エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|34「バルトークの恐怖」

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心理学の本に、不安は未経験のものに接するときに大きくなる、と書いてあった。なるほど初めて演奏する曲の指揮は怖い。時に生では聞いたこともない曲を指揮することにもなるが、まるで見たことも食べたこともない料理を、レシピを頼りに作るようなものだ。

フランスからくるピアニストが、ぜひバルトークのピアノ協奏曲の二番を演奏したいという。以前共演して僕を気に入ったからと、特別のご指名。カーリーヘアで小太り、ラテン系の明るさをもった男性だった。いつも紳士的で、気難しく自己主張の激しい音楽家ばかりの中で、気持ちよく共演できるソリストの一人だ。初めての曲だが、彼の希望なんだから120%こたえなきゃ。

指揮者は練習の前には総譜を読んで曲を理解しておかなければならない。勉強しても理解するのに何カ月もかかる曲もある。バルトークはハンガリーを代表する作曲家で、自国のお札にもなっている。この人の曲は難解で、今回の曲はその中でも特に難しいといわれている。

ベラ・バルトーク

譜面を見たときは、正直焦った。複雑かつ難解な音列が幾何学模様のように並んでいる。その模様は一小節、すなわち速い楽章の時には一、二秒で拍子が変わり、速度も変化し、さらに臨時の臨時というシャープやフラットが付いた音符が集積回路のように張り巡らされている。

学生のころオーディションに合格し、彼の最高傑作で一番の難曲といわれているバイオリン協奏曲第二番を指揮した。その時は曲を覚えるのに三カ月もかかった。あの時の記憶がよみがえる。そしてあの時の怖さがまたよみがえってくる。

通常、オーケストラと合わせる前に、ソリストと打ち合わせも兼ねて二人で速度や曲調について意見を合わせておく。実際に弾いてもらって、指揮者の意見も伝えつつ、ソリストがうまく個性を出せるよう、協力態勢を作る。聞けばカーリーヘアは既にスイスでこの曲のレコーディングまでしているという。

こういう時には虚勢を張らず、謙虚に胸を借りるつもりでいくのがいい。「あの、僕初めてなんでどうなるか皆目見当がつかないんだ」。仲の良い僕らの間柄と心を開いて話せる状況に、感謝した。彼は親切にここが難しい、ここは指揮者に主導権を渡すから、と髪をなびかせながら情熱的に弾いてくれた。

オーケストラとの練習は想像通りてこずった。僕のせいでうまくいかないところが何カ所もあった。僕のためにもう一回弾いてくれと、オーケストラやソリストに三顧の礼を尽くした。

カーリーヘアは予想通り素晴らしい演奏だった。ヒヤヒヤしたが、僕も難しい所をなんとか切り抜けた。この手の曲は難しい所でかみ合わなくなって和音が濁って、曲に傷がつくという程度の甘いものではない。最悪の場合は曲が止まって、氷のような張り詰めた静寂が待っているのだ。考えるのも怖い。

終演後、早く演奏を忘れてリラックスしたかった。一人で行きつけのレストランに行くと、BGMに「スタンド・バイ・ミー」が流れていた。

明るいヘ長調、四分の四拍子。ウエーターが鼻歌で、旋律を追っていた。「マエストロ、今晩はどんな曲を演奏したんだい?」「いい質問だね。他の人に聞いてくれないかね」。力が抜けるように緊張が解けていった。

2005/05/19 

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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