学校給食の歴史

学校給食歴史館15|日本でただ1つ!給食に関する博物館 昭和17年の給食と世相

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2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。

それでは、学校給食歴史館の展示物とともに学校給食の変遷を見ていきましょう。

学校給食歴史館1|日本でただ1つ!給食の博物館 給食の黎明期1学校給食歴史館に初めて行きました。埼玉県北本市にあります。そこに、明治22年の日本で初めての学校給食のレプリカがありました。初めての給食は一人の僧侶が極めて仏教的な活動として始めました。...

この記事のまとめ

1)昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件、日中戦争を発端に生活への引き締めが行われます。特に食糧については統制が厳しくなりました。その時代に「すいとんのみそ汁」が学校給食で出ました。

2)国策で、節米政策がとられました。その中でこの「すいとんのみそ汁」は学校給食になりました。節米とは戦時下の食糧を確保するために、米の消費を制限することです。

昭和17年の給食

(全国的に給食が実施されるのは、学校給食の基本的な枠組みを規定した学校給食法が、昭和29年に制定されてからです。)

メニュー

すいとんのみそ汁

菜葉が入っていますが、かなり質素です。これには理由があり、それはこの時代独特の食糧統制があったからです。

前年は

学校給食は貧困児童の救済・児童の栄養改善に向けて全国に広がり、内容の充実が図られるも、太平洋戦争による食糧不足のため、昭和16年、この給食の前年、学校給食は中止となります。その中で出来うるものを作ったのがこの給食だと思われます。

すいとんとは

すいとん水団)は、小麦粉生地を手で千切る、手で丸める、匙ですくうなどの方法で小さい塊に加工し、汁で煮た日本料理

ウィキペディアより

すいとんは戦時中の代用食

第二次世界大戦末期から終戦にかけ、食糧事情の悪い時期の日本では主食のに変わる代用食として、すいとんの名を借りた料理が作られた。戦争による物資に乏しい時代背景から小麦粉が不足していたため、大豆粉やトウモロコシ粉、高粱粉など、あるいは糠(ヌカ)などが混ぜられたものを材料としたことがあり、これらはとても本来のすいとんと呼べるような代物ではなかったという。水で溶いた粉を汁、またはただの湯に直接落とし込んで団子のように固め、昆布煮干鰹節が入手できないために出汁は取られず、味噌醤油が不足していたためにまともな味付けの余裕も無かった。塩味を補うため、海水で煮るなどの調理も行われた。ほとんどの場合、野菜や肉などの具が入ることは無かったうえ、サツマイモの葉や蔓など本来、日本では捨てられる部位を具にしていた。

当時の体験談によれば、燃料不足で炊事に十分な熱量を得られず、団子は中心部まで火が通らない生煮えの状態で食べざるを得なかった。団子を噛むと生煮えの生地が歯にこびり付き、原料粉の品質の悪さも手伝って非常に不味かったそうである。

現在では終戦記念日に戦時中のすいとんを食べ、過去の大戦を偲ぶ行事が日本全国で行われる。

Wikipediaより

学校給食歴史館とは

「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。

埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。

中には多くの食品サンプルがあり、歴史的に、そして視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。

そして、学校給食に関する歴史年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。

館内案内図

学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。

学校給食歴史館の情報

  • 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
  • 開館時間:9時〜16時
  • 入館料:無料
  • 公益財団法人 埼玉県学校給食会
    〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
    TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496

地図

学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。

JRを使う場合 JR北本駅から

  1. JR高崎線北本駅東口から約3km
  2. 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車

昭和17年(1942年)の世相

戦勝ムードは開戦から半年もすると、下火となっていきました。戦線は拡大するばかりだったのです。国民は次第に耐乏生活を強いられます。
しかし勝利を信じて国家と命運をともにする他はなかったのです。

前年は

この年の前年、1941年12月8日午前8時(ハワイ時間)の日本軍による真珠湾奇襲攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)が始まりました。

