学校給食の歴史

学校給食歴史館12|日本でただ1つ!給食の博物館 大正12年の給食とその時代背景2

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2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。

大正12年の給食のサンプルがありました。

大正12年(1923年)の給食

\見方を変えると、、歴史は面白いです!/

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学校給食歴史館とは

「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。

埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。

中には多くの食品サンプルがあり、歴史的に、そして視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。

そして、学校給食に関する歴史年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。

館内案内図

学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。

学校給食歴史館の情報

  • 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
  • 開館時間:9時〜16時
  • 入館料:無料
  • 公益財団法人 埼玉県学校給食会
    〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
    TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496

地図

学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。

JRを使う場合 JR北本駅から

  1. JR高崎線北本駅東口から約3km
  2. 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車

大正時代

大正時代はわずか15年間の間に様々なことが大きく変化しました。ここでは、新しくうまれた労働階級や大衆文化などについて、触れてみましょう。

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新中間層が生まれる

都市部に、事務系職員の俸給生活者が生まれます。つまり、サラリーマンです。彼らは、中級程度の生活水準をもち、新中間層とも呼ばれました。彼らを中心に洋服を着て暮らす人たちが増えていきました。

大正時代のサラリーマン

大正時代から昭和前期にかけて、都市部へ多くの人口流入が起こります。都市文化の始まりです。

そのきっかけとなったのが、1914(大正3)年に勃発した第一次世界大戦による特需です。日本も日英同盟を理由に参戦。ヨーロッパでは戦争が長期化するにつれて各種の物資が不足しました。ヨーロッパが戦場となったこの戦いで、日本とアメリカの両新興国家が物資の生産拠点として貿易を加速させました。つまり、軍需品をはじめ工業製品の注文が日本へ激増したのです。

これは、のちに「大正バブル」と呼ばれます。1920年(大正9年)3月の戦後恐慌の発生までつづき、戦前の日本経済の大きな曲がり角となりました。

この特需で工業を中心に新たな労働力が必要となりました。その理由で農村から都会への人口流入が進みました。

これらの現象は、都市部に「サラリーマン」層を出現させます。大正の半ば頃には、東京の丸の内一帯で朝出勤するサラリーマンたちの姿が目立つようになっていたのですよ。

彼らは独自の生活スタイルを生み出す中産階級となり、都市部の文化を大いに発達させました。活動写真館やダンスホールなどの娯楽施設が広まり、カフェー、ビアホール、喫茶店など洋風の食事や飲み物を楽しめる場所も次々にできたのです。

大正時代のカフェー

ガール職業

戦後は欧米諸国の影響を受け、バスガールや電話交換手などの「職業婦人」と呼ばれる働く女性も増加しています。

「赤襟嬢」という名の女性車掌(つまりバスガール)

続々と出現するガール職業

  • バス・ガール:バスの車掌
  • ハロー・ガール:電話交換手
  • マニキュア・ガール:理髪店で爪の掃除
  • ガソリン・ガール:ガソリン販売
  • マネキン・ガール:モデル兼売り子
  • マリン・ガール:汽船で案内する役目

電話交換手(ハロー・ガール)

映像もどうぞ

大衆文化が生まれる

大正時代は教育により国民全体の識字率を向上させました。高学歴者の増加により、活字媒体の利用が多くなります。

新聞・雑誌・ラジオ・映画などの、いわゆるマス=メディアが、新中間層・職業婦人を受け取り手として急速に発達したのもこの大正時代です。

新聞・雑誌

「東京日日新聞」などの新聞が、発行部数100万部を超えました。

東京日日新聞ビルディング(1933)

雑誌が多く読まれるようになる

総合雑誌

改造

創刊号

改造』(かいぞう)は、大正から昭和にかけて日本で発行されていた、社会主義的な評論を多く掲げた日本総合雑誌1919年(大正8年)創刊、1955年(昭和30年)廃刊。

ウィキペディアより

改造社はアインシュタインを日本に招きました。

中央公論

大正期には吉野作造の政治評論をはじめ、自由主義的な論文を多く掲載し、大正デモクラシー時代の言論をリードした。また、小説欄は新人作家の登竜門であった。

マルクス主義が流行し、1919年(大正8年)、より急進的な『改造』が発刊されると、中道的な路線となる。このころには、中央公論に作品が掲載されることは、人気作家の仲間入りと見なされるまでになった。

