エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|51「イマジン」

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一九八九年は僕にとっては特別な年となった。その年、大学時代の親友、Yが他界した。

大学時代は正月も東京で練習していたこともあった。実家に帰らず練習なんかしている生徒はめったにいない。金管楽器では僕ともう一人の親友T、そしてYの三人だけだった。Yはトランペット、Tと僕はトロンボーン専攻だった。

当時、僕はものすごいスランプに陥っていた。大学に入って奏法を変えようと思った途端、音が全く出なくなってしまったのだ。音楽をやめようと思い、スーパーで人形焼きやカルメ焼きの仕事をしていたこともあった。苦しかった。そんなとき、一緒に練習していたのがこの二人だった。

正月の寒々しく冷たい空気の中、ひと休みして三人でラーメンを食べにいった。ラーメンをすすりながら冗談好きのTが言った。「いつか気軽に大盛りを食べられる身分になりたいなあ」。三人で笑った。店にはジョン・レノンの「イマジン」がかかっていた。僕には何ともない英語の歌だったが、Yがポツンと言った。「いい曲だな」

時が流れ、三人はそれぞれ違う道を歩んだ。僕は指揮に専攻を変え、米国フィラデルフィアにたった。

日本にいたYは死んだ。突然頭痛がすると訴え、倒れた。そのまま帰らぬ人となったのだ。八九年一月、僕が留学先のアメリカから一時帰国していたときだった。葬式のときに、彼が在日韓国人で日本名を使っていたことを知った。

Tはそこにはいなかった。ドイツに留学し、ケルンの音楽大学でトロンボーンの世界的権威に指導を受けていた。順調にエリートコースを歩み、そのままドイツに残って活躍するかな、と思っていた。

だがTも、突然帰国した後、何か言い残すこともなく死んでしまった。山梨の実家に帰り、現代音楽の研究所みたいなものをつくったところまでは知っている。

時はすぎ、僕はアメリカでの留学を終え、再帰国した。懐かしいラーメンが食べたくなってのれんをくぐると、店の古いスピーカーから「イマジン」が流れている。

あっ! 僕は驚いて、思わず声を上げた。以前は何でもない英語の歌にすぎなかった「イマジン」の歌詞が、まるで母語のように頭に流れ込んできたのだ。

ジョン・レノンは何回も「世界は一つになるだろう」と歌っていた。いま僕がいるルーマニアは、当時の僕にはまだ行くことすら考えつかない、未知の国だった。この年、東西の壁は崩れる。ルーマニアでは革命が起こり、自由が訪れた。

「いい曲だな」。Yの声が聞こえたような気がした。ラーメンにコショウをいつもより多くかけた。涙が出た。それがコショウのせいか、苦労したアメリカでの生活を思ってなのか、あの正月を思い出してなのか、今でもわからない。それでも、音質の悪いすすけたスピーカーからは、「イマジン」が流れ続けていた。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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