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バクラヴァ
実は、中東を祖先とするすべての民族がバクラヴァの起源を独自に主張しているため、正確にバクラヴァの起源を特定することは困難なのです。
バクラヴァは、かなり広くその存在を見ることができます。現在では世界のおよそ5分の1の国々で食べられている、とまで言われているのですよ。
\コンデジの最高峰!今回イスタンブールとバクラヴァ実食の写真・これで撮ってます/
現在、トルコだけでなく、中東、東地中海、そしてバルカン半島のほとんど全ての地域でバクラヴァを見ることができます。 ギリシャ、アルバニア、マケドニア、ブルガリア、アルメニア、イスラエル、アラビア半島、北アフリカ、インド、アフガニスタン、移民がバクラヴァの作り方を伝えたアメリカ合衆国、それぞれに伝統的なスイーツとしてバクラヴァは愛されているのです。
しかし、バクラヴァの起源をめぐっては、のちにバクラヴァ戦争と言われる論争に発展するのですよ。
バクラヴァの歴史は一般にアッシリア帝国までさかのぼると考えられる
バクラヴァは、紀元前8世紀頃のアッシリア人が、薄いパン生地を数枚重ね、その間に刻んだナッツを挟み、蜂蜜を加えて原始的な薪のオーブンで焼いたのが最初と広く信じられています。
世界史の窓よりアッシリア帝国の最大領土(前7世紀)
バクラヴァの歴史はかなり古いですね。古代史の範疇までバクラヴァはさかのぼるのです。
この最古のバクラヴァは、特別な日にしか焼かれなかったと言われています。実際、19世紀半ばまで、バクラヴァは「金持ちの食べるスイーツ」だと考えられていたのですよ。
トルコでは今でも、貧しい人々、あるいは中流階級の人々がよく「私は毎日バクラヴァとブレクを食べられるほど裕福ではない」という表現があります。
ブレク(burek, トルコ語: börek, クルド語: boreg, アルメニア語: Բյորեկ, Բուրեկ, アゼルバイジャン語: piroq, ギリシア語: μπουρέκι, μπουρεκάκι, ラジノ語: las burekas, bureka (בורקה ,בורק), ヘブライ語: בורקס, ブルガリア語: бюрек, セルビア語: бурек, アラビア語: بوريك)は、トルコ発祥のパイに似た料理。
ウィキペディアより
バクラヴァの各地域間での広がり
ギリシャ
ギリシャの船員や商人が東のメソポタミアへ向かう途中、バクラヴァのおいしさを発見しました。
そのバクラヴァの美味しさは彼らを魅了したのです。そして、そのレシピはギリシャのアテネに持ち込まれました。
ギリシャ人がこの菓子の発展に大きく貢献したのは、アッシリアのパンのような粗い生地に対して、葉のように薄く巻くことを可能にした生地技術です。実際、「フィロ(Phyllo)」という名前はギリシャ人が作ったもので、ギリシャ語で「葉」を意味します。この技術をバクラヴァに取り入れたのです。
紀元前3世紀以降、比較的短期間のうちに、ギリシャの裕福な家庭の台所では、あらゆる特別な日のためにバクラヴァがトレイに載せられて焼かれていたのです。
アルメニア王国
アルメニア王国は古代のスパイスロードとシルクロードに位置していたため、シナモンとクローブを初めてバクラヴァの食感に取り入れました。
アルメニア王国(アルメニアおうこく)は、紀元前190年から紀元前66年まで独立していた王国であり、428年までローマとペルシア帝国に従属していた国家だった。1世紀にキリスト教の布教が行われ、301年にキリスト教を国教とした。大アルメニア王国とも言われる。
ウィキペディアより
アラブ人たちは
アラブ人はローズウォーターとカルダモンをバクラヴァに導入しました。
バクラヴァのレシピは国境を越える
バクラヴァのレシピが国境を越えるようになると、味は微妙なニュアンスで変化していきます。
発祥の地、アッシリアの北側では、古代ペルシャ王国の宮殿でバクラヴァが焼かれ、食されていました。西側では、ローマの裕福な邸宅のキッチンで焼かれました。さらにビザンティン帝国のキッチンでバクラヴァは焼かれ、それは西暦1453年にビザンティン帝国が滅亡するまで続いたのです。
バクラヴァの完成
オスマン帝国の領土の拡張
西暦15世紀、オスマン帝国は西のコンスタンティノープルに侵攻し、東の領土も拡大し、古代アッシリアの大部分とアルメニア王国全土を覆い尽くしました。
東ローマ帝国(ビザンツ帝国)はついに終焉を迎えます。東のペルシャ王国は西の諸地域をオスマン帝国に奪われました。16世紀から19世紀にオスマン帝国が衰退するまでの400年間、コンスタンティノープル(イスタンブール)のオスマン帝国の宮殿内の厨房は、広大なオスマン帝国の究極の食の中心地となったのです。
オスマン帝国の地図 Britannicaより
こう見るとオスマン帝国はものすごく広いですね。
オスマン帝国宮殿の厨房
