エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|37「疲れるところ」

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銀座のよくスーツを買う店で上着を着せてくれた若い店員に言われた。「指揮は大変でしょ。腕とかクタクタになりませんか?」。次に行った靴屋でも「指揮者は体力がいるでしょう。腕なんか痛くなりませんか?」。試着した靴のひもを結びながら店員が言った。

巷(ちまた)の俗説では、指揮者は腕が疲れるということになっているらしい。だが僕のことを言えば、足が疲れるのだ。大腿二頭筋あたりに疲労物質の乳酸が集中的にたまるのである。

腕は学生時代から脱力のトレーニングをしているので、意外に疲れない。むしろ、どちらかというと狭い指揮台の上で立っているので足が疲れる。コンサートは平均一時間半、指揮しながら立っているんだもの。

「マタイ受難曲」というバッハの最高傑作がある。受難曲だからキリストが死に向かう描写が痛々しく悲しいものだが、指揮者にとってはこれがまた泣きたいくらいに長大な楽曲なのだ。演奏時間も三時間半。終盤に差し掛かるころには気が遠くなりそうになる。だいたい演奏会の前にリハーサルがあり、まともにやった場合その日は丸二回演奏することになる。この場合、三時間半×2で七時間ですよ。

でもこれは違う次元のお話。本当に疲れるのは頭だ。まれに「オーケストラのたくさんの楽器の音を判断するって大変ですか?」とか、「長い曲をどうやって記憶するんですか?」という質問をされると、その人のことがまるで天使に見える。即時その御仁の両手をとって涙したい。そーなんです!腕じゃないんです。足じゃないんです。

演奏会の後など、頭が興奮していてなかなか寝付けない。その日演奏した曲のいくつかの旋律がシャッフルされて、グルグルの音の万華鏡状態なのだ。カラヤンは演奏後の興奮した頭脳をクールダウンするために、自宅の室内プールで泳ぐのが常だったようだ。でもそんなゴージャスアーバンライフなんて、彼みたいな特別な人の場合だけ。僕の場合、せいぜい気のおけない友人と一杯飲みにいったりするのが関の山だ。

先日関西で久しぶりに第九を演奏した。演奏会終了後、合唱団の女性団員たちが楽屋を訪れた。一人がドンドンと僕の楽屋のドアをたたき、僕がちょっとドアを開けたそのすきに、まるで刑事がろう城している犯人の部屋に突入するように一挙に十数人が入ってきた。関西のオバチャンパワーである。「今日はおつかれさまぁ。一緒に写真とってもいいですか」と言ったときには既にフラッシュはたかれ、瞬時に後ろ、横、斜めに回られていた。

彼女たちは訓練された軍隊のように、手際よく何台ものカメラで写真を撮り、去っていった。電光石火、風林火山を地で行っている人たちであった。去り際に一人の団員がアルトの低い声で言った。「センセ、腕疲れたでしょ。今日のダンス!? むっちゃ、よかったですわぁ」。第九のメロディーをうたいながら、腕を振り回して去っていく彼女。

僕はそれを聞くなり座り込み、一人ぼうぜんと残された部屋で、それまでの喜色満面の表情が一瞬にして消失した。恐れていたように、その夜のグルグルの万華鏡の中に、彼女の笑顔もあった。

2005/08/11 

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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