2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。
それでは、学校給食歴史館の展示物とともに学校給食の変遷を見ていきましょう。
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この記事のまとめ
1)昭和22年1月、全国都市の児童約300万人に対し学校給食を開始しました。
2)脱脂粉乳が出ました。脱脂粉乳が牛乳に移行し始めたのは、昭和33年。完全牛乳給食になったのは、昭和38年です。
昭和22年の給食
ミルク(脱脂粉乳)
トマトシチュー
どちらも汁物ですね。汁物にお箸。これは、どちらも「味噌汁感覚」で食べるものに見えますね。
全ての学校でこのような給食があったのではありません。
昭和22年に始められた学校給食の一部です。
脱脂粉乳
脱脂粉乳(だっしふんにゅう)は、粉乳の一種で、生乳や牛乳または特別牛乳の乳脂肪分を除去したものからほとんどすべての水分を除去したもの。脱粉(だっぷん)と略称されることもある。
商品名としてスキムミルクが多用されているが、英語における “skim milk”, “skimmed milk” は無脂肪乳の意味であり、乾燥品を意味しないため注意が必要である。
脱脂粉乳は米国からの支援で給食に出されました。
トマトシチュー
トマトシチューは、米軍の援助にトマト缶が入っていたから登場したのだそうです。
昭和22年の世相
引き揚げてくる人々
戦争が終わり、中国大陸などからの引き揚げの人たちが多くいました。
樺太から函館に引き揚げてくる人々
僕の母も引き揚げ船で帰国した
ちなみにこの年、僕の母の家族は旧満州国葫蘆島市から引き揚げ船に乗り、佐世保に到着しました。初めて見た日本。その荒廃を見て驚いたそうです。
佐世保/桟橋からの揚陸
葫芦島在留日本人大送還(ころとうざいりゅうにほんじんだいそうかん)は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任において行われた葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環として行った。中国では「葫芦島日僑大遣返」といわれる。
日本国憲法施行
日本国憲法には国民主権、基本的人権の尊重、平和主義の三つの原則があります。
GHQ
日本はGHQ(連合国軍最高司令官総司令部)の統治下にありました。日本が主権を回復するのは、昭和27年まで待たないといけませんでした。
GHQ(連合軍最高司令部)による教育四大改革
1945年8月、日本はポツダム宣言を受諾して降伏しました。日本を占領した連合軍総司令部(GHQ)は、日本政府に対して「四大教育指令」と呼ばれた命令を順次発布しました。軍国主義を鼓吹した教育関係者の追放、学校教育と国家神道の結びつきを除去するなどの措置が取られたのです。
翌年にはアメリカ教育使節団が来日し、男女共学や、教育の地方分権化などを骨格とする報告書をGHQに提出し、これが戦後の教育改革の柱となりました。
このように日本の学校教育はGHQ(連合軍最高司令部)から発せられた指令に基づき活動していました。この中の大事なものは四大指令と呼ばれています。それらは以下です。
- 「日本の教育制度の管理についての指令」 昭和20年10月22日
- 「教育関係者の資格についての指令」 昭和20年10月30日
- 「国家神道についての指令」 昭和20年12月15日
- 「修身科・国史科・地理科の中止についての指令」 昭和20年12月31日
その内容は、以下のようになります。
- 軍国主義、極端な国家主義的思想の教育並びに軍事教育の禁止
- 教育関係の軍国主義者、極端な国家主義者の追放、旧軍人の教職従事の停止
- 神道を国家から分離し、学校での神道教育を排除
- 修身・日本歴史及び地理の授業の停止と教科書の回収を指示する
「6・3制」新学制発足
戦後、体育館を仕切って作った教室
6年制の小学校に3年制の中学校が続き、その後、3年制の高等学校が設けられるという「6・3・3制」ですが、戦後の日本で継承されてきた学校段階区分・修業年限区分ですね。これは初等教育学校と中等教育学校が単線型として接続したことを意味しているのです。ですから、今では6年小学校を終えて、3年中学校に行くのが当たり前になっているのですね。
