現山形県の中に存在した庄内藩、その中に大変特徴的な餅菓子があるのです。
それは、「 笹巻き」です。山形県鶴岡市を中心にしたところに、その「 笹巻き」はあるのです。
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鶴岡の「笹巻き」
山形県庄内地方に「笹巻き」とよばれる餅菓子があります。笹に餅米を包み、紐で結んでじっくり煮て作ります。庄内全体に伝わる菓子なのですが、なぜか城下町鶴岡だけは灰汁水を使うのです。
「笹巻き」は、浸水後に水切りしたもち米を笹の葉で巻き、結びひもをかけた後、熱湯でゆで上げた食べ物。ほかの県では「ちまき」とも呼ばれる。笹の葉には防腐性や抗菌性があるといわれていて、昔から保存食や携帯食の包装によく使われる材料だった。
山形県では、年越しや正月のほか、祭りや祝い事など、年間を通してよく餅をついて食べる。こうした餅文化は米どころであればそう珍しくはないが、もち米を粒のまま使用する「笹巻き」や、鶴岡市の南部でつくられているような灰汁水で煮る「笹巻き」は珍しい郷土食として知られている。灰汁水で煮る「笹巻き」は、戊辰戦争をきっかけに保存食として伝わったという説がある。
「笹巻き」は、特に5月5日の端午の節句に供えられ、子どもの健康と元気な成長を願い、「柏餅」などとともに各家庭で食べられてきた。
鹿児島の「あくまき」
上記の「笹巻き」に似ているのが鹿児島の「あくまき」です。
こちらは笹ではなく竹皮で包みます。そして、鶴岡と同じく灰汁水を使うのです。砂糖をまぶしたきな粉をつけて食べることが多いです。この「あくまき」は、かつては薩摩の兵糧食であったといいます。鶴岡と鹿児島、直線距離でも1157キロもあります。離れているところでの二つの餅菓子の共通点、不思議ですね。
山形県庄内地方に「笹巻き」の由来は
きっかけは戊辰戦争
灰汁水で煮る「笹巻き」は、戊辰戦争をきっかけに保存食として伝わったという説があります。
時は幕末。庄内藩は江戸を警備する新徴組(しんちょうぐみ)を任され、幕府側の重要な役割を担っていました。
新徴組は、近藤、土方ら浪士たち自身で指揮されていた新選組と違い、直接庄内藩によって指揮されていた。
新選組のように制服こそなかったが、揃いの朱の陣笠を被り、夜には庄内藩酒井家の紋所であるかたばみの提灯を下げて市中を練り歩いた。そして、50人2組となって昼夜交代で毎日市中の巡回を始めると、江戸の治安が次第に回復していったため江戸市民から
酒井なければお江戸はたたぬ、おまわりさんには泣く子も黙る
とまで謳われるようになった。おまわりさんとは、古来からある市中巡回の官職である御見廻り(おみまわり)から由来する愛称であるが、この呼称は明治になって近代警察の巡査に受け継がれ、現代の警察官にも続いている。
江戸薩摩藩邸焼打事件
倒幕の気運高まる慶応3年(1867) 春、薩摩の挑発行為にのり、庄内藩兵1千人を主力とした諸藩連合は江戸の薩摩藩邸を焼打ちにします。これが翌年の鳥羽伏見の戦いの契機となり、五稜郭の箱館戦争まで約1年5ヵ月にわたる戊辰戦争へつながっていくのですね。
フランスの週刊誌「L’Illustration」の記事イラスト。
当初、旧幕府軍の奥羽越列藩同盟は攻勢に出るが、官軍は兵を増強し反撃します。会津落城、南部藩降伏のなか、最後まで抗戦したのは庄内藩でした。しかし、明治元年(1868)9月、ついに降伏するのです。
春の鶴岡城
庄内藩ついに降伏
取り潰しもやむを得ず、という状況。厳しい処分を覚悟していた庄内藩でしたが、わずかの減封ですみました。
藩主の会津への転封命令も70万両の献金で取り消されたのです。会津藩が事実上の取り潰しであることを考えればかなり軽い処分といえますね。処分を下したのは鹿児島藩士黒田清隆でした。
黒田清隆
西郷の指示は?
