学校給食の歴史

学校給食歴史館11|日本でただ1つ!給食の博物館 大正12年の給食とその時代背景1

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2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。

大正12年の給食のサンプルがありました。

大正12年(1923年)の給食

五目ごはん、と、栄養味噌汁ですね。その内容は以下に書きました。

学校給食歴史館10|日本でただ1つ!給食の博物館 大正12年の給食とその時代の教育 2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。 学校給食歴...

\見方を変えると、、歴史は面白いです!/

学校給食歴史館とは

「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。

埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。

中には多くの食品サンプルがあり、歴史的に、そして視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。

そして、学校給食に関する歴史年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。

館内案内図

学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。

学校給食歴史館の情報

  • 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
  • 開館時間:9時〜16時
  • 入館料:無料
  • 公益財団法人 埼玉県学校給食会
    〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
    TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496

地図

学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。

JRを使う場合 JR北本駅から

  1. JR高崎線北本駅東口から約3km
  2. 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車

この記事のまとめ

明治、昭和時代に挟まれ1912年~1925年まで続いた「大正時代」は年号がわずか15年と短いです。そして、日本史の教科書でも多く取り上げられることは少ない時代の1つです。しかし、大変興味深い時代でもあるのです。

1)明治維新後、産業・科学技術・政治制度など公的性格の強い分野では、政府主導によって近代化が進められたが、各種文化は基本的に伝統の色を強く残していた

2)大正時代になると、日本人全般の生活様式・行動様式は大きく変化した

3)短い大正時代の間にはさまざまな出来事が発生した

大正デモクラシー

1913年(今回とりあげた大正時代の給食の10年前)に発生した「大正政変」をきっかけに、民主主義的な思想や運動が盛り上がりを見せるようになりました。こうした一連の風潮は、「大正デモクラシー」と呼ばれています。

この画は、各政糖(党)が互いに軒をならべて「立憲政治」の本家争いをしている場面です。「桂屋」の立ち上げた新政糖(党)(立憲同志会)は名ばかりの「立憲」で人々が寄り付かないので、巡査が強引に勧誘しています。立憲と名乗っているが看板倒れだ、国民は見抜いているぞ、と批判しています。

「大正デモクラシー」は政治だけにとどまらず、社会や文化などあらゆるジャンルに発展していきます。「女性解放運動」「部落差別解放運動」「普選運動」などさまざまな社会運動が発生しました。多くの庶民が参加し、社会のあり方を変えていったのです。

特筆すべきは、「普選運動」を経て1925年に制定された「普通選挙法」でしょう。それまでは一定額以上の納税をしていないと選挙権が与えられませんでしたが、これ以降は25歳以上の成年男子に選挙権が与えられるようになりました。有権者の割合は、1.1%から20%近くにまで増加したそうです。

その一方で政府は、ほぼ同時期に「治安維持法」も制定しています。当初は、革命が起きるのを恐れて共産主義者を取り締まる目的でしたが、後に自由の弾圧を正当化するものとなってしまいました。

治安維持法反対のデモ

景気の悪さは昭和時代に入ってからも継続し、やがては国民の軍部支持へと繋がっていくのです。

関東大震災

関東大震災は、大正12年(1923年)9月1日11時58分32秒に発生した関東大地震によって、南関東および隣接地で大きな被害をもたらした地震災害です。(まさしく今回とりあげた大正時代の給食の年!)

日本橋周辺の被害

京橋通り焼失前の倒壊家屋

死者・行方不明者は推定10万5,000人で、明治以降の日本の地震被害としては最大規模の被害となっています。

関東大地震は「相模トラフ」と呼ばれる相模湾の海溝沿いのプレート境界で生じました。最大震度は7です。

震度7

気象庁の震度階級は「震度0」「震度1」「震度2」「震度3」「震度4」「震度5弱」「震度5強」「震度6弱」「震度6強」「震度7」の10階級となっています。

震度は体感および周囲の状況から気象庁が推定していると覚えていました。しかし、平成8年(1996年)4月以降は、計測震度計により自動的に観測し速報しているようです!

