エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|45「聴衆の反応」

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日本も含め、いろんな国で演奏していると、各国の拍手の仕方の違いを感じる。日本のお客さんは大変紳士的だ。しかし、どのような演奏の場合でもあまり拍手の感じは変わらない。手をたたく速度もみな似ている。

ヨーロッパなど、客が気に入らないと感じると、途端に拍手に力が入らなくなる。僕自身、ヨーロッパで現代の作品などを演奏すると、冷ややかな反応を受けることもある。演奏者はまだいいが、これが作曲者になると、手痛い扱いを受けることもままある。卵やトマトを投げられることも、最近まではよくあったのだ。ここまでくると、芸術の発展にどれだけ聴衆が関与しているか、という一線を越えている気がする。

コンサートの聴衆が起こした音楽史に残る大事件といえば、一九一三年のパリ、ストラヴィンスキー作曲、バレエ「春の祭典」の初演だろう。今ではもう“現代の古典”的な曲になりつつあるこの曲も、発表時のショックはものすごいものだった。そのころにはもう映写機があっただろうに、記録として残っていないのが残念だ。タイムマシンが発明されたら、僕は真っ先にこの日のシャンゼリゼ劇場に向かうだろう。

1913年「春の祭典」初演時の写真

この曲は大好きな曲の一つで、学校の音楽の時間にぜひ鑑賞してほしいと思っているほど素晴らしい曲だ。血わき肉躍るという表現はこの曲のためにあるのではないだろうか。実際、同級生がこの曲のCDをかけながら料理していたら、あまりに興奮して包丁で指を二本も切ってしまったという逸話もある。

話はパリに戻るが、冒頭の苦しげなファゴットの独奏が演奏されると続々と人が席をたち、グロテスクな踊りが始まるとすぐ、会場は怒号と嘲笑(ちょうしょう)の渦に包まれる。この日、なんと四十人以上の人が劇場から排除されているのである。指揮していたピエール・モントゥーはどんな気持ちだっただろうか。多分罵声(ばせい)の飛び交う中、オーケストラの音なんかまともに聞こえていなかったのではなかろうか。リズムが難しいこともあるが、舞台裏からはバレーダンサーたちに振り付け師が大声で拍子を叫んでいたのだから。「アン! ドュー! トヮ!」と。

ルーマニアのオーケストラの今シーズンの皮切りのコンサートに、ショスタコーヴィチの交響曲第十番を演奏した。ロシアのスターリンの圧政を描いた、全体に緊張感が途切れることのない曲である。一時間弱の曲の第一音、低い音でチェロとコントラバスが、重苦しい地中からはい上がるようなユニゾンの旋律を奏で始めた。民衆の痛々しいうめきを表している。

その瞬間、三階席から小さい子供の叫び声が聞こえた。「ヌー!」。ルーマニア語で「違う! いやだ!」という意味だ。次にクスクスという苦笑が、そして会場には笑い声が広がっていった。旧共産主義時代の自国やロシアの圧政の時代を知っている国民だけに、偶然とはいえ、この「ヌー!」は通常のマナー違反の域を超え、心に響いたのであろう。僕は気を取り直して、初めからやり直した。

演奏会が終わって、三階席を見たが、すでに子供の姿はなかった。演奏会場のカフェで会場整理係の青年が団員たちにからかわれていた。「お前が言わせたんだろ、ブラボー! ブラボー!」

2006/02/09

ショスタコーヴィッチ作曲交響曲第10番

この曲は僕がよく指揮をする曲の一つです。このエッセイに書かれているコンサートの後、トゥルグ ムレシュ交響楽団と一緒にスペインに招待されました。そして、この曲をメインにしたプログラムでほぼスペイン全土でコンサートを指揮しました。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/

\珍しい曲をたくさん収録しています/

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