説です。

上記、アルメニア人がウィーンにコーヒーを紹介したという話とは違うのです。

なんとも勇ましい話ですなあ〜

オーストリア初のコーヒーハウスの開店は、トルコ軍によるウィーン包囲を契機としています。この戦闘でのある男の活躍が、ウィーンに平和とコーヒーをもたらしたという話が有名です。

その男こそ、ハプスブルグ帝国のヒーロー、ポーランド貴族のフランツ・ゲオルグ・コルシツキー。

トルコ人の服を着たコルシツキー

1683年7月、トルコのモハメッド4世の命を受けたカラ・ムスターファは、ウィーンを包囲しました。その数、30万の軍隊です。

神聖ローマ・ドイツ皇帝レオポルト1世(ハプスブルグ家皇帝)とロレーヌ公国皇太子は町から離れた場所に陣をはりました。町の内部にはシュターヘンベルグ伯爵の率いる守備隊が留まってポーランド王国からの援軍を待っています。

ポーランド王国からの援軍は一月経っても来ないのです。

そんなときに連絡係を買って出た一人の男がいました。その男は、フランツ・ゲオルグ・コルシツキー。

彼は、長年トルコ人と生活を共にしたことがあり、トルコの言葉にも習慣にも詳しかったらしいです。トルコ人の服装を身にまとった彼は、包囲網を突破してポーランド軍との連絡に成功。そして9月12日、合流したポーランド軍と皇帝軍は市内の守備隊と連絡をとり、ウィーンの内と外から攻撃を開始。

この時に、コルシツキーは攻撃開始の合図を伝えるために、再びトルコ軍の包囲網をくぐり抜けたそうです。

結果、トルコ軍はさまざまな物品を残し敗走しました。その中に大量のコーヒー豆がありました。しかし、欲しいという者は誰もいなかったのです。コーヒーの使い方を知らなかったのですね。

ただ一人、コルシツキーが、「この袋に詰まったものを望む人がいなければ、私が所望いたします」と申し出たそうです。そして数日後、コルシツキーはトルコ風コーヒーを飲ませるウィーン初のコーヒーハウスを開店したというお話。

このお店は、Hof zur blauen Fleish 英語で表記すると Blue bottle house です。

やっぱりハプスブルグ帝国民に花を持たせたい

ウィーンのカフェでは今でもコルシツキーの功績をたたえて彼の肖像画を飾っている店が多いです。町にはコルシツキー通りがあり、その一角にコルシツキーの銅像も立っています。ポーランドといえども、ハプスブルグ帝国の領土ですから、やはり領土民がコーヒーハウスを初めて作ったという話にしたいのですね。アルメニア人だと、領土外の人ですから。

結論は

コルシツキーが活躍して、コーヒーを、、、、という話はどうも後世の作り話のようですね。

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ベートーヴェン所有、特選極上のコーヒー?

ヨーロッパでは、フランスによる大陸封鎖令(1806年にナポレオン1世が出した、ヨーロッパ諸国にイギリスとの通商を禁じる勅令)や、これに対抗するイギリス海軍による海上封鎖によって、コーヒーの供給量が大きく不足するようになりました。これに対し、ナポレオンは国内で栽培したチコリ(キク科の多年草で葉をサラダなどに使う)の根をコーヒーの代用とすることを奨励したのです。

チコリは過去にプロイセンのフリードリヒ大王も奨励していました。彼は、コーヒーの消費を厳しく取り締まるため、1780年代にいわゆるプロの「コーヒーの匂いかぎ」を雇ったほどでした。

焙煎したチコリの根でコーヒー豆のかさを増す習慣は広く行なわれるようになったようですよ。チコリはコーヒーと酷似していたのですね。

そんな中でも、19世紀前半にはヨーロッパ中でコーヒーの消費量が増加し続けました。

チコリ

ベートーヴェンのものはチコリでない本物のコーヒー豆という意味か

「ただ朝食にだけは特選極上のコーヒーを決して欠かしたことがなかった。」の記述について考えてみました。

あくまで僕の意見ですが、ベートーヴェンの高級コーヒー豆とは、「チコリではない」という意味かなと感じています。

ベートーヴェンはコーヒーをどんな器具で飲んだ?

