エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|36「カツラ」

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音楽室にはなんであんなにたくさん肖像画があるのだろうか。あの堅苦しい表情がただでさえ取っ付きにくいクラシック音楽をもっと難しくしている。子供が怖がる顔ばかりだし、バッハやヘンデルなんか現代からみたらものすごい髪形。でも変な人じゃありません、あれはカツラです。

ヘンデル(1685年2月23日1759年4月14日

ある小学校では掃除のモップを友達にかぶせて、「バッハ!」と叫ぶ遊びがはやっていたらしい。こういう映像を撮られ、欧州に流されでもしたらと思うと、その地で働く日本人音楽家としては緊張してしまう。

ずらりと並んだ肖像画の中でもこわもてチャンピオンはベートーベンだ。ボサボサ頭のすごい表情でこちらをにらんでいる。理髪店にいくお金がなかったのかなと思いきや、そこには深い歴史的背景がある。結論から言うと、カツラをとったのだ。もっと正確にいうとカツラをかぶらなかったのである。

古来、西洋の音楽家は王侯貴族、教会の召使い的存在だった。現代のようにちょいとCDをかけたり、歩きながらi―pod(デジタル音楽プレーヤー)なんてことはできなかったわけで、生の演奏しかない昔の人は、食事やパーティーなどの時に音楽を楽しむために音楽家を雇っていた。究極の使用方法として、就寝時のBGMとして演奏させていたということもあった。

当時の音楽家は常に正装していた。ご主人さまに対する敬意の表れである。そしてカツラもその当時の正装。つまりベートーベンがボサボサ頭をしているのは、「もうおれはカツラをかぶらないぞ!」という強い意思の表れであり、「もう雇われては作曲しないぞ!」ということを意味する。思想的に言うと、封建制への逆襲、古い社会制度の否定である。

果たして「お客さまは神様です」的な三波春夫型音楽家の音楽を無邪気に聴いていた聴衆は、「おれの音楽を分からない奴はみなばか者だ~っ」と叫ぶアブナイおじさん型音楽家ベートーベンの突然の出現で精神状態に混乱をきたした。「ばか者~!」と恫喝(どうかつ)する作曲家に委縮して「分からないのは私が悪うございます」と卑屈な態度か、「こんな曲も分からないの? おれは好きだよ」と知ったかぶり的な態度で自己防衛を図るようになった輩が大勢現れたと想像する。

ベートーベンの態度は後世芸術家のライフスタイルにも大きな影響を与えた。音楽家たちが己の才能に関係なく反社会的、非常識でも許されると誤解するようになったのである。「僕はゲージツカだから」。この一言で、己の思慮分別のなさ、無知蒙昧(もうまい)な実態、支離滅裂な言動、残酷非道な性格を一瞬にしてカバーできると思うようになったのだ。はたまた借りた借金は返さなくてもいいなどの拡大解釈など、ゲージツカのわれわれにとってはいい世の中になったのである。

三波春夫型音楽家の代表はロッシーニである。売れに売れて三十七歳で筆を置いてしまった。

ロッシーニ・クラシック界のグルメ王|並外れた美食への想いクラシック音楽界のグルメ王・ロッシーニは大変ユニークな人物です。オペラ作品も多いことながら、彼の名前がついた料理も多数あります。他方で、激動の時代を生き抜いた彼の人生はあまり知られていません。...

その後は悠々自適、皆に愛され料理の研究をして幸せに生きた。ところがその同世代の対抗馬、我らがベートーベンは借金まみれで苦しい生活を続けたのである。数々の傑作の裏に、借金返済のために書いた駄作もある。

さすがにそんな曲の良さは僕には分からない。こんなこと書くとベートーベンから「ばか者~!」と怒鳴られてしまいそうだ。これがほんとの、カツラも吹っ飛ぶ「怒髪衝天」。

2005/07/14

追記

これは2005年に書いたエッセイですので、デジタル音楽プレイヤーなどの種類が現在と違います。現在はもっと豊富ですね。

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エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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