エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|7「契約書」

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今、僕はブダペストのドナウ川のほとりのカフェに座っている。

ハンガリーへは十日前に来た。こちらの国立合唱団とオーケストラの演奏会を指揮したのは昨日。薫り高いエスプレッソを飲みながら、頭の中にはまだ昨日の演目、ドボルザーク作曲「レクイエム」の旋律がぐるぐるとエンドレステープのように鳴り響いている。

今回はハンガリー北部の大きな都市、ミシュコルツというところにある北ハンガリー交響楽団に招かれての指揮。出演者はオーケストラと合唱、そして四人の独唱者もあわせて総勢百八十人。歌詞はラテン語、曲は九十分以上もかかる超大作だ。

契約書は苦手なドイツ語だった。合唱と独唱者たちは首都ブダペストからやってくる。まず合唱だけでブダペストで練習するようにと書いてあった。ふーん、ブダペストのどこぞの合唱団だろ? ろくに契約書も読まないまま空港へ到着した。

 

空港には背の高いヒゲ面の合唱団マネジャーが迎えに来ていた。彼にホテルまで連れて行ってもらう。「マエストロオザキ、明日のリハーサルは午前十時から午後一時。お迎えは午前九時半です」。実務的な性格らしく、軍人が上官に報告するように伝えた。

翌朝、車でリハーサル会場へ。車中、合唱団の情報でも聞こうかと思い、彼に尋ねた。「合唱団の名前は?」「マエストロ、ハンガリー国立合唱団です」。えー! 驚いた。国立合唱団といえばヨーロッパ合唱界最高峰の一つではないか!

練習会場に到着。音楽の国ハンガリーの威信を示すかのごとく、お城のようにどっしりとしていた。天井の高い指揮者の控室には、小学校の校長室のように歴代の指揮者の写真が張ってあって、大指揮者ばかりがこちらをにらんでいる。

「どえらいとこにきちゃったなー、契約書ちゃんと読んどけばよかった! ここでいたずらに緊張しちゃいかん、平常心、平常心」と念仏のように心の中でつぶやき、「人」と手のひらに書いて飲み込んだりしていた。誇り高い芸術家たちは、自分たちよりも指揮者の能力がちょっとでも劣るところがあると、即座に従わなくなる。第一印象が大切だ。バカにされちゃいかん!

練習会場の重いドアを開けると、そこには名高き合唱団が要さいの壁のように待ち構えていた。みんな体格は重量級だ。その上男性はヒゲ面が多く威圧感満点。

「おはようございます。それでは一曲目から」とハンガリー語であいさつ。オ、オーっという低い歓声があがった。僕がハンガリー語を話せるとは知らなかったのだ。ふふふ、よし、ここで「技あり」だな。

合唱だけの練習はこの一回だけだ。職業演奏家は、初稽古(げいこ)の日までに楽譜を正確に読んでいなければならない。だから複雑な曲でも短い練習で仕上げられるのだ。合唱団は僕の非常に細かい指示までも答えようとしていてうれしかった。ラテン語発音の解釈に違いがあったが、合唱団の習慣を尊重した。その後今回の公演地ミシュコルツに移動して、数日間オーケストラと独唱者たちの練習。すべての出演者は演奏会当日に初めてそろった。演奏会は成功した。

ドナウ川沿いのお気に入りのカフェ。うまくいった演奏会の後の休日は快い。一人で反省会。「やっぱり契約書はよく読まんといかんなぁ」

2003/10/13

ハンガリーの貴腐ワイン

僕もよく飲んでいるトカイワインです。ハンガリーのワインといえば、トカイワイン。フランス国王、ルイ14世がトカイの貴腐ワインを「王のワインにしてワインの王」と称したことによって多くの王侯貴族に愛されたワインなのですよ。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/

\珍しい曲をたくさん収録しています/

\ショパンの愛弟子・天才少年作曲家の作品集・僕の校訂です!/

\レコーディング・プロデューサーをつとめて制作しました!/

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