前回からの続き 学校給食歴史館に行きました。埼玉県北本市にある、日本でただ1つの給食に関する博物館です。
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学校給食歴史館とは
「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。
埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。
中には多くの食品サンプルがあり、視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。
そして、年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。
館内案内図
学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。
学校給食歴史館の情報
- 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
- 開館時間:9時〜16時
- 入館料:無料
- 公益財団法人 埼玉県学校給食会
〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496
地図
学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。
JRを使う場合 JR北本駅から
- JR高崎線北本駅東口から約3km
- 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車
この記事のまとめ
1)学校給食歴史館を訪れました。埼玉県北本市にある日本でただ一つの給食に関する貴重な博物館です。
2)日本で最初とされている学校給食は山形県の一人の僧侶、佐藤霊山の極めて仏教的な活動から始まりました。それは「貧困児童」を対象に無料で行われました。
\違った視点で見ると面白いことに気づきます/
学校給食歴史館・館長さんにご説明いただきました
たまたま訪問者は僕だけだったので、館長の千島宏一(ちしまこういち)さんに説明していただけることになりました。幸運です。
大督寺
まずは、千島さんに明治22年の学校給食の始まりの話、大督寺の話を伺いました。学校給食の始まりの話は、前回の投稿をご覧ください。
大督寺の一人の僧侶が私立忠愛小学校を設立し、無料の学校給食が始まったという話をしていただき、とても興味深く感じました。
初めての学校給食(学校給食歴史館にある食品サンプル)
- おにぎり
- 塩鮭
- 菜の漬物
現代から見ると、質素に見えますね。作りやすさからいっても給食の黎明期のもの、という事がうなずけます。
そして、千島さんにこの展示の説明の後、館内の他の展示の説明もしていただきました。
佐藤霊山とはどのような人物か
そこで、学校給食開始の立役者、佐藤霊山のことをもっと詳しく調べてみました。
嘉永4年(1851)に生まれました。この年の翌々年、嘉永6年(1853)に、アメリカの東インド艦隊ペリー提督が4隻の黒船を率いて浦賀沖に到着しました。
そして、佐藤霊山が、亡くなったのは昭和2年(1927)。
とはいっても1926年12月25日からの、たった7日間で昭和元年は終わりました。年末ともあって慌ただしかったことでしょうね。そして、昭和はすぐに2年となりました。佐藤霊山が亡くなった時は、世の中全体が、まだ「昭和」に慣れていなかった時です。そして完全な365日の1年間として迎えたのが、この昭和2年なのです。
昭和2年は浅草〜上野間に初めて地下鉄が通った年でもありました。
まさしく佐藤霊山は幕末から昭和初期まで、激動の時代を生きたともいえますね。それにしてもこのポスターに描かれた子供達、オシャレですね。
誕生・出家・上京
佐藤霊山は嘉永4(1851)年、鶴岡市上肴町、佐藤惣兵エの四男として誕生し、8歳にして浄土宗・常念寺で出家したようです。
浄土宗とは法然を宗祖とする日本の仏教です。現在は、京都市にある知恩院を総本山とし、全世界に広く信徒がいます。南無阿弥陀仏と唱えていれば、心と体が清らかになり、死後、極楽浄土に生まれ仏さまになることができるという教えです。
現在の常念寺
佐藤霊山は上京し、江戸・小石川の伝通院で修行しました。ここは永井荷風が「パリにノートルダムあるように、小石川にも伝通院がある」と書いたほど由緒ある将軍家由来の寺です。折からの明治維新の激動の中で佐藤は青春を送りました。廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の風潮に逆らい、一時は学業をなげうつほどであったといいます。
廃仏毀釈とは、明治初年(1868年),維新政府の神道国教化政策に基づいて起こった仏教排斥,寺院・仏像・仏具破壊運動のことです。これは、明治の闇の部分です。本当にひどいと思います。
現在の小石川の伝通院
やがて信仰の世界に入り、称名念仏は1万遍におよぶほどと記録されています。
鶴岡に戻る
明治8年(1875年)、鶴岡に帰り、鶴岡山・常念寺第二十世住職となりました。そして、弘化3年炎上した伽藍の復旧に努めたのです。なんと、8歳で出家したそのお寺の住職になるのですね。
佐藤の宗教家としての面目は数々の社会事業にあります。仏教でいう利他行ですね。
利他行とは自分の利益よりも他人の利益を優先する行のことです。
小学校を作った
明治22年(1889年)、各宗寺院と協力し、私立各宗協同忠愛小学簡易科学校を大督寺に創ります。
明治時代の子供達(イメージ写真)
貧困家庭の児童救済のために学用品、雨具などを用意し、昼食を無料で支給したそうです。我が国給食の発祥ですね!小学校といっても、お寺の中を一部使って学校にしたのですよ。
給食を始めた年代については、1つ前の投稿を参考にしてください。
格差の大きい社会
日本は明治維新後、急激に工業化をすすめました。しかし、国全体を見れば、「貧しい農村社会」だったのです。都市の生活者たちは文明開化の号令で便利で文化的な生活始めていました。しかし、当時の人口の大部分を占めていた農山村では、まだ江戸時代とほとんど変わらないような生活をしていたのです。
農村の子供達は学校に行けたとしても、お昼ご飯など持たせてもらえないくらい貧しい子が多かったと想像できます。
給食の始まりは極めて仏教的な活動だった!