「ベートーヴェン訪問」M.ヒュルリマン編 酒田健一訳 白水社刊には、ベートーヴェンのコーヒーについて3つの記述があります。

  1. フリードリヒ・シュタルケ(1774〜1835):ヴィーンの歩兵連隊つき楽長でホルン奏者/ピアノ教師/「最もすばらしく、最もゆかいだったのは、朝食に招待されるときであった。…1812年当時のベートーヴェンはメルカーバスタイに住んでいた。非常にうまいコーヒーだけの朝食(ベートーヴェンみずからガラス製のコーヒー沸かしで立てる習慣であった)がすむと、…」
  2. カール・フォン・ブルシー博士(1791〜1850):医師/1816年7月27日午前7時/「ベートーヴェンは書きもの机で一枚の楽譜用紙に向かい、コーヒーを沸かしているガラス製のフラスコをまえにしていました。」
  3. ルーイ・シュレッサー(1800〜1886):ダルムシュタットの音楽家/1822年/「コーヒーは彼みずから最近考案されたコーヒー沸かしで入れ、しかもその構造をくわしく説明してくれさえした。」

ガラス製ということで、サイフォン式を思い浮かべましたが、1822年頃にはサイフォン式は発明されていません。

この時代最新式というのはパーコレーターだと思います。現在のパーコレーターは、ほとんどが鉄製です。しかし、当時はガラス製であったようです。そうであれば、コーヒーが沸く構造を中を見ながら説明しやすいですね。

耐熱ガラスはまだない時代ですから、ロウソクあたりの弱い火で作ったに違いありません。

ベートーヴェンのコーヒー豆60粒の謎

上記以外に、ベートーヴェンのコーヒーについて書いたものが複数あります。

門馬直美著:「ベートーヴェン 増補版」 春秋社
「ベートーヴェンの朝食については、一八一二年のときの模様がシンドラーによって伝えられているし、ピアノ教師でこの年にベートーヴェンを訪問したフリードリッヒ・シュタルケによっても紹介されている。それによると、朝食のコーヒーをベートーヴェンは、ガラスの器具で準備した。ベートーヴェンは、コーヒーを欠くことのできぬ滋養飲料とみなしていたようで、そのためにも自分で慎重に用意したのであろう。その分量は、コーヒー豆六十粒を、コーヒー茶わん一杯用にする。とくに客がいるときには、その数をしっかりと数えるのが普通だったという。」

シンドラー著:柿沼太郎訳「ベートーヴェンの生涯」
「朝食には、普通コーヒーを飲んだが、このコーヒーの用意を、自分ですることがよくあった。(中略)彼は一杯に六十粒をいれることにし、一粒でも二粒でもかぞえ違いをしないようにと、勘定の仕直しをするのを規則にしていた。」

近衛秀麿著:「ベートーヴェンの人間像」
最初に書いた通りで、60粒が書いてあります。しかし、この出典は分かりません。

ベートーヴェンのコーヒー豆60粒とシンドラーはリンクする

ベートーヴェンがコーヒーを飲む前に、コーヒー豆を60粒数えるという話はシンドラーの話の中にしかありません。

シンドラーという男

このシンドラーという男、「無給の秘書」ということで、「家政婦は見た!」みたいな証言を沢山残し、ベートーヴェンの伝記を書いて脚光を浴びたのです。

しかし、後年の学会で彼の書いた伝記は「妄想」と切り捨てられ、「この男のことはなんにも信用できない」、「音楽史上最大のウソツキ!」というどん底の評価に落ちました。

その上、彼は自分の書いた捏造伝記とつじつまが合わないのか、難聴になってからのベートーヴェンの貴重な筆談ノートを大量に捨てるという大罪まで犯しているのです。そして、自分で改ざんした筆記帳まで作ってます(これが、パッと見てバレバレの代物)!

ちなみにベートーヴェンの交響曲第5番についている「運命」というタイトルは、ほとんど日本だけで使われるものです。シンドラーの「ベートーヴェンの生涯」の中にこう書いてあります。

「作曲家はこの作品の深みを理解する手助けとなる言葉を与えてくれた。ある日、著者の前で第1楽章の楽譜の冒頭を指さして、「このようにして運命は扉を叩くのだ」という言葉をもってこの作品の真髄を説明して見せた」

この話は、シンドラーが書いたものなので、全く信用できません。

もし、シンドラーしか60粒のコーヒー豆のことを言っていないとしたら

全く信用できません。

これだけ書いておいて最後にこの結論なのですが、この人物は全く信用おけない、書いてあることに全く信憑性がないのです。

つまり、ベートーヴェンはコーヒーを飲むためにコーヒー豆を60粒数えたかもしれないし、そうでないかもしれない。シンドラーが「オレしか知らない話!」として、面白おかしく書いた可能性も大きいのですね。

コーヒー製造業界の会社も含め、さまざまなサイトに「ベートーヴェンはコーヒー豆を60粒数えていた」とありますが、出典を明らかにしていません。ウソかもしれませんよ。ただし、朝、コーヒーを淹れていたのは、複数の目撃者がいるようで、事実のようですね。

ベートーヴェンのコーヒー豆・本当は16粒なのか!?

