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江戸の外食文化5|江戸じゃあ蕎麦屋は夜中まで開いてるよ

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日本人は縄文時代から蕎麦を食べてきました。それは、蕎麦が栽培しやすい穀物だからです。蕎麦は火山灰に覆われた気温の低い土地でも育つのです。

生育日数が短い蕎麦

  • 米の生育日数:おおよそ120日
  • 蕎麦の生育日数:おおよそ75日

こう比べると蕎麦の生育日数は短いですね。蕎麦は米の代用食、または飢饉の時の救荒作物として、とても重要なものでした。

蕎麦はタデ科の一年草です。原産はシベリアから中国、そしてインドにいたるまで東アジアとされています。日本へは中国から朝鮮を経て伝えられました。

奈良時代より

「食日本紀」には、養老6年(722年)7月に発した、次のような元正天皇の詔勅が紹介されています。

元正天皇

「宜しく天下の国司に令して百姓に勧課して、晩稲、蕎麦、及び大小麦を植え、蔵置儲積して、以って年荒に備えるべし」

(今年の夏は雨が降らず,稲の苗が育たない.天 下の国司に命じ,百姓に割り当てて,晩稲・蕎 麦・大小麦を植えさせ,倉庫に蓄え,飢饉に備えよ)という詔書を発布し,各地の官吏に命じ,大 衆を動員して,晩稲・蕎麦・大麦・小麦を植え, 貯蔵して飢饉に備えよと指示しているのです。

実際に、120年後 の平安前期,自然災害で凶作になり,大飢饉が発生しました。そこで太政官府は政令を発布して蕎麦を植えるように指示しています。

また翌年、出羽の国などの地方でも、災害および飢饉対策として、蕎麦などの雑穀を植えるよう政令を発布しています。

室町時代になると、自然災害や戦乱などによって飢饉が引き起こされたために、蕎麦までが年貢品の中に加えられているのはとても興味深いです。蕎麦は自然災害時などに飢饉対策用穀物として必ず利用されています。このように、古くは政府の関与と命令によって、蕎麦は日本の多くの地域で栽培されるようになっただけでなく,大いに宣伝されて知らぬ者のない食材となったのです。

食べ方は様々

  • 縄文時代:実のまま茹でて食べました
  • 鎌倉時代:蕎麦粉を餅にして、焼いて食べました
  • 室町時代末期までは:「蕎麦練り」や、「蕎麦掻き」といって、蕎麦粉を熱湯でねって餅状にして、汁をつけて食べるのが一般的した
  • 江戸時代初期:蕎麦を細長い麺状にして食べるようになった/いわゆる蕎麦切りですね


蕎麦掻き

最初は蕎麦は菓子屋で作っていましたが、本格的な蕎麦を打つ蕎麦屋ができたのは、享保年間(1716〜1736)の頃と言われています。

うどんが主流だった江戸初期

上方出身者が江戸に多かったために、最初はうどんが主流になっていました。その後、甲州(今の山梨県)や信州(今の長野県)で生産された蕎麦が安い値段で、大量に入ってきました。そこで、江戸で蕎麦が普及します。そうこうしているうちに、関東、信越、東北などの出身者が増えたために蕎麦を食べる人が多くなってきたのです。

大衆食として普及したのは江戸時代中期

慶長年間(1596年〜1615)にはすでに蕎麦切りは知られるようになるのですが、蕎麦切りが大衆食として普及するのは江戸中期です。それでも、農村ではハレの日や、振る舞いのための御馳走だったのです。そんなに古いものではないですね。

享保十九年(1734年)刊の「本朝世事談綺」巻一、飲食門の蕎麦切の条には、「中古二百年以前の書、もろもろの食物を詳(つまびら)かに記せるにも、そば切りの事見えず。ここを以て見れば、近世起こる事成」と、室町時代の文献には蕎麦切りの記事が見当たらないことを書いています。実際に、室町中期の通俗辞書ともいえる節用集を見てみました。そこには、「饂飩(うどん)」、「索麺(そうめん)」、「斬麦(きりむぎ)」など10種類もの麺類があるにもかかわらず、「蕎麦切り」という言葉は出てきていません。

寛永二十年(1643)刊、我が国最初の料理専門書「料理物語」の後段の部には「蕎麦切り」が見られます。

「飯の取り湯、ぬるま湯、豆腐のすり水などでこねて玉を作る。のして切る。大量の湯で煮る。煮えたら竹篭で掬い取る。ぬる湯に入れてさらりと洗い、せいろに入れ、煮え湯をかけ、蓋をして冷めぬように、水気無きようにしてだす」

これは「蒸し蕎麦」ですね。

いろいろな蕎麦

「生蕎麦」の登場

蕎麦というものは粘り気があるものの、熱を加えると切れやすいです。それゆえに製麺が難しいのです。それでも、蕎麦粉をねって薄く延し、なんとか細長く切って食べるようになりました。

