学校給食の歴史

学校給食歴史館1|日本でただ1つ!給食の博物館 給食の黎明期1

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埼玉県北本市にある学校給食歴史館

なんと、日本でただ一つの学校給食に関する歴史館があるということを知りました。たいへん興味深いですね。調べると、埼玉県北本市というところにあるようです。

給食の思い出

みなさん、給食といえば何を思い出すでしょうか。僕の小学校時代は休み時間は外で精一杯遊んでいましたので、お昼前にはとてもお腹が空いていました。それだから、お昼に出る給食はとても美味しく感じましたよ。

様々な世代で給食に対する印象は違うと思います。僕にとって印象的だったのは、鯨の竜田揚げ、そしてカレーシチューなどです。

妻が言うには、彼女の子供時代には好き嫌いが多く、給食をあまり食べられなかったそうです。そういう人も多いでしょうね。

僕の母校、鹿児島市立谷山小学校はその当時、日本一生徒数の多い学校でした。なんと、全校生徒で約3000人もいたのですよ。小学校卒業時の「卒業生のしおり」という冊子に、「同じバケツの給食を食べた仲間と離れるのは寂しい」と書いたら、「ちゃんと書きなさい」と先生に叱られました。「同じ釜の飯を食べた仲間」という文言のアレンジのつもりだったのですが、、、、。

さて、給食のことを調べていたら面白い歴史館があったので、訪れることにしました。

日本にただ一つしかない給食の歴史館、学校給食歴史館です。

この記事のまとめ

1)学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの給食に関する貴重な博物館です。

2)日本で最初とされている学校給食は山形県の一人の僧侶、佐藤霊山の極めて仏教的な活動から始まりました。それは「貧困児童」を対象に無料で行われました。

学校給食歴史館とは

「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。

埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。

中には多くの食品サンプルがあり、視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。

そして、年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。

館内案内図

学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。

学校給食歴史館の情報

  • 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
  • 開館時間:9時〜16時
  • 入館料:無料
  • 公益財団法人 埼玉県学校給食会
    〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
    TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496

地図

学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。

JRを使う場合 JR北本駅から

  1. JR高崎線北本駅東口から約3km
  2. 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車

僕はJR北本駅から歩いて学校給食歴史館に行きました。が、、、個人的には2)のバスをお勧めします。理由は記事に書いてあります。

初めて埼玉県北本市へ行った

北本市にはJR高崎線で行きました。JR北本駅(きたもとえき)は、東日本旅客鉄道(JR東日本)高崎線です。

中山道の宿場

北本市は歴史的には中山道と密接につながっています。

中山道(なかせんどう)は、江戸時代に整備された五街道の1つで、江戸日本橋京都三条大橋を内陸経由で結ぶ街道である。「中仙道」、「仲仙道」とも表記するほか、「木曾街道」や「木曽路」の異称も有した。

Wikipediaより

中山道は五街道の一つです。五街道とは、江戸時代に江戸日本橋を起点に伸びる東海道中山道日光街道奥州街道甲州街道の五つを指した陸上幹線道のことです。木曽に関所があったことにちなんで、木曽街道(あるいは木曽海道)とも呼ばれます。

徳川家は天皇家との外戚関係を継続させるために、皇族や公家の娘を将軍の夫人にしてきました。これらの姫君たちはいずれも中山道を通って江戸に向かいました。姫君の通行が多くあったため、中山道は「姫街道」とも呼ばれています。

中山道の経路、お江戸日本橋から京都三条大橋までは、約534km、六十七次(宿)です。東海道五十三次に比べると多いですね。海沿いを通る東海道に比べて40キロほど距離は長いのですよ。

中山道最大の宿「本庄宿」

東海道には箱根の山越え、渡し船のない大井川の川越えなどの難所がありました。

それに加えて、中山道は大井川などの、川留めもないことから、重要な街道でした。川留めとは、川越(かわごし)のある川で行われました。一定の水量を超えると川の通行ができなくなるものです。

川越(かわごし)は江戸時代の交通制度。軍事的要地の河川には橋や渡船を設けず人足の肩車,馬、輦台(れんだい)で渡らせたものです。

人足に担がれて渡る人々

輦台(れんだい)の様子

例えば、大井川では、常水2尺5寸とし,4尺5寸で一般人の通行、5尺で公用も含めて一切の渡河が禁止されました(川留め)。最高で28日間川留めが続いた記録もあります。

