エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|55「緊張感」

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薄暗い客席のライトがさらに暗くなり、明るく照らし出される舞台。今にも始まろうとするドラマに期待する聴衆の目が自然と舞台に引き寄せられる。会場の期待感と比例するように、舞台袖は何とも言えぬ緊張感が張りつめる。

僕のオーケストラの本拠地、ルーマニアのトゥルグ・ムレシュにある文化宮殿。舞台と舞台裏とを分ける高さ三メートルはありそうな重い革張りのドアを、ステージマネジャーのボリシュが荘厳な儀式のように開く。

まるでノアの箱舟に入る動物のように、暗黙のうちに整然と楽器別に入る団員たち。毎回ボリシュに同じジョークを言うコントラバス奏者、上から下、そして右から左とルーマニア正教の十字を切るホルン奏者。それぞれの方法で、緊張を忘れようとしている。舞台に立つ者は皆、常にどう転ぶかわからない恐怖心と戦う。舞台では誰も味方になってくれない。

コンサート中盤に花を添えるソリストにいたっては、緊張測定器で測ったら、針が振り切れそうな人も多い。特にピアニストがそうだ。一緒にいると、緊張が移りそうで怖いときがある。

「大丈夫ですよ、リラックスしていきましょう」と、あるピアニストに声をかけてしかられたことがあった。「黙っていてください! 何も言わないでください!」。そんなときはそっとしておくに限る。こういう人は、僕のようにあまり緊張しない人間を見ると、無性にイライラするようだ。それもそうだろう、「あらあ、あと十分で本番だあ。そろそろ緊張しなくちゃあ」なんて笑いながら言うんだもの。

そりゃあ僕だってほうっておけば緊張する。自分を疑い始めた途端、指揮棒の先が震えてくる。自分自身をコントロールするのに専念して、この問題をカバーしてきたといえるだろう。

基本的には鹿児島、南国育ちの「まあ、なんとかなるでしょ。失敗しても死んじゃうことないし」的な考えが心の基調にあるので、それを発展させたまでのこと。

芸術家は一様に完ぺき主義になりやすい。つまり自分が自分の宿敵になりやすいので、自分を味方につけるようにすればいいのだ。自己賛美して、「僕ってこんなことができる! すごいじゃないか!」と心の中で叫ぶのだ。ただ本当に叫ぶと、スタッフに奇異の目で見られるので注意したい。

僕をしかったピアニストとの演奏直前。もう舞台に上がらなくてはならない時間だ。ボリシュに「大丈夫だよな、ボリシュ。僕は失敗したことなんか全然ないよな」と言うと、すかさずボリシュが苦笑いしながら言った。「マエストロ、また同じジョークですかい。失敗したことないんじゃなくって、それを忘れてたんだっ! でしょ?」

「あはは、そうだった。サルトルも過去から自由になれって言ってるしね。あの緊張過多のピアニストにもちょっとは聞いてほしいよな」

僕の後ろでは、怒りと緊張に震えたピアニストが、仁王立ちになっていた。

2007/01/14 

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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