昭和17年は戦勝ムードにわく中で戦時体制の強化が進んだ年でもあります。

昭和17年(1942年)の流行語

欲しがりません 勝つまでは

戦時中の有名な標語「欲しがりません勝つまでは」。1942年(昭和17年)、大政翼賛会と新聞社が「国民決意の標語」を募集した「大東亜戦争一周年記念」の企画で、32万以上の応募の中から選ばれました。

作者として応募したのは、当時国民学校5年、11歳だった三宅阿幾子さんでした。しかし、作ったとされるこの標語は実は父親が作ったのだそうです。

このような状況で、あの「すいとん」だけの給食というのは納得できます。

この標語の企画は、大政翼賛会と朝日新聞・東京日日新聞・読売新聞の3紙が「国民決意の標語」を懸賞募集(入選は賞状ならびに副賞金が100円(公債)、佳作は副賞金20円(公債))し、広告が11月15日の各紙面に出されたものでした。
その結果、4日間で32万以上の応募があり、その中から、以下の入選10点と佳作20点が選ばれ、11月27日付の紙面上に発表され、町内・職場等に掲示されました。入選作は、以下の10点です。

  • 欲しがりません勝つまでは
  • 「さあ2年目も勝ち抜くぞ」
  • 「たつた今!笑って散った友もある」
  • 「ここも戦場だ」
  • 「頑張れ!敵も必死だ」
  • 「すべてを戦場へ」
  • 「その手ゆるめば戦力にぶる」
  • 「今日も決戦 明日も決戦」
  • 「理窟言う間に一仕事」
  • 「『足らぬ足らぬは』工夫が足らぬ」

食糧事情

昭和12年(1937年)7月7日の盧溝橋事件、日中戦争を発端に生活への引き締めが行われます。特に食糧については統制が厳しくなりました。

興亜奉公日の制定

この日は毎月1日に制定されました。これを受けて国民精神総動員中央連盟は、実施項目として以下のものを定めています。

この団体は政府の外郭団体です。日中戦争勃発を受け「挙国一致」「尽忠報国」「堅忍持久」を方針とした国民運動が企図され、印刷物・レコードの指導、講演会、講師の派遣・斡旋を通じて国民精神総動員運動の趣旨を普及させることを目的に設置されました。

  1. 戦死者の墓参りをすること
  2. 前線に慰問文、慰問袋を送ること
  3. 努めて歩くこと
  4. とくに緊張して働くこと
  5. 服装と食事はとくに質素とすること
  6. 酒と煙草はやめること
  7. 遊興はやめること
  8. この日に節約した金はかならず貯金すること

この日の食事は、一汁一菜、日の丸弁当、女性のパーマネント禁止など、生活全般に制限がかけられました。

そして、酒類の販売も停止させられたためにバーや料亭などは休業したのです。

日の丸弁当

戦場の苦労を偲べ、ということで、1939年までは興亜奉公日(毎月1日)が制定されました。この日は日の丸弁当だけで質素に暮すことが奨励されました。しかし、これでは米の消費量が上がってしまう、ということで、昭和15年(1940年)に節米運動が実施されましたのです。

同年5月、週に1度の「節米デー」が奨励されました。その内容は、この日だけは米食を無くそうということになったのです。そして、この年、昭和15年元旦には、松飾りを簡素化すること、屠蘇に名を借りた飲酒の助長を防ぐようにと呼びかけられました。

節米運動と白米禁止令

戦時下においては米穀をはじめとした食糧の消費、生産に不均衡が生じました。軍需工業や軍は食糧の消費が増大します。生産では農地面積及び労働力が減少します。「贅沢をやめる」運動から、「消費を抑える」運動に変化していったのです。

白米禁止令

昭和14年(1939年)11月には、ついに米の精白の割合を制限する「米穀搗精等制限令」が発せられました。

搗精は、とうせい、と読みます。

玄米層を削り取る工程です。「精米」、「精白」または「搗精」(とうせい)という。通常は柔らかい胚芽も一緒に剥がれ落ちる。

この日から米は7分づきに以下に制限され、白米は禁止になります。長引く戦争に対して食糧を備蓄する必要があったからです。

節米運動

節米とは戦時下の食糧を確保するために、米の消費を制限することです。昭和15年(1940年)、国民精神総動員本部は戦時食糧報国運動なるものを実施しました。それは「節米実施要項」に書かれています。

麦、野菜、豆、芋類、の混食。うどん、そば、パン、などの代用食を推奨しました。宣伝のために、講演会、講習会、ポスターなどで訴えました。

当時の一人当たりの米の消費量は、現在よりも3倍も多かったのですよ!

