エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|4「コンクール」

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一九九四年、初めてルーマニアの地を踏んだ。五月初旬のさわやかな日であった。ほのかな花の香り漂う気候とは反対に、私の心の中は穏やかではなかった。私はこの地で行われる国際指揮コンクールに参加するためにルーマニアまで来たのだ。

その三日前、突然国際電話があった。「尾崎さんですか? 三日後に行われるルーマニアの指揮コンクールに参加して下さい。招待状がこちらの郵便事情で戻ってきたのです。では、よろしく」。ただそう言われ、電話を切られた。いきなりルーマニアに来いって、007じゃないんだから。

通常、国際音楽コンクールは最初に参加希望者が出願書を提出し、コンクール事務局が書類審査で選んだ人を招待して始まる。その招待状がなぜか不幸にも私にだけ届かなかったというわけだ。行くべきかどうか悩んだ。出願書を提出したのは四カ月以上前だし、募集要項も既に燃えるごみに出してしまった。行っても不十分な準備のため、不成功に終わる確率は高い。飛行機代もままならない。しかし根っから楽天家の私は「ダメだったら観光でもしてくるか」くらいの気持ちで行くことにした。記憶をたどり課題曲二十四曲分の楽譜を集める。持っていない楽譜もあるので、ちょうど帰国していた山下一史君から十曲分借りた。彼はカラヤンのピンチヒッターでベルリンフィルを指揮した友人である。

その後は飛行機の手配だ。当時の私はルーマニアがどこにあるかもロクに知らないくらいで、まして主催地のブラショフなど見当もつかない。とにかく、飛行機に乗って首都に行き、タクシーに乗って、そのあとは一番いいホテルに行けば何か情報があるだろうと、必死の思いで出かけた。

(ブラショフ)

ブラショフに着いたのは東京の自宅出発から三十六時間後である。その時のホテル、アローパラスは元共産主義国所有といった趣の強い、ロビーのいたずらに広い、暗い感じのホテルであった。幸いにも同じホテルに審査員全員が泊まっているとのこと。早速審査委員長のガラツィ氏にフロントから電話する。「あー、尾崎さん。よく来たねー。あなたのエントリーは最後の七十七番だよ」。七十七番か、なんかラッキーかも!

天が味方したのか、私は次の日の第一次予選、また次の日の第二次予選と勝ち抜いていった。第二次予選の後のこと、主催地のオーケストラ・ブラショフ交響楽団のマネジャーが話をしたいという。「尾崎さん、あなたはとても良い指揮をするので、いくつかコンサートの契約をしたい」と言われた。

一瞬目の前の光景がストップして、耳をうたぐった。通常コンクールは二次の後の本選で各賞の受賞者が決まる。一位になったところで、仕事の契約はとても難しいのがこの世界なのだ。私はスキップでホテルに帰り、後は野となれ山となれで、明日も指揮するということなどすっかり忘れて一人でルーマニアワインで祝杯をあげた。

本選の結果は三位であった。三日前に勉強を始めたわりには上出来。ちなみに一位は二人、イタリア人とカナダ人であった。二位は一位二人のために該当者無しだった。

これがこののち、長くなるルーマニアとの付き合いの始まりであった。ハプニングでスタートしたこの国との付き合いは、それからも予想不可能なことの連続であった。

ルーマニアの黒ワイン

僕がルーマニア現地で飲んでるルーマニアワインです。フェテアスカ・ネアグラはとても珍しくルーマニアの土着品種。この品種は「黒い貴婦人」という名前で、ルーマニア独特の黒ワインというカテゴリーのものです(ブラック・ワイン)。EUのワイン協会(European Union wine regulations)により、「黒ワインはルーマニアで生産される赤褐色のワイン(ルーマニアワイン)」として定義されているんですよ。深い強い味でとても美味しく、ルーマニアではほとんど毎日、このフェテアスカ・ネアグラを飲んでいます。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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