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コーヒーと日本の江戸時代|調べてみたら面白かった!

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大田南畝(おおたなんぽ)

「カウヒイ」なるもの

「紅毛船にて「カウヒイ」というものを勧む、豆を黒く炒りて粉にし、白糖を和したるものなり。焦げ臭くて味ふるに堪えず」。

1804年(文化元年)、コーヒーを口にした時のことを、日本人として初めて書いたものです(初めてコーヒーを飲んだ日本人ということではありません)。書いたのは、江戸生まれの文人、大田南畝(おおたなんぽ/(1749~1823))。長崎での体験です。

これは「瓊浦又綴」( けいほゆうてつ)というコーヒーを飲んだ体験記に書いてあります。この時のコーヒーの印象はかなりよくなかったみたいですね。「焦げ臭い」、と、当時の日本人にない感覚の味で驚いたと思います。「味ふるに堪えず」、これは散々の書き様ですね。

つまり、「こんなもな〜飲めた〜もんじゃねえ!」と江戸弁で呟いたのでしょうか。大田南畝であれば、そのくらいは言ったでしょうね。

マルチ人間・大田南畝(おおたなんぽ)

この大田南畝はマルチな才能で人気の文化人です。本名は大田覃(おおた・ふかし)、通称・直次郎。雅号を南畝(なんぽ)といいます。幕府の役人、身分の低い幕臣(御徒歩職)だったのですが、学問を好み、文章が上手で、狂歌もつくりました。世間では蜀山(しょくざん)先生と呼ばれていたのですよ。

この大田南畝が書いた、というので特に僕は興味深く感じるのです。

出島で

大田南畝は長崎奉行勘定役として長崎に一年滞在します(当時56歳)。そして、出島の和蘭商館(おらんだしょうかん)に停泊している「紅毛船」(こうもうせん)にてコーヒーを飲みました。

ちなみに長崎は当時、幕府直轄領でした。いわゆる大名はいません。長崎は長崎奉行が治めていました。長崎奉行の職掌は長崎市中の統治はもとより、キリシタンの取締、長崎貿易やそれに携わる外国人商人の監視、さらには九州大名への監視なども含まれています(けっこうなハードワークですね!)。

出島は元来、来舶ポルトガル人を居住させるために海中を埋築し、1636年(寛永13年)完成したものです。つまり海を埋め立てて島を作ったのですね。1637年(寛永14年)つまり出島を造った翌年、島原の乱が起こり1639年(寛永16年)幕府はポルトガル人を渡航禁止にしました。それによって3年で出島は「空家」となったのです。

そこで1641年(寛永18年)、平戸にあった和蘭商館(おらんだしょうかん)を誰もいなくなった空家状態の出島に移しました。引越しですね。出島は阿蘭陀屋敷(おらんだやしき)と呼ばれ、出島の和蘭商館(おらんだしょうかん)では、この地を通じて日本とヨーロッパを結ぶ経済・文化の交流がおこなわれたのです。

出島の島内にはオランダ商館員の居宅・倉庫等数十棟が建ち、家畜を飼い、珍しい植物が植えられていたそうですよ。

出島とコーヒー

なるほど、大田南畝、出島の歴史、「出島に停泊していた紅毛船」内で、コーヒーを飲んだということが繋がってきました。「紅毛船」でコーヒーを飲んだということは、停泊していた船の中、または甲板にあるテーブルでコーヒーを飲んだのでしょうね。想像すると楽しいです。ちなみに大田南畝は出島でビリヤードもしてます。

大田南畝は長崎赴任時代に長崎中の興味あるところに足を運び、それを書いています。江戸からきた彼には珍しいものがたくさんあったのでしょう。

僕もエッセイストですが、見知らぬ土地で珍しい飲み物を飲んだら、絶対にエッセイにします!

大田南畝記念美術館のサイトを見つけました。いつか行ってみたいと思います。

太田南畝記念美術館

紅毛船(こうもうせん)って何?

「紅毛船」(こうもうせん)とはオランダ船のことです。ポルトガル、スペインの船を「南蛮船」と呼ぶことに対して、遅れて日本に来たオランダ船をそう呼びました。鎖国中は中国とオランダだけが長崎での貿易を許されました。

西洋から来た外国人への線引き

イギリス、スペイン、ポルトガル、オランダ、と西洋諸国はみな同じように見えますが、これらの国々への線引き(違い)ははっきりとされました。

つまり、キリスト教を布教するか、キリスト教を布教しないか、の違いです。

室町時代に日本へ伝わったキリスト教が、江戸幕府にとって次第に脅威となっていたのです。それゆえに、これ以上のキリスト教の布教を防ごうとしました。その中で唯一日本との交易を許されたのが、オランダ。「日本への来航は、布教ではなく貿易を目的」とすると約束したからです。

