2021年、埼玉県北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。学校給食を通じて、食の歴史文化を学べます。食文化に興味ある方は必見の場所だと感じます。
Contents
学校給食歴史館とは
「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。
埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。
中には多くの食品サンプルがあり、視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。
そして、年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。
館内案内図
学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。
学校給食歴史館の情報
- 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
- 開館時間:9時〜16時
- 入館料:無料
- 公益財団法人 埼玉県学校給食会
〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496
地図
学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。
JRを使う場合 JR北本駅から
- JR高崎線北本駅東口から約3km
- 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車
初めての給食
学校給食歴史館に入ると、まず、明治22年の初めての給食の食品サンプルが目に入りました。山形県鶴岡市で出た、初めての給食です。初めての給食についての関連記事は以下にも書いています。どうぞご覧ください。
それでは、初めての学校給食がでた明治時代の教育の変遷を見ていきましょう。
この記事のまとめ
1)学校制度の制定前段階にあたり、政府関係者は欧米の教育制度を模範としました。フランスを模範とする中央集権的な学校制度を目指しました。
2)文明開花の新しい教育制度は、まず東京で試されることになりました。
3)「学制」制定のために学制起草委員が任命されました。実際には江戸時代からの洋学者が中心になり草案されました。
日本初の近代学校制度「学制」の成り立ち/学校を作ろう!
日本最初の近代学校制度は明治6年(1873年)に、フランスを模範とする中央集権的な「学制」として定められました。
学制の内容は、6才以上の男女に義務教育を受けさせるという内容です。 しかし、学校の建設費の負担や授業料の負担は地元の人に負わされ、負担が大きいので反発がありました。そして、当時の子供は働き手であったので労働力を取られることからも反発があったのです。
このような理由で就学率は低く、実際に学校に通ったのは、一部の子供達だったのですよ。
義務教育の制度は、欧米を手本にした制度であり、前述のように主にフランスを手本にしています。
フランスの制度が、日本にあわない部分もあったので、のちにアメリカの教育制度を取り入れた教育令を1879年に出します。(これが明治の教育制度が混乱する理由にもなっています)
教育制度は強い軍隊のために
フランスでの義務教育の始めの歴史について言えば、フランス革命が1789年に起きたことが、義務教育のきっかけだったとご存知でしたか。
革命によって民主化したフランスは、周辺国の民主化していない国からは危険な国と思われており対立していたのです。
フランスはドイツなどの周辺国と戦うために、軍を発展させる必要があったのです。そのためには工業の発展や、国民の教育が必要であったのですね。工業を発展させるにも教育を受けた学力の高い労働者が多く必要です。また、軍隊を近代化させるにも、もしも兵士が読み書きをできないと、軍の近代化が出来ないのはわかります。(ここは、日本の富国強兵政策ととても共通の部分を感じます。)
このようにして教育を受けたフランスの軍はとても強く、また国家に対する忠誠心も高かったのです。周辺の国の兵士は領主や国王のための戦争をさせられていました。しかし、いっぽうのフランス兵は自らの国を守るために戦争に行ったのです。フランスと戦争をした周辺国のドイツなどは、勇敢なフランス軍に苦戦をしたといいます。
フランス以外の国にも以前から教育制度はありましたが、戦争でのフランスの強さを知り、周辺のヨーロッパ諸国の教育でもフランスを手本に教育を改革していったようです。
明治政府の指導者たちは、このような教育の歴史を知っていました。そして、日本の近代化のため、フランスを手本にしたのであろうと思われます。
左から木戸孝允、山口尚芳、岩倉具視、伊藤博文、大久保利通 岩倉使節団の写真
そうやって作ったのが「学制」です。
「学制」の準備段階/文明開化だ!
欧米教育制度の調査研究せよ!