オスマン帝国の宮殿やパシャ、宰相の邸宅、地方長官(Vali) の邸宅などで働く各ギルドの職人、つまりパン職人、料理人、菓子職人は、帝国を構成するさまざまな民族から集められていました。彼らは、アルメニア人、ギリシャ人、ペルシャ人、エジプト人、アッシリア人、時にはセルビア人やハンガリー人、あるいはフランス人のシェフが、富裕層の厨房で働くためにコンスタンティノープルに連れてこられたのです。
あの広大なオスマン帝国の地図を見るとこのことが理解できますね。
それは、バルカン半島、ギリシャ、ブルガリア、ユーゴスラビア、ペルシャ、アルメニア、イラク、メソポタミア全域、パレスチナ、エジプト、北アフリカ、地中海やエーゲ海の島々など、広大な地域に広がる帝国の交流と料理・菓子作りの洗練に多大な貢献をすることになります。
19世紀末になると、中産階級の人々のために小さな菓子店がコンスタンチノープル(イスタンブール)や地方の主要都市に出現しました。
オスマン帝国の宮殿は1923年の終焉まで、常に帝国最高の料理の指導的な権威、つまり「アカデミー」であり続けたのです。
バクラヴァ行進
スルタン・スレイマン1世(1520-1566)の時代には、バクラヴァは出陣前の重要な儀式に使われました。
スレイマン1世
その出陣前の儀式で、イェニチェリ(兵士)たちはピラフ、ラムシチュー、サフラン風味のライスプリン(zerde)など大量の食事を与えられました。やがてこの伝統は、ラマダーンの間にバクラヴァを配布することに取って代わられます。兵士たちは、バクラヴァの入ったトレイを宮殿から運び出し、それは「バクラヴァ行列」(Baklava Alayı)と呼ばれるようになったのです。
バクラヴァ行進の様子
ラマダーンの半ばになると、スルタンはカリフ(イスラム教の最高指導者)の立場で預言者のマントとその他の聖遺物を儀式的に訪問します。
その後、預言者のマント行列が行われました。
この儀式に続いて、宮廷の厨房で作られたバクラヴァのトレイが、イェニチェリ(兵士)、騎兵、砲兵、武具係の10人に1個ずつ布で包まれて、宮廷厨房の外に用意されます。
膳は、スルタンの名で鎧職人とその将校が受け取り、その将校は自身が第一イェニチェリ(兵士)でした。
その後、他のものは二人一組の兵士が順番に受け取り、各部隊とその将校がパレードに列をなし、その後ろにバクラヴァの盆を持った兵士が続くというものであったようです。宮殿の門を出て、ディバニョルと呼ばれる大通りを、大群衆に見守られながら、威勢よく兵舎まで行進するのでです。そして、バクラヴァの乗っていた空のお盆は翌日、王宮に戻されました。
お盆や服も食べた?
後年、この行列はかなり騒がしくなったようです。
そして、「バクラヴァがおいしかったので、お盆も服も食べてしまった」などと言い訳をして、お盆や服が戻ってこなくなったという始末。しかし、この行列はイスタンブールの最も興味深い風習の一つであったようですよ。
バクラヴァは媚薬?
バクラヴァはオスマン帝国のスルタンや富裕層とその家族にとって最高の菓子でした。それは、媚薬になると信じられていたからです。
ピスタチオと蜂蜜という2つの主成分は、定期的に摂取することで媚薬になると信じられていました。
また、バクラヴァに加えられるスパイスも、男性用と女性用とで媚薬の効果を微調整し、増強するのに役立っている。女性にはシナモン、男性にはカルダモン、そして男女両方にはクローブです。
バクラヴァ・フランセーズ
18世紀以降、バクラヴァの味と食感はすでに完成されており、これに手を加えることはありませんでした。
しかし、形や焼き台(Siniと呼ばれる)に乗せる方法などには、多少の改良が加えられています。18世紀後半には、伝統的に四角や三角にカットされた「フィロ(Phyllo)」生地(Youfkaと呼ばれるもの)が重ねられ、「フランス風」にアレンジされました。
オスマン帝国が西洋の文化 (および料理) の影響を受け始めたとき、帝室調理場総支配人 (Kahyabasi) は、オスマン帝国に亡命中のマリー アントワネットの元パティシエであるギヨームを雇いました。彼は、バクラヴァを焼く方法を学んだ後、バクラヴァの四角形を切断して折り畳む「ドーム」技術を作成しました。トルコの宮殿は、その作成者のギョームの国籍にちなんで「バクラヴァ・フランセーズ」(フランスのバクラヴァ)と名付けたのです。
近代オスマン帝国でのスイーツ・バクラヴァ
オスマン帝国最後のスルタン、メフメト6世が1920年4月30日の金曜日にユルドゥズ宮殿で行った昼食のメニューに、バクラヴァが載っていることが確認されています。
メフメト6世(Mehmed VI, Mehmed Vahdettin, 1861年1月14日 – 1926年5月16日)
このように、オスマントルコ時代の末期まで、トルコのバクラヴァは宮殿料理の中で特別な日のデザートとして最も好まれていたのです。
バクラヴァ戦争が始まった!