画家のフェルディナント・シーモンが上記、シンドラーに伝えたという話があります。ということは、これもシンドラー絡みです。

フェルディナント・シーモン(Ferdinand Schimon 1797〜1852)は、ベートーヴェンの肖像画を描いた画家です。

ベートーヴェンはシーモンをコーヒーに何回も招待しました。

16粒のコーヒー豆で入れた一杯のコーヒー!???

シンドラーの記憶(シーモンがシンドラーに語った)によると、「16粒」のコーヒー豆で入れた一杯のコーヒーをシーモンに繰り返し差し出したのです。 これは、「ベートーヴェン訪問」という、実際にベートーヴェンを訪問した人々の記録を書いた本の中に書いてあります。

その中で、画家シーモンの発言を「シンドラー」が覚えていて記録したもの(ベートーヴェンのコーヒー豆16粒)がありました。

コーヒー豆の数が22年間で変化した?

このシーモンがベートーヴェンの肖像を描いたのは、1818年。その時の記憶として、「コーヒー16粒」とあるのです。

シンドラーのあの悪名高い著書「ベートーヴェンの生涯」1840年に第1版が出版されています。

となると、ベートーヴェン在命中の1818年の話「16粒のコーヒー豆で淹れた1杯のコーヒー」が、彼の死後、22年経ってシンドラーが書いた本の中では、「1杯にコーヒー豆60粒を使った」となっているのです。

なんでそうなるの?

ここで、ドイツ語の問題を取り上げたいと思います。

  • 16          sechzehn         ゼヒツェーン
  • 60          sechzig          ゼヒツィヒ

これは、発音が似ていますよね!

これは、数字に関して、シンドラーの記憶違いではなかったかと推測されます。それにしても、16粒は少ないですね。

この「ベートーヴェン訪問」は、ヒュルリマンという発行人がまとめあげたものです。(彼は、英語圏では写真家として知られています。)日本語版は酒田健一の訳で出ています。彼は早稲田大学の独文学名誉教授です。この方が誤訳したのでしょうか。今度、原典(ドイツ語)にあたってみたいと思います。

結局、わからないコーヒー豆の数

「コーヒー豆16粒」では1杯のコーヒーを作るには少ないので、シンドラーが「コーヒー豆60粒」とでっち上げたのでしょうか。謎は残ります。

いずれにしても、「コーヒー豆60粒」は根拠のない話ではないかと感じています。

追記|後日、16粒の謎が解けた!

色々調べたら、このコーヒー16粒の謎が解けました。

ベートーヴェンのコーヒーに関する新発見!コーヒー豆16粒の謎を解明(転載禁止!)ベートーヴェンが毎朝淹れたコーヒーに関して、コーヒー豆を60粒使ったと多くの資料にはあります。しかし、一つの本に16粒のコーヒー豆を使ったと書かれているのです。この一つの情報のためにベートーヴェンの淹れたコーヒーを調べている人たちが壁にぶち当たってしまってます。60粒なのか、16粒なのか、今回、その謎が解けました。...

とりあえず、60粒でコーヒーを淹れてみた

今回、使うコーヒー豆はUCC直営農園産の「ブルーマウンテンNo.1」です。

開設40周年を迎えたジャマイカ「UCCブルーマウンテンコーヒー直営農園」のローズヒルエリアで栽培された、最高等級豆だそうです。

その重さは

7gでした。

コーヒーを淹れてみました

スペイン・セビリアの老舗セビリャルテのコーヒーカップとポットです。セビリアに行った時に買いました。色が鮮やかですね。

コーヒーの味、知りたいですよね?

美味しかったですよ。

以上、ベートーヴェンの淹れたコーヒーについて検証してみました。

ベートーヴェンの食事についてはリンク先に書いてあります。なかなか興味深いです。

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