生活が便利になった現代、その便利さを大きく担っているのはコンビニエンスストアーですね。しかし、江戸時代にもそのコンビニに近いものがあり、しかも、家にいながら向こうから売りに来ていたのです。それが、「振売(ふりうり)」です。
振売・振り売り・振売り(ふりうり)は、近世までの日本で盛んに行われていた商業の一形態である。ざる、木桶、木箱、カゴを前後に取り付けた天秤棒を振り担いで商品またはサービスを売り歩く様からこう呼ばれる(図1参照)。棒手売(ぼてふり)や棒手振り(ぼてふり)、棒商い(ぼうあきない)におなじ。
\江戸時代の味!美味しかったです/
今回は、東京江戸博物館に行き、実際に江戸の街の様子と「振売(ふりうり)」を中心に写真撮影してより具体的に「振売(ふりうり)」をイメージしたいと思います。
(5階、6階の常設展は写真撮影は許可されており、許可をとって撮影されています。写真の著作権はこのブログにあり、著作権の対象です。)
Contents
人口の増えた江戸の流通問題をどうする?
家康の代から作り上げた江戸の町の景観が一変したのが4代将軍家綱の時の明暦の大火(振袖火事:明暦3年/1657)でした。江戸は267年の間に49回の大火に見舞われているのですが、その中でもこの火事は最大です。
明暦の大火はなんと江戸市中6割を焼失させたのです。そして、江戸の町造りに大きな変化をもたらします。
こうした整備の結果、江戸の町は地方から武家や商人、職人などの流入により成長します。人 口もどんどん増加します。 享保期(1716 ~ 1736)までに人口が百万人を数える巨大都市へと発展するのです。
江戸の町の構造は、面積からすると、おおよそ以下の比率であったそうです。
- 武家地が6割
- 寺社地が2割
- 町地が2割
しかし、この町地、つまり町人の住んでいるところ、江戸の2割の場所になんと江戸の人口の約半分の人々が住んでいたのです。
長屋
このように、土地の広さと人口を考えてわかるように、町人の住まいは非常に密集していて、1軒1軒が小さいものでした。それが長屋です。
江戸時代において都市部、とくに稠密な江戸などでは中層以上の商家などは表通りに独立した店を構えていたが、それ以外の町人、職人などはほとんどが裏町の長屋に借家住まいだった。また、大名屋敷の敷地内にも長屋が造られ、家臣らを住まわせた。特に江戸時代に多く、裏町に見られた長屋は落語や川柳の格好の題材になった。
江戸の長屋はほとんど平屋建てで、玄関を入るとすぐ台所であり、部屋はせいぜい2部屋程度である。 路地に共同トイレがあり、風呂は無い。水は共同の井戸が有ったが、これは地下水をくみ上げるものではなく、神田上水から供給されていた水道水の取水口である。そのため水が桶に溜まるまで多少の時間がかかり、それを待つ間に近所の者で世間話をする「井戸端会議」という言葉が生まれた。 江戸時代に「大家」と言えば、所有者(家主)とは異なり、住民の家賃を集めたり、管理を任されている者のことであった。狭い長屋暮らしに大量の所有物を収納するスペースは無く、長屋には布団をはじめ様々な生活物品を貸し出す損料屋(質屋を兼ねたレンタル業に相当)が発達した。
長屋の様子/江戸東京博物館
長屋には本格的な台所はなかった
江戸時代の長屋には本格的な台所がありませんでした。そこで、「振売(ふりうり)」という形態で様々なものが流通し、後に「屋台」と発展していきます。つまり、「振売(ふりうり)」は多種多様な行商人たちです。
簡単に書くとこういう流れです。
「振売(ふりうり)」→ 屋台 → 居見世(いみせ)
屋台には、簡単に場所を移動できる「担ぎ屋台」や屋根付きで常設できる「立ち売り」があります。屋根付きの「立ち売り」は人が集まる寺院の境内、門前や船着き場などに店を構えました。
寿司の屋台/江戸東京博物館
天麩羅の屋台/江戸東京博物館
蕎麦の屋台/江戸東京博物館
居見世は、簡単にいうと店内で食べさせるお店です。今でいう飲食店ですね。代表的なものに以下があります。
- 蕎麦屋
- 鰻屋(蒲焼き)
- 鰻飯屋(丼飯)
- すし屋
- 天ぷら屋
振売(ふりうり)の登場
先述の明暦の大火により、江戸の復興のために多くの大工をはじめ職人が江戸に移り住みました。彼らはほとんど独身で、しかも本格的な台所のない長屋住まいです。多くの庶民に食料や生活必需品を供するために、「振売(ふりうり)」が生まれました。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 野菜でしょうか。
これは、江戸の食品流通の最末端に位置した商売人でもあるのですよ。
「振売(ふりうり)」に誰がなった?