その後、物価統制、食糧の配給と続いていきます。

その中で、あの「すいとん」だけの給食というのはうなずけます。

流行した曲

「迎春歌」(インチュンホア)

李香蘭の「迎春歌」(インチュンホア)李香蘭の歌です。「李香蘭」は戦中人気を集め、戦後も女優、歌手として活躍し、参院議員も務めた山口淑子です。

バタビヤの夜は更けて

灰田勝彦が歌いました。南方攻略戦が成功すると、日本の流行歌がその影響を受けるのは当然ですね。昭和13、4年頃の「大陸メロディー」に代わってエキゾチックな感覚を漂わせた南方メロディーが流行し始めました。

空の神兵

日本軍落下傘部隊を謳った軍歌(戦時歌謡・軍国歌謡)として、1942年4月にビクターレコードから発売。天降る落下傘を青空に咲く白薔薇になぞらえており、歌詞中のより純白の落下傘、血潮といった色彩的表現や、軍歌としては異色な曲調、間奏部におけるチューブラーベルグロッケンシュピールによる落下傘の描写が印象的である。

ウィキペディアより

戦時中であることから軍歌も流れました。

大詔奉戴日の歌

大詔奉戴日(たいしょうほうたいび)とは、大東亜戦争太平洋戦争)完遂のための大政翼賛の一環として1942年1月から終戦まで実施された国民運動。大東亜戦争(対米英戦争)開戦記念日(1941年12月8日)に「宣戦の詔勅」(開戦の詔書)が公布されたことにちなんで、毎月8日に設定された。

Wikipediaより

商品

戦時石鹸(配給)

戦争で、政治経済すべてが、戦争遂行のためについやされ、戦争経済統制が強化されていきました。石鹸業界でも、当時全国に450社あったものが、40数社を残すのみとなったのです。

戦況が不利になるにつれ、原料の硬化油、苛性ソーダの入手が困難を極め、輸出用の石鹸の製造も思うようには行きませんでした。ベントナイト(粘土の一種)入りの粗悪石鹸が認められるようになり、労働力も軍需産業にとられるなど業界としては、絶望的な状況だったそうです。

前ゴム靴

前ゴムシューズ(まえごむシューズ)とは、スニーカーの一種で、甲の部分にゴムをはめ込んだタイプのものをいう。「前ゴム運動靴」というのが正しい名称である。

いわゆる、昔ながらのズック靴がこれに相当し、甲の部分にエラスチック製の半円形状のゴムをはめ込んだため、「前ゴム」の名前で呼ばれている。分類上は運動靴に属し、紐のないスリッポンスタイルの靴である。

Wikipediaより

今でもこの靴は学校で体育の時に使われています。

国民服

昭和14年(1939)「国民被服刷新委員会」によって「国民服」の公募が行われました。翌昭和15年11月2日には「国民服令」が勅令(昭和15年11月2日勅令第725号/昭和22年4月18日法律第72号にて失効)として発布されます。「勅令」は、「議会を通さず天皇や皇帝が、直接決めること、その決まりのこと」のことです。

「朕国民服令ヲ裁可シ慈ニ之ヲ公布セシム」

男性向けの国民服が発表されたのです。

これは、「国防色」とよばれたカーキ色の立折襟の上着とズボンを中心とした衣類セットでした。

それを追って、女性に対しても、甲(洋装)・乙(和装)・丙(上着とズボン・モンペ)の三種類の「標準服」が厚生省より発表されました。これらは、質素・倹約のため、日常生活および「いざという時」の活動性の確保のため、などの合理的利点を眼目にデザインされたのです。婦人標準服を定めた目的の一つは、材料の布を節約することです。 家にある手持ちの和服を仕立て直して、物資不足を補わせようという政策であったといわれています。

