エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|47「モーツァルト」

本投稿にはプロモーションが含まれます。

今年はモーツァルトの作品が各地で演奏されている。モーツァルト生誕二百五十年記念というわけだ。

モーツァルトが生まれた前年、ポルトガルの首都リスボンで大地震が起こった。当時のポルトガルといえばカトリック大国である。人々の信仰は根底から揺るがされ、長く教会の規制の中にあった古典音楽は解放された。モーツァルトはそんなときに生まれた。これまでにない自由な心で、あふれる感情を音楽に吹き込んだ天才の誕生と地震の発生とが同じときとは、まさに偶然にして奇なり。

彼は正真正銘の天才である。神が生み出した一つの奇跡と言っておかしくない。何がエライかというと、音楽の形式を決して崩さず、その中に人間の感情をあふれんばかりに表現しているところだろう。古典の時代に、人間の喜怒哀楽をこんなに豊かに音の世界に織りなすことができた人が、彼のほかにあろうか。

とにかくモーツァルトはいいのだ。牛に聞かせたらミルクがたくさん出ただの、妊婦に聞かせたら胎教にいいだの、聞いたら勉強がはかどっただの、百薬の長にも勝るとも劣らない勢いだ。

僕もモーツァルトの音楽をこよなく愛しているが、あまりヨーロッパでは演奏しない。この手の曲は一番難しい部類の曲で、日本人的な演奏をしない僕でもためらってしまう。古典中の古典であり、絶対に崩してはいけないものがあるのだ。

まして失敗して「やっぱりアジア人だからねぇ…」なんて言われたくない。音楽に国境はないなんてウソ。やっぱりアジア人だから、の一言とともに、みんなの冷たい視線を浴びることになる。ヨーロッパ人だったら、感性の違いという小さな問題なのだが、極東の島国出身の僕にはセンシティブな問題なのだ。

だが今年はコンサートシーズン最後にオールモーツァルトの演奏会を指揮した。紅白歌合戦のサブちゃんじゃないが、音楽監督なので大トリを務めることになったのだ。しかも曲は、「大ミサ曲ハ短調」。一番難しい部類の曲が選ばれた。

練習はまず、合唱団のラテン語の発音を統一することから始まる。そして数多いソリストとの打ち合わせを綿密にやり、オーケストラとの練習もあるので、仕事は多い。最近発見した法則だが、人が多くなると問題も多くなる。苦労も多い。

そして演奏会は終わった。良いか悪いか、評価はわからないが、精いっぱいやった。演奏会後、テレビ局の人に感想を求められた。「今回のモーツァルトの記念演奏会についてどう思われますか?」「そうですね、モーツァルトに一年でも二年でも長生きしてほしかったです」。「うーん、それだけの天才ですからね」

僕は首を横に振りながら答えた。「次の没後記念の演奏会までの準備期間が延びますからね」。今までほほえましく話していたインタビュアーの目が変わった。目が「エゴイスト!」と言っているように見えた。

2006/04/16 

追記

リスボンの大地震はヨーロッパのキリスト教信仰を揺るがす大事件でした。これは、1755年11月1日のことです。この地震は、ヨーロッパ随一を誇 った華麗で裕福な海洋帝国の首都リスボンを壊滅させ、多くの人命と数字で表せない人類 のかけがえのない文化的遺産が失われたのです。

そして、リスボン大地震は国家が直後の対応と復興に責任を持った最初の近代的災害といわれています。ポルトガルとヨーロッパ社会に与えた影響は宗教と思想、政治、経済、社会と各分野にわたりました。そこから新しい科学や技術の数々を誕生させたのです。リスボン大地震が近代の扉を開いたと言っても過言はありません。


エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/

\珍しい曲をたくさん収録しています/

こちらの記事もオススメ!