拡大を続ける江戸には、つねに地方から新しい人々が流れ込んできました。 その人たちがすべて商人や職人として経験を積んでいたり、技術を身につけているわけではないのです。多くの人々が、農村の荒廃などの影響で大都市である江戸に流入し、駕籠かき・日雇人足・下男・中間などの仕事にありつくことで日々の糧を得ていました。
江戸の街並み/江戸東京博物館
その中で、「振売(ふりうり)」は特別な技術、つまり大工、左官、畳細工、屋根葺(やねふき)、鋳掛師(鍋・釡の修理)などの職人や手習師匠のように特別な技術がなくとも、天秤棒を担いで魚・青物(野菜)などを売り歩く行商なら「誰でも」手近に開業できたのです。
このように、「振売(ふりうり)」の商人は主に長屋に住む下層町人だったのですね。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 後方は魚を売っていますね
「守貞謾稿」には
「守貞謾稿」天保八年(1837)には、「振売(ふりうり)」について「三都(江戸・京都・大坂)ともに小民の生業に、売物を担い、あるいは背負い、市街を呼び巡るもの」とあって、江戸市中いたるところ「振売(ふりうり)」がいた、と書かれています。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 カツオでしょうか
「振売(ふりうり)」は、天秤棒の両端に荷(商品)を振り分けにして担いで、物の名を唱えながら売り歩く小商人(こあきんど)や売り歩く人のことをいい、または「棒手振(ぼてふり)」ともいいいます。
「振売(ふりうり)」には鑑札が必要なものがありました。鑑札とは、幕府の許可があった事実を公に証明するために交付した札です。つまり「振売(ふりうり)」は許認可制のもとで行われていたのですね。
幕府が「振売(ふりうり)」商人の許可制(鑑札)としたのが万治元年(1658)で運上金を徴収していました。そして、夜間での「振売(ふりうり)」が許可されたのが貞享三年(1686)です。
運上(うんじょう)とは、近代の日本における租税の一種。金銭で納付が行われる場合には運上金(うんじょうきん)と呼ばれる。
万治二年(1659) 4月に出された町触には、「振売(ふりうり)」に対して鑑札を必要とする品目と不要な品目があげられています。しかし、食品関係はほとんど鑑札を必要としなかったようです。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 野菜売ですね
「振売(ふりうり)」は社会的弱者のための職業という一面もあり、幕府は鑑札の不要な品目、煙草・魚・時々のなり物菓子(果物)など12品目を扱える開業許可を50歳以上の高齢者か15歳以下の若年者もしくは身体が不自由な人物に与える、と触れ書きを出しました。これは、社会的弱者の救済的色彩の濃い措置だったようですね。
「振売(ふりうり)」から日常品は買え!
江戸の街では、日常品のほとんどは、日用品のほとんどは「振売(ふりうり)」が扱っていました。「振売(ふりうり)」が、流しているところを呼び止めて購入したら良かったのです。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 立派な大根ですね
コンビニが向こうからやってくる!