戦前の学校制度は大変複雑な変化をしていて、なかなか把握するのが難しいです。戦前の日本は、複線型学校教育制度をとっていました。そのため、家庭の経済的な事情など、さまざまな要因によって、教育機会は必ずしも国民に均等に与えられていたわけでなかったことへの問題点に基づき新制度は作られました。つまり、教育の機会均等が目的であったわけです。
複線型学校制度とは、小学校や中学校の段階から、異なる修業年限、学校種が併存している(=複線)学校制度です。
新しい学校制度は、単線型学校制度です。
単線型学校制度とは、小学校や中学校の段階は修業年限や学習内容も共通で、高等学校においても修業年限では他に選択肢がない(=単線)学校制度です。戦前の日本は、複線型学校教育制度をとっていました。そのため、家庭の経済的な事情など、さまざまな要因によって、教育機会は必ずしも国民に均等に与えられていたわけでなかったことへの問題点に基づき新制度「6・3制」は作られました。
男女共学
昭和22年から男女共学になりました。それまでの国民学校では3年生からは男女別々の教室でした。
もともと戦前は男女別学の形態がとられており,男子と女子は学ぶ内容も異なり,女性の地位はとても低く扱われていました。しかし,戦後教育改革の際に,男女共学や教育機会の均等が課題になったのです。1947年(昭和22年)には、教育基本法(昭和22年法律第25号)が公布され、その第5条で、「男女は、互に敬重し、協力し合わなければならないものであつて、教育上男女の共学は、認められなければならない。」とされました。
ベビーブーム
団塊の世代(だんかいのせだい)とは、日本において、第一次ベビーブームが起きた時期に生まれた世代のことです。 第二次世界大戦直後の1947年(昭和22年)~1949年(昭和24年)に生まれて、文化的な面や思想的な面で共通している戦後世代のことです。 第一次ベビーブーム世代とも呼ばれ、日本経済においては第二次世界大戦後の高度経済成長、バブル景気を経験しています。
- 1947年(昭和22年)生まれは267万8792人
- 1948年(昭和23年)生まれは268万1624人
- 1949年(昭和24年)生まれは269万6638人
グラフで見ると
厚生労働省のデータより
第一次ベビーブームは出生率が突出していますね。
昭和22年前後流行した曲
夜霧のブルース
ディック・ミネの「夜霧のブルース」は、1947年に公開された水島道太郎主演映画『地獄の顔』(松竹)の主題歌として制作されました。映画の舞台が中華民国(当時は中国国民党が中国大陸を実効支配していた)の上海であった為、歌詞に上海の地名が登場します。
敵性音楽追放などといった日本政府の政策により、芸能活動の場を失っていたディック・ミネ自身にとっても復活を果たした曲です。
昭和18年1月に内閣情報局は、米英の音楽の演奏を禁止すると通告しました。「敵性音楽」として追放すべき米英の楽曲1000曲余りのリストが発表され、生演奏はもとより、レコード演奏も禁止されたのです。ただ、原曲が米英のものでも、『蛍の光』『庭の千草』など日本曲として消化されていたものについては保存との方針が示されました。
これによりジャズなどの軽音楽は演奏ができなくなり、ディック・ミネは活動の場所を失ったのです。
雨のオランダ坂
異国情緒がある曲ですね。長崎が舞台です。
渡辺はま子(わたなべ はまこ、1910年(明治43年)10月27日– 1999年(平成11年)12月31日)は戦前から戦後にかけて活躍した日本の流行歌手です。戦前から有名だった、渡辺はま子は戦後結婚し、歌手活動の傍ら横浜で花屋を営みながら、「雨のオランダ坂」を歌いました。
聞いていると、中間部分にプッチーニの「蝶々夫人」のメロディーが出てきて驚きました。
エノケンのダイナ
「ダイナ (Dinah)」は、アメリカ合衆国のポピュラー・ソングです。
エノケンこと、榎本健一(えのもと けんいち、1904年10月11日 – 1970年1月7日)は、日本の俳優、歌手、コメディアンです。当初は浅草を拠点としていたが、エノケンの愛称で広く全国に知られていきました。「日本の喜劇王」とも呼ばれ、第二次世界大戦期前後の日本で活躍しています。
この「ダイナ」は見事にエノケンがカヴァーしていますね。
そんな中この給食は食べられていた
この時代、この給食は食べられていました。時代の大きな変換期、混乱した時代、その中、新しい教育現場で食べられていたのですね。現在の視点で見ると、汁物二つで変な感じですが、食糧不足の中、どのように子供達に栄養を摂らせようかと苦心した結果ではないかと想像します。