エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|41「行きつけのレストラン」

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ルーマニアに滞在しているときは、行きつけのレストランにしか行かない。知らないところで口に合わないものが出てきて失望、というパターンは避けたいのだ。それに健康志向の僕にとって、料理のレシピを微妙にでも変えてくれる行きつけの店はうれしい。

以前、街に待望の中華料理店が開店して、期待して行ったことがあった。しかしメインディッシュを食べているうちに、どうも具合が悪くなってきたのだ。一緒に行った秘書たちも同様の症状。後になって、うま味調味料を大量に使用していたことがわかった。

「レックス」。僕の行きつけのレストランの一つだ。ラテン語で「王様」という意味で、その名に恥じない高い天井の広々としたスペースに、余裕をもってイスが配置されている。僕が入って来るのを見ると、さっと音楽のボリュームを下げてくれるのも憎い。仕事柄、僕は毎日何千何万という音符のシャワーを浴びて、耳も頭も疲れている。そんな僕に、夜の食事のひとときを静かに、心地よく過ごしてほしいというレストラン側の配慮なのだ。

ある日、いつものように笑顔でレックスに登場した僕の心には、耳を通して微妙な変化が生じた。いつものポップスに代わり、どこかエキゾチックな音楽が流れていたのだ。「なんだろう、このニ短調の音楽は?」。頭の中がクエスチョンマークでいっぱいになる。すぐに音量を下げようとするウエーターに目配せをして、そのままにしてもらった。

ウエーターが注文をとりに来たときに質問した。「この音楽、なに?」。いつものウエーターは笑顔を絶やさずに「マエストロ。これはここのオーナーの出身地、ギリシャの音楽ですよ」。僕はよく聴いてみたいからCDを貸してくれないか、と頼んだ。行きつけのレストランだ、そのくらいのリクエストは許されるだろう。「はい」、と一言だけ残し、ウエーターはすぐに事務所の方に立ち去ってしまった。

しばらくすると、色黒のオーナーとウエーターがCDを持ってきてくれた。片手にはワインも持っている。僕がギリシャの音楽に興味をもったのがよっぽどうれしかったんだろう、そのワインを飲んでくれという。いつも見ている彼らの顔が、今日はまったく違って輝いてみえた。

民族音楽には力がある。二十世紀に入り、そのことを主張したのが、ハンガリーのバルトークだ。彼は民族音楽の中に人類共通の本質を見た。人間への賛歌である。これこそ、忘れてはいけない芸術の大きな目的。人間とは何か。このテーゼを基調に古今の芸術家は悩み、考え、そして表現してきた。バルトークは華麗なコンサートホールを離れ、ハンガリーの村々で行われる音楽を聴き、その本質を見たのだ。

話はレストランに戻る。オーナーはワインを片手に僕に親愛の情を示した。やはり本人にとってルーツは特別なものなのだろう。そして僕もオーナーもこの国では「異邦人」なのである。僕は仕事上、どこにいっても異邦人なので慣れっこだが、お互いに言葉に表さなくてもなにか感じるものがある。日本のこともいろいろ聞かれた。僕らは「王様」の冠を取り、語り合った。その日のディナーはことのほかおいしく感じた。

2005/11/17 

\僕もよく飲んでます!とても珍しいルーマニアの黒ブドウワイン/

追記

このエッセイは2005年に書いたものです。もう随分前のルーマニア・トゥルグ ムレシュの様子です。昔はそうたくさんレストランはなかったのです。しかし、今は様々なレストランが増えました。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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