エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|22「突撃レッスン」

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上手(うま)くなりたかった。
母からピアノの手解(てほど)きを受けたのが、音楽に関(かか)わっていくきっかけとなったのだが、中学に入りオーケストラや吹奏楽でトロンボーンを始めた僕は、だんだん合奏の魅力に取りつかれていった。そしてわがままを言って、その当時鹿児島で手に入れられる最高のトロンボーンを買ってもらった。

その重々しい革張りのケースを開けると、中には太陽のように金色に輝く楽器が微笑(ほほえ)んでいる。日曜も中学の音楽室に仲間を集め、一緒に演奏しては、大ステージの上で演奏している夢を見た。楽器もある、情熱もある。
ただ一つなかったのは教えてくれる先生だった。その当時鹿児島にはトロンボーンを専門に教えてくれる人がいなかったのだ。とりあえず上級生が教えてくれていたが、それだけでは物足りなく感じていた。

悩んだ末、トロンボーンを購入した楽器店に行き、店員に相談した。彼は年端もいかない僕の悩みを真剣に考えてくれた。答えが出ないその時、外国のオーケストラの演奏会のポスターが目に入った。「そうだ! 素晴らしいオーケストラが来るのだから、その人たちに教えてもらえばいいんだ!」とあまりにも単純。だが、これが二人の結論だった。外来オーケストラの演奏会に行き、終わった直後、くつろいでいるトロンボーン奏者に不意打ちを仕掛けるという作戦である。

目指すは鹿児島県文化センター。当時の鹿児島の大きな公演は殆(ほとん)どそこで行われていた。用意周到、各楽屋の配置など綿密に記憶する。最初の標的はスイス・ロマンド交響楽団!
「僕はトロンボーンを勉強しているんですが、先生がいないんです」。終演後、トロンボーン奏者の楽屋に行き、彼がズボンを脱ぎかけているところを突然話しかけた。190センチもあろうかという彼の威圧感に一瞬たじろいだが、相手は呆然(ぼうぜん)としていた。
「なんでもいいんです、教えてください」。不意を突かれ、彼は完全に僕のペースに嵌(はま)ってしまったようだった。「じゃあ音階でも吹いてみなさい」。こうやって決死の突撃訪問レッスンは成功したのだ。

鹿児島県文化センター(宝山ホール)客席

中には手強(てごわ)い相手もいて、当時のソ連・レニングラード管弦楽団の奏者とのやり取りは恐ろしく緊張した。ソ連の政策で彼一人では会わせてもらえなかったのだ。突撃訪問すると政府の監視役の人が恐ろしい勢いで飛んできて、なんだか後ろで睨(にら)んでいる。教えるには教えてもらえたが、その緊迫した空気に子供心にも政治の壁を感じた。緊張して音が震えたのを覚えている。

他(ほか)にも、フランスのパイヤール室内管弦楽団や、ドイツ・バッハ管弦楽団などは小編成でトロンボーンは入っていなかったが、指揮者に会いに行った。偉い人に会ったら、なにか偉いことを教えてくれるだろうという恐ろしく単純な考えだった。

パイヤール室内管弦楽団

一連の訪問は、駄目で元々(もともと)と気合は入っていた。近づく姿勢も前斜め45度。容易に断られないよう眼光も120%鋭くしておいた。教えてくれる言葉も様々(さまざま)で、分からないなりになんとか理解しようとした。今思えば英語もろくに話せない丸刈りの中学生が、詰め襟姿でいきなり出現するのだ。夜の酒宴の席で話題になっていたりして。

中学時代「MBCジュニアオーケストラ」(現・MBCユースオーケストラ)の中で演奏する筆者。後列右から2番目。曲はワーグナーのタンホイザー行進曲だと思います。

現在色々(いろいろ)な国に飛んでいく人生の下地はこの時代にあったのかもしれない。自己流で稚拙だった僕の演奏を真剣に聴いてくれたことに今でも胸が熱くなる。今でも彼らのことははっきり覚えている。一挙一動を食い入るように見ていたのだから。
今、多くの人に感謝したい。

2004/09/02

P.S. この話は1973年ごろの話です。スイスロマンド管弦楽団は70年に主席指揮者に就任したサヴァリッシュの指揮だったと覚えています。そして、レニングラード・フィルハーモニー交響楽団は巨匠ムラヴィンスキーの指揮でした。この演奏会では、グリンカ作曲「ルスランとルドミュラ」序曲の素晴らしい一曲目の演奏を覚えています。

他にも共産主義国の東ドイツ・ドレスデンから来たシュターツカペレ・ドレスデンの楽屋にも行きました。この時もかなり緊張しました。楽屋では貴重な歴史的なトロンボーンを吹かせてもらって感動しました。チューニング管がない、まるで博物館でしか見れないような楽器でした。もちろん、政府からの監視人は横についていましたよ。亡命があるといけないので。

パイヤール管弦楽団指揮者のジャン=フランソワ・パイヤール、ドイツバッハ・ゾリスデンの指揮者、ヘルムート・ヴィンシャーマン、など一介の中学生がとても会えるような人物ではありません。今、これらのシーンを思い出し、今の自分では信じられない行動をしていたなと驚いています!

皆さんにお礼するの全く忘れてました。お土産も持って行ってません。そんなアイデアもなく、とにかく突撃していったのです(笑)。

このアイデアをくれた楽器屋の店員さん。鹿児島天文館にあった十字屋という楽器屋の畠中さんという方です。もう働いてはいらっしゃらないのですが、鹿児島に帰るといつも挨拶に行っていました。忘れることのない恩人の一人です。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/

 

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