その資金として有志より寄付を仰ぎ、更に各宗協同の行乞(ぎょうこつ)で浄財を受けました。行乞とは托鉢のことですね。行乞は毎月1日、10日、15日、25日の4回、夏冬を問わず行われ、佐藤は一日も欠席しなかったといいます。これにはすごい情熱を感じます。
冬の朝、佐藤がある寺を訪れ、持ち前の大声で行乞の勧誘をしたそうです。毎度のことでその寺の住職はいささか気がすすまないのだが、出ない訳にもいかないと感じたそうですよ。
渋々同行するといったことがあったというから佐藤の情熱に絆されたのでしょう。大声といえば住職を務めた常念寺の山門の辺りで、寺内にいる弟子たちに用を言いつけると皆聞こえたそうです。山門から玄関までざっと100メートルです。さぞ大音声だったに違いありませんね。
佐藤は行乞ですっかり町の有名人になったそうです。佐藤は個性的であったし、社交性に富んだ人であったらしいですね。大正11年4月29日の「日刊荘内」の記事に「今田水産翁、酒井勝貫氏、佐藤霊山氏は共に鶴岡の三名物男として名高い」とあります。
今田水産翁とは今田栄氏(こんたえいじ 1855〜1922)のことです。庄内の漁業を語るとき、その事蹟を忘れることができない人物です。酒井勝貫は医学を学んで維新後に開業し、断絶していた酒井家を再興。粗末な家に粗末な衣服を着て、貧民達を診療して無理に金は取らず、侠医として称えられた人物です。
大督寺の焼失
とても残念なことに、忠愛小学校は明治33年(1900年)大督寺の焼失で止む無く廃校になりました。
しかし、新たに各宗協同忠愛協会の手によって行乞が続けられたそうです。大正8年には1年で655円給与されています。
そのころの1円は現代の約4000円くらいですから、現代でいえば262万円くらい集めたと考えられますね。
さらに広がる社会事業
佐藤の主導する社会事業はさらに広まります。明治37年には仏教各宗奉公義会が創られ、日露戦争に従軍した軍人家族の慰問や戦死者の法要を営んでいます。
大正元年(1912)には明治天皇の崩御による恩赦令の結果、多くの免囚(刑期を終えて刑務所から出て来た人)が社会に生まれましたが、その保護のために各宗慈済会が組織され、毎月2回行乞が行われました。
佐藤の経歴を見て驚くことは、毎年のように数々の個人的献金を続けていることです。特に多いのが各地の災害に対してです。関東大震災にあたっては3度に渡って献金しているのです。そして目が不自由な方への教育をはじめ、各種の教育活動に対しても献金を行っています。
関東大震災
更に当時の世相を反映した愛国婦人会とか、軍隊慰問とか、従軍家族に対する献金もあります。
さまざまな活動において、佐藤霊山は各宗派の寺院に呼びかけていることが特徴的かなと感じます。宗派の垣根を越えて、働いているのは素晴らしいと思いました。
後に佐藤霊山の経歴の大部分はこの献金とそれに対する公の表彰に費やされています。
大正13年の東宮殿下(後の昭和天皇)御成婚に際し、師の社会事業尽力に対して御紋章銀盃と金200円を下賜されました。
慈愛の人・佐藤霊山
佐藤は年と共に慈愛の人となり、法事で頂戴したまんじゅうをいつも懐に入れて、出会う子供たちに与えていたというからその人柄が偲ばれます。
昭和2年9月2日、77歳で亡くなりました。
素晴らしい人物ですね。こんな人がいたのだ、と改めて感動しました。佐藤霊山のこの働きが現在の学校給食までつながっているのですね。佐藤霊山が現代の子供達や給食を見たら、何を思うでしょうか。
佐藤霊山の働きで作った給食(学校給食歴史館にある食品サンプル)
改めてこの給食を見ると感慨深いものがあります。当時、とても美味しく食べたのでしょう。
明治時代の子供達