「バクラヴァ戦争」は実は何世紀も前からくすぶっていました。それは、ギリシャ系キプロス人とトルコ人の間で争われていた「どちらがバクラヴァの発祥地か」というものです。
本格的な争いになったのは、2006年、ギリシャ系キプロス人がバクラヴァを自分たちのものと呼ぶことにしたことを発端とします。トルコ人は、まさにこれを冒涜と感じたのです!
ギリシャ人の主張
ギリシャ人の中には、バクラヴァはビザンティン(またはビザンツ)帝国(ギリシャ語が公用語)で生まれ、そしてオスマン帝国が取り入れたのだ、と主張する人々がいます。
東ローマ帝国(ひがしローマていこく、英語: Eastern Roman Empire)またはビザンツ帝国[注 1]、ビザンティン帝国(英: Byzantine Empire)、ギリシア帝国、ギリシャ帝国は、東西に分割統治されて以降のローマ帝国の東側の領域、国家である。ローマ帝国の東西分担統治は3世紀以降断続的に存在したが、一般的には395年以降の東の皇帝の統治領域を指す。なお、当時の国法的にはローマ帝国が東西に「分裂」したという事実は存在せず、当時の人々は東ローマ帝国と西ローマ帝国とを合わせて一つのローマ帝国であると考えていた。皇帝府は主としてコンスタンティノポリスに置かれた。
ウィキペディアより
この主張を証明しようとした スペロス・ヴリオニス教授(Speros Vryonis 1928年7月18日〜2019年3月12日 アメリカのギリシャ系歴史学者)は、ビザンティン(またはビザンツ)帝国で非常に人気のあるコプテやコプトン(koptoplakous)のようなものは、バクラヴァに似ていると書いています。
ついに決着か!
EU加盟を目指すトルコは、ついにブリュッセルにまでこの問題を持ち込みました。結局、2013年にEUはトルコのガズィアンテプのバクラヴァに農産物の呼称と産地を保護する「ヨーロッパ委員会」のリストに、トルコ製品として初めて登録されました。このリストは良質の食品の保護を目的としています。
ガズィアンテプのバクラヴァは、「セモリナクリームとアンテップピスタチオをフィロ生地で何層にも重ねたお菓子」と説明され、トルコ製品として初めて、念願の地位を獲得したのです。
この情報は僕は今回のバクラヴァを取材するまで知らなかったです。イスタンブールの友人に「ギリシャにもバクラヴァがあるよね」とチラッと言った途端、すごい剣幕で「あれは偽物だ!トルコのバクラヴァのコピーだ!」と言われて驚きました。
バクラヴァの起源・実は他にもある
基本的にバクラヴァの歴史は詳しく知られていないのです。しかし、上記のように現在の形はおそらくコンスタンティノープル(現在の英語名イスタンブール)のトプカプ宮殿の帝室調理場で発展したものであることには間違いがありません。
しかし、様々な国、場所で、ここがバクラヴァの発祥だ!、と主張されていることがあります。地球の5分の1の人に食べられているバクラヴァ、それゆえにこういう現象はよくわかりますね。
ポイントはオスマン帝国だ!