このような問題がない中山道はより使いやすいですね。

\違った視点で見ると面白いことに気づきます/

中山道の中の7番目

日本橋を発つと、1)板橋宿、2)蕨宿、3)浦和宿、4)大宮宿、5)上尾宿、6)桶川宿と続いて、7番目が鴻巣宿(こうのすじゅく、こうのすしゅく)でした。鴻巣宿は、以下の地図の丸印をつけてあるところです。

その鴻巣宿は現在の北本市の中心部にあったようです。徳川家康が江戸に入って、中山道が整備された当初の1590年(天正18年)、鴻巣宿は現在の北本市に設置されていたというのです。

6番目の桶川宿から近すぎるため、西北方面に宿場をずらしました。それが、現在の鴻巣です。移されたのは1592~96年の文禄年間です。

過去には鴻巣宿だったという意味で「本鴻巣村」と呼ばれるようになり、元禄時代にもともと宿場だったという意味の「本宿村」となりました。

「本宿村」より南に位置する浦和にも「元宿」という地名があり紛らわしい状態でした。その「元宿」と区別するために北にある「本宿村」に「北」をつけて「北本宿村」となったのです。それは、1871年(明治4年)です。

1928年昭和3年)に高崎線の本宿信号場が駅に昇格した際に、所在地が大字北本宿であることから「北本宿駅」となり、1943年(昭和18年)に中丸村と石戸村が合併した際に、両村の最寄り駅である北本宿駅の名を採り、北本宿村が成立しました。

1959年(昭和34年)町制施行と同時に自治体名を改称し、北本宿の宿を抜いて北本としました。

別な資料によると、上越線の駅名を付ける際に「北本駅」とされ、いつしか北本村という名称が広まったらしいです。

そして、市政施行により1971年(昭和46年)「北本市」になりました。

つまり、ここ埼玉県北本市は、このように変わります。(紛らわしい!覚えにくい!)

鴻巣宿 → 本鴻巣村 → 本宿村 → 北本宿村 → 北本町 → 北本市

北本市民の皆さん、この流れ、把握できているでしょうか。

北本宿村が町制施行と改称を経て北本町となるまでの経過については、資料により記載内容が異なるのだそうです。整理して理解しようとしましたが、こうなると、「複雑」という言葉をこえて、「混乱」という言葉が頭をよぎります。市役所で「北本市検定」などというものを作って市民にハッパをかけない限り覚えてくれなそうな流れです。

このあたりの変遷は、「数え歌」にでもして、整理したいものですね。

天保6- 8年(18351837年)、渓斎英泉
人家が途絶えた寂しい道は鴻巣宿近辺ではなく、さらに先、間の宿がある吹上辺りの風景。

学校給食歴史館は北本駅から歩いたらなんと40分かかった!

歩くと中山道の名残があるかも、と思い、歴史館のサイト上の地図を基に歩いてみました。色々と古い宿場を感じるものがありましたよ。

JR高崎線北本駅東口から約3km。この地図見るとシンプルなので、歩こうと思いました。

なんと、40分もかかりました!

健脚の人でないと、お勧めしません。

ちょうど、この学校給食歴史館を訪れた前に、左膝がちょっと痛くなって、整形外科で見てもらったんです。その整形外科のクリニックで左膝にたまった水を抜いて、ヒアルロン酸を注入していたのです。だから、歩けたものの、そうでなかったら無理だったかも。

学校給食歴史館に着きました!