長屋に住む人々の多くが携わっていたという「振売(ふりうり/行商人)」は、実に様々なものを扱っていました。「守貞謾稿」(1837)に書かれている「振売(ふりうり)」商品は次のようなものがあります。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 柿を売っています
振売(ふりうり)から食料品を
- 乾物売り
- 鮮魚売り
- 鰻蒲焼売り
- 鳥貝・ふか刺身売り
- 白魚売り
- むきみ売り
- しじみ売り
- ゆで卵売り
- 鮨売り
- いなご蒲焼き売り
- 塩辛売りなどの動物性食品
- 瓜や茄子などを売る前菜(野菜)売り
- 松茸売り
- 生唐辛子売り
- 豆腐売り
- 納豆売り
- 漬物売り
- 甘酒売り
- 乾物売り
- 乾海苔売り
- 蒸し芋売り
- 揚昆布売り
- 麹売り
- 唐辛子粉売り
- ゆで豆売り
- 嘗め物売り
- ところてん売り
- 塩売り
- 醤油売り
- 菓子売り
- 白玉売り
- 岩おこし売り
- 飴売り
- 冷や水売り(砂糖水売り)
振売(ふりうり)から食料品以外を
- ほうき
- 花
- 風鈴
- 銅の器
- もぐさ
- 暦
- 筆墨
- 樽
- 桶
- 焚付け用の木くず
- 笊(ざる)
- 蚊帳
- 草履
- 蓑笠(みのかさ)
- 植木
- 小太鼓
- シャボン玉
- 金魚
- 鈴虫・松虫
- 錦鯉
- 竿竹
- 勝負付売り(相撲の勝負の結果を早刷りにして売る)
振売(ふりうり)からサービスも
- 錠前直し
- メガネ直し
- 割れ鍋直し
- あんま
- 下駄の歯の修繕
- 鏡磨き
- 割れた陶器の修繕
- たがの緩んだ樽の修繕
- ねずみ取り
- そろばんの修理
- こたつやぐらの修繕
- 羽織の組紐の修繕
- 行灯と提灯の修繕
- 看板の文字書き
振売(ふりうり)から買取もあります
- 紙くず
- かまどの灰
- 古着
- 古傘
- 溶けて流れ落ちたろうそくのカス
このように生活に必要なものは「振売(ふりうり)」から買うことで一通り揃えることができたのです。そして、サービスも受けられ、買取もしてくれるというとても便利な存在が「振売(ふりうり)」でした。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 定斎屋
夏に江戸の街を売り歩く薬の行商人。是斎屋(ぜさいや)ともいい、江戸では「じょさいや」という。この薬を飲むと夏負けをしないという。たんすの引き出し箱に入った薬を天秤棒(てんびんぼう)で担ぎ、天秤棒が揺れるたびにたんすの鐶(かん)が揺れて音を発するので定斎屋がきたことがわかる。売り子たちは猛暑でも笠(かさ)も手拭(てぬぐい)もかぶらない。この薬は、堺(さかい)の薬問屋村田定斎が、明(みん)の薬法から考案した煎(せん)じ薬で、江戸では夏の風物詩であった。
「振売(ふりうり)」の数
万治元年(1658)の幕府の調査では、「振売(ふりうり)」の数は江戸北部だけで5,900人、50の職種に及んでいたといいます。
想像するに、かなりの数の「振売(ふりうり)」が江戸市中に往来し、賑やかだったと思います。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館 野菜を売っていますね
「振売(ふりうり)」・八百屋の一日
栗原柳庵の「文政年間漫録」を読むと、文政期(1818〜1830)の「振売(ふりうり)」の生計を想像できます。
振売(ふりうり)/江戸東京博物館
原文
菜籠(なかご)を担(かたけ)て晨朝(あした) に銭六,七百を携え、蔓菁(かぶら)・大根・蓮根・芋を買い、我(わが)力のあるかぎり、肩の痛むのも屑(もののかず)とせず、脚に信(まか)せて、巷(ちまた)を声ふりたて、蔓菁めせ、大根はいかに、蓮(はす)も候(そろ)、芋やいもと呼ばりて、日の足もはや西に傾くころ家に還(かえ)るを見れば、菜籠に一摘(ひとつみ)ばかりの残れるは、明朝の晨炊(あさめし)の儲(もうけ)なるべし。
家には妻いぎたなく昼寝の夢まだ覚めやらず、懐(ふところ)にも背にも 幼稚(おさな)き子ら二人ばかりも横竪に並臥(ならびふし)たり。夫は我家に入て菜籠かたよせ、竈(かまど)に蒔(まき)さしくべ、財布の紐(ひも)とき翌日の本貨(もとで)を算除(かぞえのけ)、また店賃(たなちん)をば竹筒へ納めなどするころ、妻眠をさまし、精米(こめ)の代はと云う。すはと云て二百文をなげ出し、与うれば、味噌もなし、醤(しょうゆ)もなしと云う。
又五十文を与う。妻小麻笥(おけ)を抱て立出(たちいず)るは、精米を買いに行なるべし、子供這起(はいおき)て、爺々(とと)、菓子の代(ぜに)給(たまえ)と云う。十二、三文を与うれば、これも外の方へ走出づ。
