エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|30「友情」

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このエッセイは鹿児島の南日本新聞に2004年に掲載したものです。

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今から九年も前、ルーマニア国立オーケストラの指揮者になったばかりの頃(ころ)。リハーサルの休憩時間に、トランペット奏者が「中国の人が来ている。シンヤだったら言葉が分かるんじゃないか」と、一人の東洋人を連れてきた。

リハーサル風景

「こんにちは!」。どうやら日本人らしい。なんだか懐かしくなって、レストランで一緒に夕食でも、という話になった。彼との付き合いが始まったのはこの時からだ。

僕たちはそれぞれ得意の言葉で注文した。僕はルーマニア語で彼はハンガリー語だ。

彼はアキオ君といって、僕よりも五歳年下、日本では金属関係の研究者だった。彼は民族舞踊を見に旅したこの街に魅了され、この地の国立民族舞踊団の研究生になったのだという。ここにはルーマニア人の民族舞踊団とハンガリー人の民族舞踊団がある。街の人口構成に比例し、ルーマニア人のものよりもハンガリー人のものの方が大きく、彼は後者の一員だ。

日本人にしては長身の体格と、踊りの才能が手助けして、しばらくして彼は正式団員として採用された。そしてすぐに街の人から「アキオ、アキオ」と慕われた。素朴な文化に魅せられたアキオ君の性格は、その通り実直で屈託がなかった。この街の人は、クラシック音楽を聴くと日本人が指揮していて、民族舞踊を見るとそこに日本人が踊っているのを見た。もはやこの街で、この二人の日本人を知らない人はいなかった。

街の中心のホールで演奏する僕らとは違い、彼らは小さな村々に出かけて公演することが多い。数え切れぬほど田舎の道を往復したであろう、彼らの埃(ほこり)っぽい専用バスに、僕も何度か便乗し、村の公演についていったことがある。

一番左がアキオ君(林昭夫さん/村での公演)

彼の舞台は目を見張るほど素晴らしかった。様々(さまざま)な民族衣装を着こなし、ハンガリーの古い言葉で歌い、踊る。古き佳(よ)き時代の村の結婚式の踊り、男たちが戦場に行く時の女たちの悲しい歌、昔の楽しく賑(にぎ)やかなお祭り―。まるでタイムマシンで見ているような空間が再現される。そしてクライマックスは村人の踊りとの競演だ。「人間ってなんて素晴らしいんだろう!」と素朴な感動があった。

公演が終わると村人に招待され、食事やお酒がたんまり振る舞われる。そこでもまた踊ったり歌ったり賑(にぎ)やかなこと。僕も教えてもらい村人と一緒に踊った。僕の仕事では味わえない、純真無垢(じゅんしんむく)な楽しさ。僕のことを誰もオーケストラの指揮者とは思いもしなかっただろう。街の中では常にそういうポジションで見られている僕にとって、僕のことを知らない村人とのそのひとときが、まるで「ローマの休日」のようだった。

\ルーマニアだけの品種・黒い貴婦人/

ある時、アキオ君は突然舞台から姿を消した。踊り過ぎて膝(ひざ)を故障してしまい、もう舞台に立てなくなったのだ。心が痛かった。踊りを心から愛していたアキオ君の生き生きとした天真爛漫(てんしんらんまん)な姿。村人の素朴な喜びや悲しみを体で表現する舞台。もっと、もっと彼の舞台を見たかった。

年月が流れ、僕は日増しに責任が重くなり、演奏会も多くなった。忙しくなった僕は引退した彼とは長く会えなかった。気がかりだったが、噂(うわさ)でアキオ君は村で子供たちに踊りを教えていると聞いた。

先日アキオ君に久しぶりに会った。舞台を退いた彼は少しふっくらしていた。彼は目を輝かせながら子供たちに踊りを教えている話をしてくれた。

「アキオ君、夕食まだでしょ?」。初めて会ったときのように、僕はルーマニア語で注文し、彼はハンガリー語で注文した。

2004/09/23 

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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