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食べ物のことわざ|武士は食わねど高楊枝

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武士は食わねど高楊枝

あまりにも有名なことわざで、「上方いろはかるた」というものにも組み込まれています。京いろはかるたは、江戸中期に上方で生まれたかるたです。
「京いろはかるた」とも呼ばれています。江戸いろはかるたよりも歴史が古く、それだけに古いことわざも多く収録されています。

武士は貧しい境遇にあっても、気位を高くもって、泰然としている。清貧に安んじて、じたばたしない。この場合は、食べなくても、食べたあとのようなふりをして空腹の様子を人に見せない――そんな素振り、心構えを言います。

楊枝とは

「楊枝」は、元は歯の垢を取り除くためと、清潔にするために用いられていましたね。元々は仏家の具です。「総楊枝」「房楊枝」(ふさようじ)と呼ばれました。「楊枝」の名は主に楊枝が素材として用いられたからです。「総楊枝」は先を叩いて、「ふさ」のようにしたためにこう呼ばれました。

東西九十六枚の「いろはかるた」

東西九十六枚の「いろはかるた」に武士が登場するのは、この一句だけです。「いろはかるた」が、町人のものだったからです。このことわざ、高楊枝のたかと語呂を合わせてでしょうか、「鷹は飢えても穂を摘まず」ということわざと組になって使われます。これは鷹は農民の作る稲や麦の穂をついばまないというが、それは鷹が肉食の鳥であるからなんです。

ところで高楊枝の「高」は、高枕、高軒、高下駄などのように高々と、あるいは充分にと言う内容がありますので、食事をしなくても、さも食事を済ませたように高々と楊枝をくわえて、ご満悦な顔をしているのでしょうね。

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「寝惚先生文集」

出典は「寝惚先生文集」で、原文は、「昨夜ノ算用(勘定)立タズト言エドモ(払えないが)武士ハ食ワズモ高楊枝」、となっているのです。

狂詩狂文集はすなわち漢詩と漢文が収められています。なんと作者、大田南畝19歳の時の作品集です。

大田南畝

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この若さで自らを寝惚先生とするとこが面白いですね。もちろん漢文と漢詩であるからその教養は並々ならないものがあります。中国詩文集の体にならっているもの、「金ヲ詠ズ」「江戸見物」「桃太郎ヲ送ル序」など身辺の事象をおもしろおかしく写しています。

高楊枝の武士

どうやらこの武士は、開き直った遊び人のような武士だったようでしょうね。表面はお武家様などと立てられていても、つまるところは同じ弱い人間であることを、武士も町人も承知していたようです。

そうなると、このことわざ、元はほんとうに腹が減っても高楊枝でいられた意志強固な、高潔な武士であったかどうか、いささか疑わしくなってきますね。

「絵本いろは戒」の、「武士は表を張り(形式を調えて)、貧乏にてもその顔をせず、勤を第一とする也」という記述は、江戸後期のものですが、武家社会の屋台骨がおかしくなると、かえって建て前ばかりが強調され、やせ我慢の心構えまで説かれるようになったようです。

「近世職人尽絵詞」には下級武士が顔を手拭いで隠して天麩羅を食べていたり、丁稚小僧が手づかみで食べていたりしています。これに見られるように、高級な料理ではなかったようですね。それゆえに武士は隠れて天麩羅を食べているのですね。

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食事の作法

時代によって食事の作法も変化し、当節、食事のあとに楊枝を使う人は極めて少なくなりました。同じ食卓で、楊枝を使う人がいると気になるくらいです。使い方によれば、不潔な感じさえ与えかねません。しかし、武士はごはんを食べていなくても、ゆったりと楊枝を使って、食べたように構えていたというのですから、当時、楊枝を使うのは、現代よりも一般的であったのかも知れませんね。

楊枝の歴史

楊枝の歴史をひもとくと、楊枝で歯を掃除する習慣はインドで始まったと言われ、わが国には仏教と共に伝えられたらしく、平安時代には貴族やお坊さんの間で流行したそうです。

当時の楊枝の長さは現在よりも長く、まるで木枯し紋次郎の使う楊枝のように12〜18センチほどもありました。やなぎ・くろもじ・もも・すぎ・たけなどで作られていました。これらの素材は噛むといい香りがするので、邪気を払う効果があると信じられていました。

木枯し紋次郎

楊枝の種類

種類は総楊枝・平楊枝・山楊枝などがあり、総楊枝は、先を打ち砕いて、総のようになったもので、歯を磨くのに用いられました。

総楊枝(ふさようじ)は歯の清潔を保つために江戸時代歯ブラシのように用いました。房州砂という研磨用の砂や粗塩で歯を磨いた。総楊枝は柳や黒文字など香気のある木が用いられ、神社の境内などで売られました。

平楊枝はやや平らな形の少し反って作った長いようじで,茶菓子などに2本添えて,はしの代りに用い,〈殺ようじ〉はスギの割り木などで作りました。

江戸文学にも出る楊枝

東海道四谷怪談は4代目鶴屋南北(つるやなんぼく)の代表作で、通称は『四谷怪談(よつやかいだん)』。です。ストーリーは、塩冶(えんや)浪人の民谷伊右衛門(たみやいえもん)は、舅(しゅうと)の四谷左門(よつやさもん)に悪事を悟られ殺すことを決意します。伊右衛門の女房・お岩(おいわ)には、お袖(おそで)という妹がいます。お袖は、貧しい浪人の家計を助けるために昼は楊枝店(ようじみせ)で働き、夜は密かに売春宿に出ていました。そういう背景で出てます。

\僕はこの作品、絶賛します!単なる怪談ではありません この本はト書きや説明がとても丁寧になされています 実は忠臣蔵の裏ストーリーなのです

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