それが蕎麦粉だけでつなぎを使わない「生蕎麦」です。

小麦粉を使うようになった

小麦粉をつなぎに使うようになったのは、享保年間(1716〜1736)、蕎麦の専門店ができてからのことです。一説によると、朝鮮から来日した僧が、蕎麦粉に小麦粉を混ぜて、細長く切って食べることを教えて以来、「蕎麦切り」といって広く普及したそうです。

「慳貪蕎麦」(けんどんそば)の誕生

慳貪というのは、大きな平碗に一杯づつ盛り切りにして売ることです。そのために蕎麦屋、うどん屋、一膳屋などを慳貪屋と呼ぶようになりました。今でも広く行われいる売り方ですが、それは江戸に起源があるのです。

屋台で食べた「ぶっかけ蕎麦」

屋台の蕎麦は寛文4年(1664)に浅草で始まったとされます。屋台ではもっぱら「ぶっかけ蕎麦」を売っていました。これは、荷運び人夫たちは立ったまま食べられるように、冷たいそばをいれた丼鉢にそばつゆをブッカケた、というのが「ぶっかけ蕎麦」のはじまりです。

庶民が好んだ「盛蕎麦」

江戸では蒸籠(せいろ)で蒸していました。それで、蒸籠に盛ってあるので、「盛蕎麦」です。
この細かく切った盛蕎麦を猪口に入れた「つゆ」につけて威勢よく食べます。蕎麦をすする音も江戸っ子の好みにぴったしでした。

蕎麦の種類はもっと増えた

江戸も後期になると様々な蕎麦が出てきます

  • 盛蕎麦
  • かけ蕎麦
  • 天婦羅蕎麦
  • 花巻:もみ海苔をふりかけた蕎麦
  • 玉子とじ
  • しっぽく:玉子焼、蒲鉾、椎茸、くわいなどをのせた蕎麦
  • 御膳大蒸籠:上等の蕎麦粉でつくった蒸籠蕎麦

様々な蕎麦があって面白いですね。

盛蕎麦の値段

最初:六文(約150円)

元禄8年(1695):八文(約200円)

明和・安永年間(1764〜1781):十六文(約400円)

〜約100年 十六文の時代が続く〜

慶應2年(1866):二十四文(約600円)

初物好きの江戸っ子

江戸っ子は初物が好きで、9月に出回る新蕎麦に心が躍ったのです。蕎麦屋の店先に「新蕎麦」と書かれると、引き寄せられるように客が集まりました。以下のような川柳もありますよ。

新蕎麦は物も言わぬに人がふえ

新蕎麦をくわせる住寺(じゅうじ)ものしなり

住職が「新蕎麦でもいかがですか」と檀家を集めるという句です。「ものし」とは、「嫌だから避けたい」という意味です。

二八蕎麦の由来

「二八蕎麦」の由来には色々な解釈があります。その中の代表的なものは以下です。

  1. 「二八、十六」の語呂を文字って、1杯16文とするという代価説
  2. そば粉8割につなぎの小麦粉2割で打ったそばを表したという混合率説

二八うどん!?

実は二八うどんというものもありました。そうなるとこれは代価説で、16文のうどんがあったと解釈できますね。そして、「一八蕎麦(1杯8文?)」、「二六蕎麦(12文か?)」、「三四蕎麦(12文か?)」などもあったのです。

このあたりの江戸庶民の語呂合わせというのは興味深いですね。

夜遅くまで売っている蕎麦

屋台の蕎麦は庶民に人気でした。夜遅くまで蕎麦を売っている店もあり、それは「夜鷹蕎麦」または「夜鳴蕎麦」とも言われました。盛んにそれらが出るようになったのは元文年間(1763〜1741)です。

夜鷹蕎麦の由来には以下の二つがあります。

  1. 「夜鷹蕎麦」とは、夜売り蕎麦の客がもっぱら私娼の夜鷹(夜間に路傍で客の袖を引いて売春したもの)だったとする説。
  2. お鷹匠が夜に冷えた手を焙った蕎麦が転訛して「夜鷹蕎麦」になったという説。「おたかそば」→「よたかそば」

江戸時代にタイム・トリップ!

蕎麦屋をはじめ屋台の多くは、橋のたもとなどにありました。当時の橋は木造であり、類焼を防ぐため、橋のたもとには、それぞれ火除地として広小路が作られました。この広場は建物がない広場であったため、飲食店の屋台や露天商、仮設の見世物や芝居の小屋などが建ち並ぶようになり、江戸で有数の盛り場として賑わうようになったそうです。
この写真でも火の見櫓の前に、蕎麦屋の屋台がありますね。

お箸が竹筒にささっています。

そば猪口が見えます。

麺も用意されていますね。

これらの写真は、江東区深川江戸資料館で撮影したものです。

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