船舶への線引き

中国船を「唐船」と呼ぶのに対して、オランダ船は「紅毛船」と呼びました。来航禁止の「南蛮船」と区別する意味もあったのです。この「南蛮船」は幕末期には広く外国船をさすこともあったようですよ。「南蛮船」はダメでも、「紅毛船」はオッケーだったんですね。

鎖国

ここまで読んで、あれ?っと思いませんか。そもそも「鎖国」という形態に疑問を感じます。貿易のために来ていたオランダと中国。そのオランダからコーヒーが日本に持ち込まれたんですよね。「鎖国」って玄関に鍵を閉めて、悪者がこない様に家に閉じこもっている様な印象を受けます。そうであったら、「誰も」入ってこれないはずです。色々調べたら、、、、、この「鎖国」という言葉はもう教科書では死語のような扱いなのです。

知っていたのと違う!

ちょっと待ってください!僕が習ったのは、、、

  1. 「江戸時代の日本は鎖国していた」、だから「国を閉ざしていた」んだと思った。
  2. 「貿易は長崎の出島のみを通じ(細々と)、清とオランダだけに制限していた」、そうなんだ、門戸は狭い長崎の一点だけで、特例として(えこひいきか?)中国とオランダはオッケーだったんだと思った。
  3. 「江戸時代の日本人は世界の情勢に暗く、それがペリーの来航によって慌てふためいた挙げ句、何とか幕末維新を成し遂げた」ということから、何にも知らない井の中の蛙の日本がアメリカ様のおかげで開国させていただいた、と思った。

以上が僕の歴史の授業で習ったことで、「このように答えないと試験で点が取れなくなる」ものでした。

面白くおかしく描かれた黒船

これらは古い考えらしいのです。

最近の教科書では、カギカッコをつけて「鎖国」と表記したりしているそうです(何か思惑がありそうな感じですね)。そして、「いわゆる鎖国」「鎖国と呼ばれる状態」という表現もあるとか(いわゆる、、、一つの、、のような長嶋茂雄的な表現に近いですね)

2014年度用の山川出版社「新日本史B」は、鎖国という言葉は黙殺(問題にせず、無視)。「江戸時代は国を閉ざしたのではなく、唯一の開港地長崎に渡来を特許したオランダ・中国商人と貿易し、(中略)東アジアの諸国・諸民族とのあいだに、自国を中心とした通交・貿易体制を築いていた」と記述する例もあるというではないですか!

その上、鎖国が完成したとされる3代将軍徳川家光のころ,「鎖国」という言葉はまだ存在していなかったというから驚きです。

徳川家光

蘭学者・志筑忠雄という人

どうも、この「鎖国」というのは、志筑忠雄(しづき ただお、1760年 – 1806年)という人が作った「造語」らしいのです。

志筑忠雄は阿蘭陀通詞つまりオランダ語の通訳官です。

長崎には通訳官として働く、阿蘭陀通詞と唐通事がいました。それぞれの言葉を駆使して貿易、外国人との交渉、そして外来本の翻訳、などを担当していました。この阿蘭陀の通と唐の通事 がちょっと違います(詞と事が違いますね)。それぞれ担っていた働きも実は違うのです。それはまた後々書こうと思います。

志筑忠雄はドイツ人のエンゲルト・ケンペルという人が書いた「日本史」(オランダ語に訳されたもの)という文献を1801年(享和元年)に訳した際に「鎖国」という言葉を使ったらしいです。ケンペルはドイツの博物学者・医師で、元禄時代に来日しました。2年間にわたって日本研究に取り組んだそうですよ。帰国後、その体験をもとに日本について紹介する「廻国奇観」(かいこくきかん、原題:Amoenitates Exoticae)を刊行しています。その死後に遺稿を集めて刊行されたのが、この「日本誌」なのです(本人が編集したものではないのですね)。遠い未知の神秘の国の様な印象の日本。当時のヨーロッパで広く愛読されたそうです。

ケンペルと書籍「日本史」

問題の箇所です。

  • 「日本国において自国人の出国、外国人の入国を禁じ、又此国の世界諸国との交通を禁止するにきわめて当然なる理」という1章がありました。
  • それを「鎖国論」と志筑忠雄は恐ろしく短い訳にしちゃったんですね。(ちょっとこれは極論ぽいですね)

コーヒーに関する文献

話はまた飛びますが、この志筑忠雄がまたコーヒーと関係あるのです。

先に書いた大田南畝のコーヒー体験記と前後しますが、わが国初と思われるコーヒーの文献が登場したのは1782年(天明2年)です。「鎖国」という造語を作った志筑忠雄の訳書の中で出てきます。その本は「萬国管窺(ばんこくかんき)」です。これは、世界の地理、風俗などを博物学的に紹介した本です。

「阿蘭阿弥陀の常に服するコッヒイというものは、形豆の如くなれども、実は木の実なり」

これ、よく読むと、「コーヒーは豆みたいだけど、実は木の実だよ」、と言っていいるのです。おお〜っ!すごい!と思いませんか。コーヒー豆って言うけど、これは豆科の植物ではありません。木の実であることが正確に記されているのです。すごいですね!