まず、明治維新は欧米の制度を模範として国家を作ったことを念頭にしなければいけません。
まずは、欧米の教育制度の研究しました。明治維新後の文明開化の思潮とともに、欧米の教育制度の研究や紹介も早くから行なわれていたのです。
そこで文部省が設置されたころ(明治4年7月)にはすでに欧米の教育制度の実情がかなり詳細にわが国に紹介されていました。福沢諭吉の「西洋事情」(慶応2年)などにも西洋の学校制度の大略が紹介されています。
明治維新後には内田正雄訳・開成学校出版の「和蘭学制」(明治2年)、小幡甚三郎訳・慶応義塾出版の「西洋学校軌範」(明治3年)などがあります。
また河津祐之・佐沢太郎訳、文部省刊行の「仏国学制」(明治6年~9年)は学制発布後に出版されたものですが、フランスの学制は当時注目されていたので、その内容は早くから知られていたものと推測されますね。
文部省を作った
文部省の設置は廃藩置県後まもない明治4年7月18日です。
聖徳記念絵画館壁画「廃藩置県」(小堀鞆音画)
「大学ヲ廃シ文部省ヲ被レ 置候事」という太政官布告が発せられています。
「ここに大学を廃止して文部省を置く」ということは、この時まで大学が教育行政の機能をもっていたためです。
明治2年7月の官制改革により教育行政官庁として「大学校」が設置されました。
注意!これはいわゆる学校ではありません。行政官庁プラス最高学府なのです。
同じ年の12月にこれを「大学」と改称しています(紛らわしいですね)。
明治3年7月に大学本校は閉鎖されました。教育・研究の機能を失ないましたが、行政官庁としての大学は存続していたのです。
この大学が廃止されて、新しくもっぱら教育行政を担当することになった行政機関が文部省です。
国内の教育を実態調査せよ!
明治4年9月19日に新しくできた文部省は正院に対して「府県学校取調之儀伺」を提出しました。
政院とは、1871年(明治4年)の廃藩置県後に発布された、太政官職制の最高機関です。
その中で、学制改革を実施するためには、いままでの府県等で施行していた教育の状況が不明では不都合であると述べています。
それはそうですよね、まずは実態調査です。
次いで府県に対する文部省達により、調査表の様式をも示して、諸学校・病院および私塾等についての調査を求めているのです。
「今度学制改革致候ニ付テハ従前府県等ニテ施行イタシ居候諸学校病院ハ勿論其人員等別紙雛形之通取調当年中ニ当省へ差出可相成候事」
その調査表の様式によれば、校名、教授学科名、教員数、生徒数、1年間の経費等を調査して記入することとしています。この調査がどのようなものであるか、詳しい記録は探せませんでした。
まずは、新しい教育を東京で試みようじゃないか
文部省が設置されるとまもなく、文部省は東京府の学校を直轄して、学則等を定めて実地に研究し、実効が現われたら、これを各府県にも施行しようとしました。壮大な実験ですね。
文部省はやがて東京府下に小学校および洋学校の設置を企画し、とりあえず将来実施すべき教育の基礎となる施設を実地に試みることにしました。
明治初期の東京
それは明治4年12月23日文部省布達で示されました。その布達には学校設置の方針、小学校の組織構成、その設置の場所が明かにされています。まず学校設置の方針を見ると、次のように述べています。
開化日ニ隆ク文明月ニ盛ニ人人其業ニ安シ其家ヲ保ツ所以ノ者各其才能技芸ヲ生長スルニ由ル是学校ノ設アル所以ニシテ人人学ハサルウ得サル者ナリ故ニ方今東南校ヲ始処処ニ於テ学校相設ラレ教導ノ事専ラ御手入有之ト雖モ素限リ有ノ公費ヲ以テ限ナキノ人民ニ応スヘカラス然ラハ人民タル者モ亦自ラ奮テ其才芸ヲ生長スルコトヲ務メサル可ラス依之先当府下ニ於テ共立ノ小学校並ニ洋学校ヲ開キ華族ヨリ平民ニ至ル迄志願ノ者ハ学資ヲイレテ入学セシメ幼年ノ子弟ヲ教導スル学科ノ順序ヲ定メ各其才芸ヲ生長シ文明ノ真境ニ人ラシメント欲ス
東京府共立小学校および洋学校の設置にあたって示した方針によって、初等教育に関する文部省の方策が著しく近代化されたものとなっていることがわかります。
共立小学校の設置は、文部省として学制を制定するための準備です。学制後の小学校教育の実地研究を意図していた意味において重要ですね。
学校設置の方針はこれだ
まず学校設置の方針では、次のように述べています。
- 全国一様な教育の改革を実施したいという文部省の構想を明らかにしています。
- そして、その実験的施行の後、学校は再び東京府に引き渡す考えであったようです。
- 文部省では多数の小学校を東京府下に設立する企画もしました。しかし、これは実現しませんでした。
ともかく共立小学校の設置は、文部省として学制を制定するための準備であり、学制後の小学校教育の実地研究を意図していた意味においてとても重要なものです。
学制取調掛/私たちが準備します!
