学校給食の歴史

学校給食歴史館16|日本でただ1つ!給食に関する博物館 昭和20年の給食と世相

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2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。

それでは、学校給食歴史館の展示物とともに学校給食の変遷を見ていきましょう。

学校給食歴史館1|日本でただ1つ!給食の博物館 給食の黎明期1学校給食歴史館に初めて行きました。埼玉県北本市にあります。そこに、明治22年の日本で初めての学校給食のレプリカがありました。初めての給食は一人の僧侶が極めて仏教的な活動として始めました。...

この記事のまとめ

1)昭和20年、太平洋戦争が終わりました。食糧難の中、この給食は提供されました。

2)脱脂粉乳が出ました。脱脂粉乳が牛乳に移行し始めたのは、昭和33年。完全牛乳給食になったのは、昭和38年です。

昭和20年の給食

ミルク(脱脂粉乳)、みそ汁

これは、汁物と汁物の献立ですね。

全国的に給食が実施されるのは、学校給食の基本的な枠組みを規定した学校給食法が、昭和29年に制定されてからです。

昭和20年の世相

戦争指導者の決断の遅さが自滅への時間を引き延ばしていきました。硫黄島、沖縄を失います。東京大空襲、日本全土に空襲が拡大しました。


原爆投下、ソ連参戦を経て日本無条件降伏。日本全国、虚脱状態となります。人々は戦争が終わると、その後どうなるのか想像もできなかったのですね。

原子爆弾によるきのこ雲

「神風」という天佑神助への期待も少しはありましたが期待は打ち破られ、そしてマッカーサーの占領政策が始まるのです。

「臣民」は「国民」になりました。

日本軍に降伏を促すビラ

玉音放送

昭和20年、8月15日、終戦の詔が発表されました。 いわゆる、玉音放送です。これで、太平洋戦争は終わりました。

食料配給制度がありました

戦争が終わり、空襲におびえることはなくなりました。しかし、物資不足により人々の暮らしは戦中を上回り、一層苦しいものとなったのです。

食糧や生活必需品などは引き続き配給制が取られました。しかし、遅配や欠配が続き、都市部では餓死者も出たほどであったのです。

人々は正規の配給量だけでは飢え、特に都市部の人々は、農村部への買い出しに行きました。そして、闇市で法外な値段で入手したりするほかになかったのです。また、衣類は物々交換の際に食糧と交換され、破れても丁寧に繕いながら着用するのが一般でした。

青空の下で食事 横浜で

そんな中、配給が始まりました。

深刻な食糧不足や遅配に見舞われ闇市が各地に広がりました。(東京・新橋駅前)

食糧難

終戦後も主食配給量は絶対的に不足し、さらに予定の配給量が遅れる「遅配」と、配給が取り消しになる「欠配」が続きました。とにかく、食料がなかったのです。

食糧不足が一層深刻となり、多くの餓死者が出るとの危機感が広がります。以下のポスターの、餓死対策国民大会は、昭和20年(1945)11月1日に東京・日比谷公園で開催されたものです。そこで、配給量の確保を政府等へ訴えました。

子供達は

空襲罹災児童

これは、終戦の年に日本各地で受けた空爆によって家族と死に別れた子供たちのことです。家に爆弾が落ちて親が亡くなったり、火の海の中を逃げている最中に生き別れたりしました。あるいは、疎開から帰ってきたら家族が全滅していたと判明し、一人で路上暮らしをはじめた場合もあります。

空襲罹災児童や、戦災孤児などの戦災孤児は12万人いたとされています。

そんな中、学校が青空の下で始まりました

黒塗り教科書

折り畳み教科書

昭和21年に作られた暫定教科書。折りたたんだ後に折れ目を切ってとじて使用。

はじめは、教科書として「墨塗り」の教科書が使用されました。これは戦争中の教科書で、内容に問題のあるところに墨をぬって使用したものです。9月には新しい教科書が配られましたが、紙の質が悪く、ざらざらで破れやすいものでした。それでも子どもたちは何とかがんばって勉強を始めていったそうです。

その頃の小学6年生の子どもの体は、今の4年生の子どもの体と同じくらいでした。子供の笑顔はどの時代でもいいものですね。

マッカーサー日本に降り立つ

8月30日、GHQ(連合国最高司令官総司令部)最高司令官ダグラス・マッカーサーが来日しました。

メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長いそして困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終息し、日本軍は続々降伏している。この地区(東京地区か)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。

 

日本側は非常に誠意を以てことに当たっているようで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであろうことを期待する

(朝日新聞東京本社版 1945年8月31日付より)

日本は連合国占領下のもと、新しい道を歩むことになります。

昭和20年に流行した曲

リンゴの唄

リンゴの唄は戦後初めてのヒット曲です。歌っていたのは、並木路子霧島昇(霧島の共唱はオリジナル版のみ)です。この曲は、昭和20年(1945年)10月に公開された戦後映画の第1号「そよかぜ」の挿入歌なんですね。作詞・サトウハチロー、作曲・万城目正(まんじょうめ ただし)です。軍歌から解放された人々の間で大ヒットしたのがわかります。

レコードは翌年、昭和21年1月に発売されました。実は、この曲は戦争終結の2ヶ月前にサトウハチローが作詞しました。しかし、「軟弱すぎる」という理由で検閲不許可になってしまったのです。

以下、映画「そよかぜ」の「リンゴの唄」

この曲のレコーディングの時に、作曲家・万城目正は並木に何回も歌いなおしさせています。「もっと明るく!」というのが、彼の要求でした。

しかし、この時、並木は両親と次兄を戦争で亡くしていて、その要求は辛く難しいものだったようです。「君一人が不幸ではないのだよ」と万城目は並木を励ましたそうです。

この曲が、初めてラジオ放送で流れたのは、12月10日です。芝・田村町の飛行スタジオNHK公開番組「希望音楽会」からの放送でした。

この時、並木路子は観客にリンゴを配りながら歌ったそうです。その時には、リンゴは大変貴重なものだったので、会場がリンゴの取り合いになり大混乱したそうですよ。

その当時、闇市でリンゴ1個は5円。サラリーマンの月給が200円の時代です。

そんな中この給食は食べられた

書かれているような食糧難の中、この給食は出されました。社会情勢を考えると、この給食の内容はとてもよく理解できますね。

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