これらは国家の非常時における「国民」としての一致団結と、「奉公」を鼓舞するものとして、「国民服」を当局が利用したものと考えられています。

しかし、国民服は当初強制ではなく、当初の普及率は20%程度にとどまったらしいです。その後、空襲が本格化すると、身動きの取りやすい国民服は一挙に広まりました。この結果、ほとんどの男性が国民服を着用することになったのです。

子供たちにも

こうした「国民服」の波は、子どもたちをも覆い尽くそうとします。全国の中等学校生徒制服は「国民服」で統一され、小学校も「国民学校」として再編されるなかで男児の「国民服」着用を義務づけるようになったのです。

出来事

満州建国10周年行事

満州国の記念切手

満洲建国10周年式典が,9月15日,新京南嶺の総合運動場で行われ1万人が参列しました。
満洲建国10周年承認記念日の9月15日,東京の日比谷大音楽堂では,1万人が出席して慶祝式典が行われています。

満州国とは日本が満州事変によってつくりあげた傀儡(かいらい)国家。1932年(昭和7)から1945年まで、中国東北地方と内モンゴルをおもな領域として存立しました。

満洲国皇帝・愛新覚羅溥儀

第21回総選挙・翼賛選挙(太平洋戦争下で行われた唯一の国政選挙)

第二次世界大戦太平洋戦争大東亜戦争))下で行われた唯一の国政選挙であり、一般に翼賛選挙(よくさんせんきょ)の名称で呼ばれる。

1940年、既に結社を禁止されていた勤労国民党右翼政党の東方会立憲養正会などを除く全ての政党が自発的に解散し、大政翼賛会に合流していた。その後、大政翼賛会に率先して合流した政治家たちによって翼賛議員同盟が結成され、太平洋戦争(大東亜戦争)下での軍部の方針を追認する翼賛体制を支える機能を果たした。

Wikipediaより

関門トンネル開通

関門トンネル(かんもんトンネル)は、関門海峡をくぐって本州九州を結ぶ、鉄道用の海底トンネルである。九州旅客鉄道(JR九州)の山陽本線下関駅門司駅間に所在する。単線トンネル2本で構成され、下り線トンネルは全長3,614.04メートル、上り線トンネルは全長3,604.63メートルである。

後に開通した国道2号関門トンネル(関門国道トンネル)と区別するため、関門鉄道トンネル(かんもんてつどうトンネル)と呼ばれることもある。

当時、このトンネルを陸軍が熱心に推し進めていたようです。計画としてあった九州、壱岐、対馬、朝鮮半島を海底トンネルでつなげ、満州から九州までつながる鉄道網を構築しようという「大東亜縦貫鉄道構想」も前進するのでは、という思惑があってのものでした。

関門トンネル工事で使われたシールド掘削機

関門トンネルの起工直後に、大陸では中華民国との軍事衝突が始まりましたが、地質などを調べるために本坑に先行して掘られていた試掘坑道は、1939(昭和14)年には貫通しました。その後も、戦時体制下であっても工事は止まらず、出水事故などを克服しながら、1941(昭和16)年7月10日には下り線の本坑が貫通しました。この本坑の工事には、これまで国内で満足にいく結果の得られなかった「シールド工法」を成功させるため、関係悪化がいちじるしいアメリカにまで視察へ行ったそうです。

下り線には1942(昭和17)年6月11日に最初の試運転列車が通り、7月1日に貨物用として開通し、11月15日には旅客用にも開通しました。上り線のトンネル開通は1944(昭和19)年8月8日で、同年9月9日から複線での運用が開始されたようです。なお、上り線トンネルの着工は1940(昭和15)年ということで、戦時中の物資の安全な流通の確保という目標もあり、かなりの突貫工事で進められていたことがうかがえます。

そんな中この給食は食べられた

四日市市立羽津小学校

こういう激動の時代の中、この「すいとん」だけの給食は食べられました。

食糧統制の中、育ち盛りの子供たちは、これでお腹いっぱいになったのでしょうか。

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