そうです。コーヒーは豆ではないのです。紛らわしくも、英語でもcoffee beansと呼ばれるじゃありませんか。世界中で「豆」と呼ばれていると思います。スペイン語でもGranos de café(コーヒー豆)ですよ。ちなみにチョコレートの原料になるカカオも、マメ科じゃなくてアオイ科です。いわゆるコーヒー豆がなる木は、「コーヒーノキ」と呼ばれます(ストレートですね)。

さて、今までお読みになって気づきましたか。志筑忠雄「コッヒイ」(1782)、大田南畝が「カウヒイ」(1804)、みな、カタカナで書いています。

コーヒーに対する我が国特有の文字がなく表音していたのですね。

「珈琲」と言う文字

1850年代以降、国内へのコーヒーの輸入が頻繁になると、オランダ語のkoffieの音を元に「可非」「可否」「黒炒豆」と様々な漢字が当てられるようになりました。しかし、現在よく見られる「珈琲」という漢字は、幕末の津山藩蘭学者・宇田川榕菴(うだがわようあん/1798-1846)が作ったものです。

宇田川榕菴は「哥非乙説」(こっひぃせつ)というコーヒーに関する論文を書いています。

それがなんと19歳の時。正に天才です!

「哥非乙説」の後、宇田川榕菴は父(実際は養父)の玄真と共に、幕府の仕事でフランス人ショメールが書いた「家庭百科事典」(オランダ語版)の翻訳に携わることになります。

この「家庭百科事典」はフランスの司祭で農学者であったノエル・ショメールが編集した百科事典です。家庭の生活設計や健康管理をはじめ、家畜の飼育や病気の治療法、魚や鳥の捕獲、樹木の栽培など、非常に豊富な内容だった様です。

その訳本「厚生新編」の中のコーヒーの項目を、父の玄真が担当しました。その際に息子榕菴のアイデアを採用して「えごの木と、図で見るコーヒーの木は形状がよく似ていて、味は淡白、微甘、油気が多く西洋の船がもたらすコーヒー豆と異ならない」と書き加えているのです。

宇田川榕菴は持って生まれた鋭い好奇心で様々なものを調べたのでしょうね。資料の少ない時代にすごいことだと思います。

そして宇田川榕菴は蘭和対訳辞典(この辞書は、現在早稲田大学の図書館に「博物語彙」という資料名で所蔵されています)で、初めて「珈琲」という文字を使用したと言われています。その時点では「骨喜」「哥兮」「架非」「珈琲」と複数記述されているのですよ。

よくインターネット上でみられる過ち

よくあるインターネット上の情報は以下です。

昭和初期に研究家がまとめたコーヒーの異名・熟字の一覧には「珈琲」について「宇田川榕菴自筆蘭和対訳辞書ヨリ。現代の【珈琲】の字は榕菴の作字なりし」、、、とあり、、、

この研究家が書いた「昭和初期の文献」を探していましたが、、、

これは、昭和17年に作成した「かうひい異名熟字一覧」という版画家・奥山儀八郎の版画が元と判明!

21番、22番、23番をご覧ください。宇田川榕菴が書いたと刷られていますね。

コーヒー珈琲 「なんだ音から作ったのか!」、と僕は思っていました。caffe だから、「珈」コーと「琲」ヒー。単純だと思いきやそうでもないのです。

以下、学研「漢字源」より

1)まず「珈」

音読み:カ

婦人の髪の上に加える飾り。かんざしをしたうしろにのせる飾り。人の尊卑によって、玉の数をかえる。

2)次に「琲」

音読み:ハイ

たま飾り。多くの真珠に紐を通して、二列にたらした飾り。つらぬく。ひもを通してつらぬく。

それでは、この二つの意味をつなげてみましょう。

玉をたくさんつらぬいた飾り

想像してみてください! そうです。コーヒーチェリーのような光景です。

これです!

この宇田川榕菴のセンス、まことにすばらしい!

興味あったら津山洋学資料館を訪れてください。宇田川榕菴に関するものがありますよ。とても面白い資料がたくさんあります。

江戸時代にやってきたコーヒーの大まかな流れ

このように江戸時代に文献としてまず登場したコーヒー(1782:志筑忠雄)、初めてコーヒーを口にした人物の体験記(1804年:大田南畝)、そして幕末にできた「珈琲」という文字(宇田川榕菴)と、文献を中心に江戸時代でのコーヒーと日本人の関わりについて書きました。

それでは日本で初めてコーヒーを飲んだ人物は誰か?

それは僕にもわかりません。諸説ありますが、また次回ということで。

今回は、ちょっと長くて読むのに苦労したかもしれません。それでは「珈琲」でも飲んで、休憩しましょう。

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