赤で丸をつけたところがキプロスです。よく見ると現在のトルコも現在のキプロスもオスマン帝国の一部ですね。ここは、現在の国家で考えるからバクラヴァ戦争が起きるわけで、「オスマン帝国」という大きなくくりで考えると、「な〜んだ、同じ帝国の中じゃないか」と納得します。「オスマン帝国」内で、バクラヴァが発展したことは間違いありません。
バクラヴァの発祥・改めて、、、
色々論争がありますが、やはりアッシリア帝国までさかのぼることから、アッシリア帝国のものでしょうね。バクラヴァの発祥地、現在存在しない国ですから、穏便に解決できるのでは、、、。
バクラヴァの動画
トルコ人が作っている動画です。
バクラヴァをイスタンブールで買った
トルコのスイーツを求めて2022年秋、イスタンブールに行きました。
トルコといえば世界三大料理に入るトルコ料理がありますね。料理が美味しい国はスイーツも美味しいはず。これは簡単に想像できます。それではどういうスイーツが待っていたか紹介していきましょう。
イスタンブール新空港に降り立つ
イスタンブール新空港はとても大きな空港です。世界最多のフライト数を誇るトルコ航空のハブ空港として2030年に完成予定の空港。完成すると世界最大の空港になる予定です。
トルコのスイーツを求めてエジプシャン・バザール(スパイスバザール)へ
イスタンブールの観光の一つにバザールがあります。バザールといえばグランドバザールを思い起こす人が多いと思います。しかし、今回訪れたエジプシャン・バザールは「イスタンブールの台所」とも言われ、こちらも大きなバザールなのですよ。僕の行った時は、このように人が多かったです。
エジプシャン・バザールはトラムのエミニョニュ駅で降りて歩くとすぐです。
エミニョニュ駅はボスポラス海峡の沿岸です。立っているのはヨーロッパ側、対岸にはアジア側が見えます。東洋と西洋の出会う場所、まさしくイスタンブールといえるところですね。
エジプシャン・バザールはほぼL字型の市場です。エジプトから納められた貢物によって設立されたので、ムスル・チャルシュス(エジプシャン・バザール)と名付けられました。かつては香辛料専門店が軒を連ねていたのですよ。それゆえに、スパイスバザールとも呼ばれます。
エジプシャン・バザールの古い写真
たくさんの香辛料が置いてあり、バザール内には独特の香りが漂います。
お茶もたくさん売っています。
グランド・バザールほど大きくないですが、エジプシャン・バザールの90軒ほどあるお店はほとんどスパイスを扱っています。そして、それに加えてドライフルーツ、ナッツ、今回の目的のスイーツなどが豊富に取り扱われているのです。
エジプシャン・バザールは日曜日開いている
日曜日となると閉まっているお店が多いイスタンブールなのですが、ここエジプシャン・バザールは日曜でも開いています。観光に来るときには覚えておきたいですね。ただし、グランドバザールが日曜日に閉まっているので、多くの観光客はエジプシャン・バザールに流れてきます。ですから、日曜日のエジプシャン・バザールは人が多いですよ。
エジプシャン・バザールを動画で見よう!周辺のお店も見れます
エジプシャン・バザールの情報
バクラヴァをRamazan Canbaz(ラマザン・ジャンバズ)で買った。
エジプシャン・バザールではお店に番号がついています。このRamazan Canbaz(ラマザン・ジャンバズ)は、64番です。
お店のインスタグラム。色々な国の人が訪れていますね。
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お店には様々なバクラヴァが置いてあります。
今回、担当してもらったアフメットさんです。どれがいいか相談して、バクラヴァを箱に詰めてもらいました。
バクラヴァを箱ごと真空パックにしてもらい帰国した
帰国し、自宅に帰りいよいよバクラヴァのパッケージを開けることに。このように真空パックすると、バクラヴァは2、3ヶ月もつらしいです。いくつかの違う種類のスイーツも同じパッケージに入れてもらったので、端っこに「バクラバ(バクラヴァ)」とメモ書きしてあります。
\コンデジの最高峰!今回イスタンブールとバクラヴァ実食の写真・これで撮ってます/
いよいよ箱を開けます!現地でチョイスしたバクラヴァ詰め合わせです!
バクラヴァには紅茶が合うと、イスタンブールでお店のスタッフに言われました。お皿に紅茶と一緒に並べてみました。
一つ一つ実食
ナッツの香りが高いです。ナッツ満載という感じで、口の中にナッツが広がります。ピスタチオだけでなくヘーゼルナッツの香りもします。蜂蜜なので、甘味だけでなくちょっと酸味があります。美味しいです!
バターがたっぷりです。フィロがバターをたくさん吸い込んでとてもリッチな味です。
これもナッツ満載です。ナッツでサクサクしています。味は蜂蜜のせいかすごく濃厚です。
これはフィロがサクサクしています。そして蜂蜜が濃厚です。かなり甘いです。
想像していましたが、フィロがサクサクです。しかも、バターのこってりした味も残っています。この食感クセになりそうです。
皮がパリパリです。とてもいい食感だと感じます。やはりバターと蜂蜜でとてもリッチです。