気象庁のHPより

外国人は理解できない日本の震度

マグニチュードは、世界的に共通の尺度です。そして、「地震そのものの大きさ」を示すものですよね。
しかし、震度とは「各地点での揺れの大きさ」を示すもので、それぞれの国ごとに定めた異なる階級が使われているのをご存知ですか。それゆえに、日本での地震速報「どこどこの震度は4、、、」などの情報は外国人には理解できません。

ご興味のある方は、リンク先に日本での震度の基準について英語で説明したものがあるので、お読みください。

震源は神奈川県

震源に近い神奈川県西部の山間部では崖崩れや山津波(大規模な山崩れ、土石流)、沿岸部では津波被害が発生しました。ご存知のように、都市部では地震動で多くの建物が倒壊しています。昼食時間帯(11時58分)だったために煮炊き用の火が元になって、同時多発的に火災が発生したのです。その影響で、ほぼ2昼夜にわたる大規模な火災延焼となってしまいました。

今村明恒(いまむら あきつね/(明治3年5月16日) – 1948年昭和23年)1月1日))が作った地震の地域図

今村明恒は、1870年鹿児島県鹿児島市薩摩藩士・今村明清の三男として生まれています。

今村明恒は、震災予防調査会のまとめた過去の地震の記録から、関東地方では周期的に大地震が起こるものと予想し、1905年に、今後50年以内に東京での大地震が発生することを警告し、震災対策を迫る記事「市街地に於る地震の生命及財産に對する損害を輕減する簡法」を雑誌『太陽』に寄稿した。この記事は新聞にセンセーショナルに取り上げられて社会問題になってしまった。そして上司であった大森房吉らから世情を動揺させる浮説として攻撃され、「ホラ吹きの今村」と中傷された。しかし1923年に関東地震関東大震災)が発生し、明恒の警告が現実のものとなった。その後、関東大震災の地震を予知した研究者として「地震の神様」と讃えられるようになった。

ウィキペディアより

こういう学者がいたのですね。驚きです。

関東大震災に際して、東京での大火災による被害があまりに大きかったために、東京だけの地震だと思っている人が多いですよね。僕もそういうイメージを持っていました。

1923年 大阪日報社(大阪毎日新聞の前身)が作った関東大震災の地図

しかし、震源域は相模湾を中心に広がり、神奈川県から千葉県南部を中心に震度7や6強の地域が広がっているのです。それらの広がりは、1995年の兵庫県南部地震の実に10倍以上に達しています。

  • 東京市の死者・行方不明者:68660人
  • 神奈川市の死者・行方不明者:26623人

これは、当時の人口比で考えると、横浜がかなり被害が多いことがわかります。

  • 東京市の当時の人口:約2200,000人
  • 横浜市の当時の人口:約420,000人

人口比でいうと

  • 東京市の死者・行方不明者:約3パーセント
  • 横浜市の死者・行方不明者:約6パーセント

やはり人口比で考えても横浜の被害は大きいですね。


神奈川県大磯駅近くの被害

歴史上初の世界大戦「第一次世界大戦」

大正時代で忘れてはいけないのは、第一次世界大戦が起きたことです。

多様な民族、宗教が集まり「ヨーロッパの火薬庫」と呼ばれた「バルカン半島・サラエボ(現在のボスニア・ヘルツェゴビナ)」で1914年6月28日にオーストリア=ハンガリー帝国の「フランツ・フェルディナント」と妻がセルビアの青年に暗殺されました。(今回とりあげた大正時代の給食の9年前

事件のイラスト

サラエボでオーストリア皇太子を暗殺したセルビア人青年が逮捕されたところ。

同盟国側(ドイツ・オーストリア・イタリア)と連合国側(イギリス・フランス・ロシア)の2手に分かれて繰り広げられた戦いに日本も参戦しました。日本はイギリスと「日英同盟」を結んでいました。その関係で、連合国側の一員として物資供給を行うことになったのです。

この際に日本はヨーロッパの国中から植民地にされていた中国に対し「21か条の要求」を提示し、ドイツが保持していた「山東省」の権益譲渡などを求めます。中国にとっては到底受け入れられる内容ではありませんでしたが、泣く泣く認めることになりました。

(民衆の反発をうけましたが袁世凱政権は最終的には一部を除き受諾しました)

袁世凱1859年9月16日咸豊9年8月20日) – 1916年6月6日

「21か条の要求」は、日本の帝国主義的大陸進出の第一歩となりました。「21か条の要求」は、ヴェルサイユ条約で撤廃されなかったことから五・四運動が勃発します。この結果に不満を抱いた中国民衆が全国的な抗日運動を起こしたのです。

米騒動

日本も参戦した「第一次世界大戦」は、別の大きな騒動を引き起こすきっかけにもなったのです。
1918年(大正7年)に発生した「米騒動」です。(今回とりあげた大正時代の給食の5年前)