ウィキペディアより

大衆雑誌

キング

「日本一面白い!日本一為になる!日本一の大部数!」と宣伝した雑誌です。

「キング」の内容は、小説、講談、実用知識、説話、笑い話など多岐に渡りました。安価でボリュームのあるページ数、豪華な付録、万人受けする多彩で娯楽的な編集方針などが、その成功の原因です。日本で大衆社会が形成されたことにより、大量宣伝、大量広告、大量出版を実現させた初の事例としても大切です。

児童雑誌

赤い鳥

赤い鳥』(あかいとり)は、鈴木三重吉が創刊した童話童謡の児童雑誌。1918年7月1日創刊、1936年8月廃刊。

主宰者は夏目漱石(なつめそうせき)門下の小説家、鈴木三重吉(すずきみえきち)で、小説家としての行き詰まりを児童文化運動に打開すべく『赤い鳥』を創刊、彼の後半生はこの童話雑誌の編集に捧(ささ)げられた。『赤い鳥』は大正期の児童文化運動におけるもっとも重要な雑誌であり、五つの大きな役割を果たした。第一は、明治期の前近代的な児童読物を克服して近代的、芸術的な童話を生み出したことで、芥川龍之介(あくたがわりゅうのすけ)の『蜘蛛(くも)の』、有島武郎(ありしまたけお)の『一房の葡萄(ぶどう)』、小川未明(おがわみめい)の『月夜と眼鏡』などの童話がそれである。第二は、北原白秋、西条八十(さいじょうやそ)らの詩人に加え山田耕筰(やまだこうさく)、成田為三(なりたためぞう)らの作曲家の協力も得て新しい童謡の花を咲かせたこと。第三は、清水良雄、鈴木淳(すずきじゅん)(1892―1958)、深沢省三(1899―1992)など健康な美しさにあふれた童画を開拓したこと。第四は、久保田万太郎、秋田雨雀(あきたうじゃく)らを書き手としてモダンな童話劇を試みたこと。そして第五は、読者である子供たち自身のつくりだす文化としての綴方(つづりかた)、児童自由詩、児童画を開発したことである。創刊50周年にあたる1968年(昭和43)と1979年の二度にわたり、日本近代文学館より全冊が復刻されている。

日本大百科全書より

週刊誌・女性雑誌

サンデー毎日

サンデー毎日(サンデーまいにち)は、毎日新聞出版発行の週刊誌1922年(大正11年)に週刊朝日と並んで最も早く創刊され、日本の週刊誌の老舗となっている。

ウィキペディアより

主婦の友

「主婦之友」が創刊されたのは全国各地で大正デモクラシーが叫ばれる時代です。東京家政研究会(主婦の友社の前身)の創立者・石川武美の「結婚して、子どもが生まれたら、知りたいこと、教わりたいことは山ほどあるはず。主婦たちの切実な要望にこたえるものしたい」との思いから、大衆の生活に根ざした生活技術啓蒙誌として誕生したのです。

音声と映像の普及

1925年(大正14年)、東京・名古屋・大阪の3放送局で ラジオ放送が始まっています。

放送局をつくりたいと出願は数多くありましたが、政府の公益法人に限るという方針に基づき、許可されたのは東京放送局、名古屋放送局、大阪放送局の3局のみでした。

そして、1926年、昭和元年に3局を統合して、日本放送協会(NHK)が設立されました。

ちなみに日本放送協会は、にっぽんほうそうきょうかい、と読みます。

当時のポスター

活動写真

当初の映画は、無声映像を解説者の語りとともに楽しみました。それは、活動写真と呼ばれました。

大正時代の活動写真の俳優として、忍術使い「地雷也」などにふんした「目玉の松ちゃん」こと尾上松之助のほか島田嘉七、岩田祐吉、栗島すみ子、川田芳子、岡田嘉子らがいました。後に映画監督となった衣笠貞之助も、初期の活動写真に女形として出演していたのです。

尾上松之助

島田嘉七栗島すみ子

川田芳子

岡田嘉子

衣笠貞之助

このような時代にこの給食は食べられていた

大正時代は、社会が大きく変化しつつあった時代です。短い大正時代の間にはさまざまな出来事が発生しました。都市部では新中間層が新しい文化を作っていました。

このような時代に、この五色ごはんと栄養味噌汁の給食は食べられていたのですね。

\見方を変えると、、歴史は面白い!/

 

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