エッセイ

尾崎晋也のエッセイ28|「先生」

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「先生」と呼ばれるのは苦手だ。指揮者をやっていると日本では大抵、先生と呼ばれる。まぁ弟子も何人かいることはいるのだが、僕はフルタイムの指揮者なので教育者ではない。

先生と言われると、落ち着かないのは僕だけだろうか。まだ駆け出しだった頃(ころ)、大阪の合唱団を指揮した。平均年齢が六十歳以上の団体で、息子のような年齢の僕が先生と呼ばれるのは非常に居心地が悪い。この時は関西弁で「センセ、ほなやりまひょか」なんて感じのやわらかい響きに救われた。

外国ではなんと呼ばれているのだろうか。僕のオーケストラのメンバーは「マエストロ・オザキ」と呼ぶときが多いかな。「親方」というような意味の尊敬の言葉だ。これはポジションに対する敬意だろう。ヨーロッパだとまだ保守的だが、アメリカの学生はみな「ミスター・オザキ」で、オーケストラの楽団員はもちろん「シンヤ」。

中学生の頃、海外のペンフレンドに英語で手紙を書いた。中学生だから、日本語で考え和英辞典を片手に書いたのである。「僕の先輩は」と書こうとしたら、「先輩」という言葉が辞書になかった。年功で考えることのない英語圏にはそんな発想自体もないのかと、驚いた記憶がある。

何年かして英会話のグループレッスンに行った時のこと、英語に不慣れな友人が、先生に「ティーチャー!」と手を上げて質問した時には、おかしさを通り越して哀れさが漂った。真面目(まじめ)に敬意を表した彼だが、まったく的外れ。英語圏ではそんな呼び方はしない。名前を呼ぶのである。

何年か前から、久しぶりに日本の大学のオーケストラの指揮をしている。この団体には実験的だが「尾崎さん」と呼んでもらうことにした。因(ちな)みに友人のピアニストは生徒に「トオルちゃん」と、「ちゃん」付けで呼ばせているが、まだそこまでの勇気はない。

この提案に予想通り、えっ?と学生が困惑する中、これでいいのだっ!と、押し切ってしまった。随分経(た)った今でも、ものすごく不自然な雰囲気が漂っている。学生達(がくせいたち)を教える他の楽器の指導者はみんな「先生」なのに、指揮者の僕だけがさんづけ。初めての学生は「尾崎さん」と口に出しながら、慣れないので今でも顔面がひきつり気味だ。しかし大体日本は肩書にこだわりすぎる。肩書よりも相手の存在が大切。個人対個人の関係が大事。やはり、これでいいのだ。

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大学のオーケストラにはメンバーから選ばれた学生指揮者という、いわば僕の補助的な役目の人がいる。毎年一人選ばれるのだが、先日歴代の学生指揮者が集まって忘年会を開くというので、僕も彼らがいつも行っている渋谷の居酒屋に同行した。若いがみんな指揮者である。今年の学生指揮者は女性だ。帰国後、久しぶりの日本の小料理。バックには邦楽が流れていた。外国から帰ってきて日本の雰囲気が恋しいだろうという彼らの気持ちが嬉(うれ)しかった。

この席上、先生と呼ばれるのはどうも慣れないという話題になった。「なんでさんづけじゃ、ダメなんだろね」というと「そーですよ、そーですよ。尾崎さん。おかしーですよね。もっともっと言ってください」と女性指揮者の反応。「われわれの間では、これからも先生はもちろん禁止。さんづけも今日付で取り止(や)め。今からはオカシラだーっ! 先生、これから練習です、なんて言わせない。オカシラー!そろそろおつとめの時間でーす。これでいい!」

笑いながらみんなの目は女性の学生指揮者を睨(にら)んでいた。

2005/01/27    

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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