この年の米騒動は日本史上最大規模の民衆暴動なのです。

世界大戦の影響により日本の商品輸出が急増しました。それはある意味、「大正バブル」状態となっていたのです。その一方で国内の物価上昇が問題になってきます。大正時代、近代化とともに貧富の格差が増大しました。そして、都市の人口増による米不足、大商人による米価の吊り上げが起こるのです。


さらに当時の寺内正毅内閣がロシア革命への干渉を目的とする「シベリア出兵」を実施すると政府による買占めが進行、国民の手に米は回らなくなりつつありました。

こうして政府への不満を募らせた国民たちはついに立ち上がります。
全国的な「米騒動」と発展することになります。

その当時の新聞

seeing’s diary より転載

富山の米騒動

1918年(大正7年)7月23日の朝、 富山県魚津町(今の魚津市)の漁家の主婦たち40〜60人が、「米の値段が高くなるのは、県外に米を持っていくから魚津に米が無くなるのだ!」と、米の積み出しを行っていた大町海岸の十二銀行の米倉庫前に集まったのです。そして、米の積み出しを止めるように要求し、このため米の搬出は中止されました。

これは「越中女一揆」とも呼ばれました。

7月27日からは、ほかの地域でも、主婦たちが集まるようになりました。8月3日には、西水橋町(今は富山市内)の主婦たちが、米穀店や米の持ち主の家におしかけ、「米をよそに売らないこと、安く売ってほしいこと」を要求しました。6日には、東・西水橋町と 滑川町(今の 滑川市)の町民が合流して、米の船積み中の船員をおそったり、米の持ち主の家で暴れたりしました。

これらの事件は新聞に報じられ、富山県で始まった米騒動は近隣の村や町、1道3府40県に及ぶ全国的な米騒動に発展しました。

政府は米屋に米を廉売させ,恩賜金,政府支出金を出して民心を緩和しようとしました。そして、新聞報道を禁止しました。しかし、内閣は信用を失い、総辞職に追い込む事態に発展します。

なぜなら、警察だけでは鎮圧できずに軍隊まで投入され、30人の死者と多数の負傷者を出したからです。

米騒動が全国に広がった記事(高岡新報)

米騒動で全焼した神戸新聞社(大正7年)

この米騒動のもう一つの背景

この米騒動の発端は、けして「女一揆」と言われるような暴力性を伴ったモノではなく、同情する警官の説得で2、30人の女はすぐ解散をしたとされています。

こんなにこの「米騒動」が大きく発展した背景の一つに当時の報道姿勢が上げられると最近の研究は考えています。

大げさに煽ろうとしたのか記者が「富山の女房一揆」という記事を書いたのが発端です。

騒動の広がりにつけ、各新聞は騒動の様子を寺内内閣の無策ぶりとあわせ報道しました。危機感を抱いた内閣は、騒動を伝える記事を検閲没収します。そして、それは記事なし新聞の刊行となったようです。

実際に米騒動の現場を訪れてみました

この海から来た船を狙って騒動が起きたと思うと感慨深いです。

旧十二銀行米倉庫です。

現場でなにが起こったかの図です。

近くの公園にモニュメントがあります。

映像でもどうぞ。

大正時代・教育制度の変化

1907年(明治40年)、小学校就学率が97%を超え、国民全体の識字率向上しました。

そして、1918年(大正7年)、高等学校令・大学令が制定されます。原敬内閣の時に、高等学校の増設、単科大学や公・私立の大学設置の許可されるのです。(今回とりあげた大正時代の給食の5年前)

大学令により1920年には慶應義塾大学、早稲田大学、明治大学、法政大学、日本大学、中央大学、国学院大学、同志社大学、21年には東京慈恵医科大学、22年には龍谷大学、大谷大学、専修大学、立教大学、立命館大学、関西大学などの大学設置が認可されています。

日本大学設立許可祝賀会(1920)

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このような時代にこの給食は食べられていた

大正時代は、社会が大きく変化しつつあった時代です。短い大正時代の間にはさまざまな出来事が発生しました。この給食は、「米騒動」教育改革「高等学校令・大学令」の5年後、「第一次世界大戦」の9年後、「大正デモクラシー」の10年後、そして「関東大震災」の年に食べられました。

このような時代に、この五色ごはんと栄養味噌汁の給食は食べられていたのですね。

\見方を変えると、、歴史は面白い!/

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