文部省が学制草案の起草に正式に着手したのは「学制」発布2年前の、明治4年12月です。そのことは「学制取調掛」すなわち学制起草委員がこの時に任命されていることからわかります。
国の根幹を決める教育問題を、大急ぎで準備したのですね。
学制取調掛としてどのような人々が任命されたかは以下のように、東京大学所蔵の文書によって記録されています。
学制起草委員
- 文部少博士兼司法中判事 箕作麟祥(フランス法制の権威/開成学校・南校系統)
- 従五位 岩作純(医学校・東校系統/西洋医学・ドイツ学)
- 編輯助 内田正雄(オランダ留学経験者/「和蘭学制」の訳者/開成学校・南校系統)
- 従六位 長光(国漢学者)
- 文部少教授 瓜生寅(英学/開成学校・南校系統)
- 編輯権助 木村正辞(国漢学者)
- 正七位 杉山孝敏(行政事務関係者)
- 従七位 辻新次(フランス学者/開成学校・南校系統)
- 文部大助教 長谷川泰(医学校・東校系統/西洋医学・ドイツ学)
- 西潟訥(行政事務関係者)
- 文部少録 織田尚種右学制取調掛申付候事(行政事務関係者)
- 編輯助 河津祐之(フランス学者/「仏国学制」の訳者/開成学校・南校系統)
多くは当時の著名な洋学者であることがわかります。国漢学者と見られるのは長光(ひかる)(三洲)と木村正辞の二人です。
このことから、日本の最初の教育制度を制定するにあたり、欧米の教育制度を参照して学制を制定しようとした意図は明らかですね。
学制起草委員の中心人物、箕作麟祥(みつくりりんしょう)とはこういう人だ
箕作麟祥(みつくり りんしょう / あきよし、1846年9月19日(弘化3年7月29日) – 1897年(明治30年)11月29日)は、幕末から明治時代の日本の幕臣・官僚、洋学者、法学者。男爵、法学博士です。
元老院議官、司法次官、貴族院勅選議員、行政裁判所長官、和仏法律学校(現・法政大学)初代校長を歴任し、民法・商法編纂委員、法律取調委員会委員、法典調査会主査委員を務めました。
これだけでも、すごい人物だということがわりますね。
父の箕作省吾(みつくり しょうご)
父は箕作省吾。仙台藩の水沢領主水沢伊達氏家臣・佐々木秀規の次男として生まれ、箕作 阮甫(みつくり げんぽ、寛政11年9月7日(1799年10月5日) – 文久3年6月17日(1863年8月1日))の養子なった人です。この箕作省吾は、日本初の世界地図である『新製輿地全図』(しんせいよちぜんず)と、その解説書で西洋地理書の『坤輿図識』(こんよずしき)を著しています。
祖父は、津山藩の洋学者・箕作阮甫(みつくり げんぽ)
この人は、またまたものすごい人です。
洋学で有名な津山藩に生まれました。
幕府天文台翻訳員となり、ペリー来航時に米大統領国書を翻訳、また対露交渉団の一員として長崎にも出向いています。
日本最初の医学雑誌『泰西名医彙講』をはじめ、『外科必読』・『産科簡明』・『和蘭文典』・『八紘通誌』・『水蒸船説略』・『西征紀行』など阮甫の訳述書は99部160冊余りが確認されており、その分野は医学・語学・西洋史・兵学・宗教学と広範囲にわたっている人物。
この箕作阮甫の孫、箕作麟祥が、「学制」準備のための中心人物であったのです。
津山とは
幕末から明治初期にかけて、津山藩は優れた洋学者を出しています。
西洋の内科医学を初めて紹介した宇田川玄随、江戸時代のベストセラー外科書を著して医学用語を確立した宇田川玄真、植物学と化学を初めて紹介した宇田川榕菴、幕末の対米露交渉に活躍した箕作阮甫などです。
宇田川榕菴についてはリンク先にも書いてあります。どうぞ、ご覧ください。
津山は、日本の近代化に大いに貢献した土地です!
津山洋学資料館はとても興味深いですよ。一度、ぜひ訪れてください。
岩倉使節団派遣の前段階で
この教育制度草案を作る学制取調掛は、明治4年12月に発足しています。つまり、以下のような流れです。
- 明治4年11月12日 岩倉使節団が出航
- 明治4年12月 学制起草委員がこの時に任命される
- 明治5年8月2日 「学制」発布
- 明治6年(1873年)9月13日 岩倉使節団帰国
この流れから、岩倉使節団出航前に、「学制」についての提案はされていると考えるのが自然だと思います。そして、岩倉使節団出航後に学制起草委員が任命されたのですね。
そして、西郷隆盛のいる留守政府が「学制」発布。そして、その後、岩倉使節団は帰国という流れです。
岩倉使節団の直接的な影響より、江戸時代からの洋学者の知識によって「学制」草案ができたというのはとても驚きます。
こういう時代にこの給食は食べられていた(学校給食歴史館の食品サンプル)
この「学制」発布の17年後、この給食は初めて出されました。