学校給食歴史館は、「埼玉県学校給食会」の敷地の中にあります。きれいに整備された敷地内を進むと、数人の年配の女性から声をかけられました。

「歴史館ですか?今日は館長がいるから話を聞けると思いますよ」

黄色い屋根が印象的です。

学校給食歴史館の玄関を入る

館長さんがいらっしゃいました。千島宏一(ちしまこういち)さんです。「今、裏の草刈りをしていて、ちょっと待っていてください」と言われ、玄関でしばらく待つことに。

靴を脱いでスリッパに履き替えます。幸運にも訪問者は僕一人。館長さんに色々と説明していただきました。

入り口を入ると重要な記念碑のレプリカがあった

「学校給食発祥の地」の記念碑レプリカが玄関にありました。

学校給食発祥の地

明治二十二年十月鶴岡の各宗寺院住職ら相図り恵まれぬ家庭の子弟教養のため大督寺内に私立忠愛小学校を開設浄財をもって子弟に弁当を給した しかるに同三十年十二月該校舎は不幸にも焼失同三十三年七月該校開設の素志達成の熱意は各宗協同忠愛協会の結成となりその資金を年々恵み薄い子弟等の給食費にあて昭和二十年まで継続した 大督寺境内におろされた給食の種子はその後全国各地に開花し昭和二十九年六月には学校給食法としてみごとに結実今や給食人員は九百万をこえ児童生徒の体位は著しく向上した ここに学校給食七十年の源をたずね先賢の慈悲の心と達眼とをしのび学校給食発祥の地に記念碑を建て永くその徳を欽慕する

昭和三十四年十一月六日

題字
文部大臣 松田竹千代
撰文
山形県知事 安孫子藤吉
碑文揮毫
山形大学講師 管野小鶴
建立者
山形県教育委員会
鶴岡市教育委員会
全国学校給食会連合会
財団法人山形県学校給食会

記念碑のある場所は

学校給食発祥の地は、山形県鶴岡市の長龍山先求院大督寺です。

大督寺は天正9年(1581年)創建の浄土宗のお寺です。そして、庄内藩主・酒井家の菩提寺です。鶴岡公園(鶴岡城)から徒歩5分の家中新町(かちゅうしんまち)にあります。実は、この地はかつての鶴ヶ岡城の三の丸にあたるそうですよ。

明治22年(1889年)10月、大督寺境内に川田郡内の宗派を越えた住職の合意に基づく慈善救済事業で私立忠愛小学校(私立各宗協同忠愛小学簡易科学校)を設立しました。そこで、学校給食を実施したことが、日本における学校給食の始まりとなっているのです。

学校給食といっても僧侶が、お経をとなえ一軒一軒家を回って米やお布施をいただき、弁当を持ってこられない子どもたちに食事を提供したものなのです。仏教らしい活動に感じます。
形を変えてこの学校給食は昭和20年まで続けられたそうです。

この記念碑の碑文は実際には、地面に置いてあるようですよ。

書かれている題字はこの記念碑を立てた昭和34年11月6日時点の文部大臣、松田竹千代によるものですね。

松田 竹千代(まつだ たけちよ、明治21年〈1888年2月2日昭和55年〈1980年12月1日)は、日本の男性政治家衆議院議長文部大臣郵政大臣を歴任した。正三位勲一等。

Wikipediaより

新説・学校給食発祥の年は明治25年

記念碑に記載されている明治22年は「私立各宗協同忠愛小学簡易科学校」として発足した年です。
明治21年から小学校の授業料も父母負担となったので就学率が下がり各町村の小学校も授業料無料の簡易小学校に代わった所が多かったといいます。それで救貧学校として「各宗協同忠愛小学簡易科学校」が設置されたようです。
ところが新政府は明治25年からは「簡易小学校」は廃止し「尋常小学校」に代えるように指示しました。忠愛学校も明治25年度から尋常小学校になったようです。

それまで、半日制だった学校は午後まで続き、弁当を持参できない児童に、托鉢によって集まった食糧を昼食として給与したということです。

昭和34年に全国学校給食研究会のために忠愛学校卒業生の座談会がなされました。そのうち3人が忠愛学校発足からの入学生だったそうです。その中の2名がおにぎりを食べたと証言しています。年齢からすると、明治25年当時4年生であったということになります。

これらのことを考えると、全国学校給食発祥は明治25年ということになりますね。

明治22年は簡易科小学校としての設立年度で、学校給食のはじまりは「尋常小学校」となった明治25年であると、平成5年刊『山形県教育史9』において記載されています。

それもこれも明治時代の学校の制度は様々な試行錯誤の上、変化しています。つまり「混乱気味」なのです。明治政府というのが今までにない新しい社会を作ろうとしたのだから、納得もできます。つまり学校に関しては「紆余曲折」の歴史なのです。それゆえに、このような年代のズレが生じたのかもしれません。

この学校制度の変遷については、次回以降また書きたいと思います。

それでは日本初の学校給食をご覧ください。

学校給食歴史館に置いてある食品サンプルです。

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