黒田は「西郷隆盛の指示」であることをあかします。 結束して抗戦する庄内藩士たちに、西郷は共鳴する何かを感じたのかもしれません。
庄内藩は江戸時代を通じて、殿様の転封(国替)が一度もありません。庄内、長岡、川越の「三方領地替え」(1840)で、藩主が長岡へ転封を命じらましたが、領内挙げての陳情によって免れていました。この出来事は、これまでの転封に対する大名たちの反感が噴出したものともいえます。これは、幕府の中央集権力が衰え出した表れともいえますね。こんなことも西郷の共感を呼んだのかもしれません。
「義民が駆ける」
小説「義民が駆ける」にこの「三方領地替え」のことが書かれています。
『義民が駆ける』(ぎみんがかける)は、天保義民事件に材をとった、藤沢周平の時代小説。1976年から1977年にかけて、中央公論社の雑誌『歴史と人物』に連載された。
これは、大変興味深い歴史小説だと思いました。天保期、荘内藩が命じられた理不尽な国替えに領民が抵抗した天保義民事件の実態に、藤沢氏が迫った作品です。いわゆる「三方国替」騒動の話です。長岡の牧野家を川越へ、川越の松平家を庄内へ、庄内の酒井家を長岡へ転封させようとする幕命が発せられます。しかし、思わぬところから抵抗に遭うのです。嘆願のために次々と江戸へ上る百姓たちです。この小説の中では、庄内藩の藩主を守るため藩内の百姓達が江戸に出て直訴し国替えを取り消した史実のみでなく、百姓達の本音の思惑も表現され人間ドラマとしても面白いです。
鹿児島・庄内両藩の交流
西郷の温情に心打たれた旧庄内藩の人たちは、降伏後も西郷を慕い、薩摩、庄内両藩の親交は深まっていきます。明治3年8月には、旧庄内藩主酒井忠篤は、旧藩士7人とともに、鹿児島の西郷の元を訪ねています。そして翌年3月まで鹿児島に逗留、その後も何度も西郷を訪ねているのですよ。
現在、庄内藩領であった酒田市飯盛山に西郷を祀る南洲神社があります。
南州神社内、右側が西郷隆盛、左側が菅実秀です。
また、鹿児島市には西郷隆盛と庄内藩士菅実秀の像もあります。
菅は鹿児島に来た藩士のひとりで、維新後は旧藩士のための開墾事業を行い、刀を鍬に変え、茶や桑を植えることをすすめました。
薩摩と庄内の交流から生まれたのかもしれない「笹巻き」
西郷はこの事業に援助を惜しまなかったといいます。冒頭の灰汁を用いた鶴岡「笹巻き」と鹿児島「あくまき」。遠いところ同士の似ている食べ物、これれらもそんな交流の中から生まれてきたものかもしれませんね。
「薩摩藩」という記述(マチガイだが時々、便宜上使います)
以下、便宜上、時々ですが、現在一般的に使われている「薩摩藩」と書くこともあります。
江戸時代には、「薩州」、または、「島津の御家中」などと呼ばれました。時代劇(特に幕末)などで「我々薩摩藩の、、、」なんて言っているのはマチガイ。あり得ません!
公式に「藩」とは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度です。それ以前はなかったのです。
平安時代に鎌倉の住民が「我々、神奈川県民は、、」なんて言いませんよね。
それに加えて、廃藩置県における藩の正式名は「鹿児島藩」で二重にマチガイです。(僕自身、鹿児島県の観光大使「薩摩大使」を委嘱されているので、微妙な立場ですが、、、)