然(しかして)なお残る銭百文余、または二百文もあらん。酒の代(しろ)にや為(なし)けん。積(のこし)て風雨の日の心充(あ)てにや貯(たくわ)ふるらん。これ其日稼(そのひかせぎ)の軽(かろ)き商人の産(かせぎ)なり。但し是は本貸(もとで)を持し身上なり。これ程の本資もたぬ者は人に借る。暁烏(あけがらす)の声きくより棲烏(とまりがらす)の声きくまでを期とす。利息は百文に二文とかいう。
現代文
夜明けとともに銭六百文から七百文を持って、かぶ菜・ダイコン・レンコン・イモなどを籠に担げるだけ仕入れる。江戸の町を「かぶらなめせ、大根はいかに、蓮も候、芋や芋や」と、売り声を上げて西日が傾くまで必死に野菜を売り歩いた。
日が沈んだころ、菜籠の中には一にぎりぐらいの野菜が残っているが、これは明日の味噌汁の実になる。
家に帰り着き菜籠を置き、かまどに薪をくべてから財布を取り出して、売り上げからまずは明日の仕入れ代金を取り除き、家賃にあてるぶんは竹筒に収めた。そのとき、ようやく昼寝から覚めた女房が「米代は?」と手を出す。二百文を与えると「味噌も醤油も切らしているけど」と言う女房に、また五十文が渡される。
女房が買い物に出ると、今度は子どもの番だ。菓子代に十二文が消えた。
彼の手元に残ったのは百から二百文ばかりの銭だ。それを手に「さてと一杯飲ませてもらおうか」「いやいや明日は雨になるかもしれない。それに備えねば」と思案する。元銭のないものは、お金を借りる。利息は100文につき2文で、返済の期日は、当日の朝から夕刻までである。
「振売(ふりうり)」.新人は元手を借りて
新人の「振売(ふりうり)」は、まず彼らを取り仕切っている親方を訪ねます。親方は商品の仕入れ代金(600〜700文 /1文12円換算 7,200〜8,400円)と、天秤棒や籠一式を貸し、さらに河岸(かし=卸売市場)の場所や仕入れの値段相場など、最低限の知識をレクチャーし、即日商売を許しました。なるほど、簡単ですね。これだから、手に職がない町人が簡単にはじめられるビジネスが「振売(ふりうり)」だったのですね。
街の様子/江戸東京博物館
「振売(ふりうり)」は、1日の商売が終わると、親方から借りた仕入れ代金に100文につき利息2~3文(1文12円換算/24〜36円)をつけて返済し、残った金が棒手振の収入となりました。売り上げは1日1,200〜1,300文(14,400〜15,600円/1文12円換算)だったというから、手元に残るのはだいたい580文(約7,000円)という計算になります。
仕入れ代金:600〜700文(7,200〜8,400円)
収入:1200〜1300文(14,400〜15,600円)
所得:500〜700文(6,000円〜8,400円)
利息:12文〜21文(1日分:144円(利息2%:600文借りて利息12文)〜252円(利息3パーセント:700文借りて利息21文))
これは結構な高利だ!
「振売(ふりうり)」が借りた金の1日の利息が2%からですから、月利では約60%、年利に換算すると約720%になります。しかし、これはあくまでも1日での返済、つまり翌日返しなので、利子も少なくて済み利用者も多かったようです。
ちなみに、江戸時代にはさまざまな金貸しの実態がありました。両替商、質屋、素金、日銭貸、烏金などさまざまな名称で呼ばれています。どれも金貸し業で、両替商は年利20%、質屋は年利48%といわれています。
\江戸時代の味!美味しかったです/
一心太助も振売(ふりうり)だ!
一心太助(いっしんたすけ)は、小説・戯曲・講談などに登場する人物。架空の人物とされている。初出は「大久保武蔵鐙」とされる。
昔はよくテレビドラマや映画になった「一心太助」ですが、若い方は知らない人が多いかもしれませんね。
振売(ふりうり)は桃屋の宣伝にも出てます
振売(ふりうり)は落語にも出てくる
3代目 古今亭 志ん朝(ここんてい しんちょう、1938年3月10日 – 2001年10月1日)の「芝浜」をどうぞ。
「振売(ふりうり)」はなぜ荷物を担いで一日中歩けたか
近代以前の日本人は「ナンバ」の姿勢で歩いていたというのが,現在のところ通説になっています。
今日の日本人が歩行する際,「右足が出ると左手が前に出る」という体をねじった姿勢の連続です。しかし、ナンバの歩行は同側上下肢が同時に出る歩き方なのです。
西洋風は左足と右手,右足と左手を交互に前に出して歩きます。これでは、いっぺんに腰がぬけ,荷物の重さにふりまわされ,身体の重心さえとれなくなるのだそうです。右が得手なら右肩で棒を担ぎ,右足といっしょに右肩と右手を前に出します。半身にかまえ,右の腰を基軸に右足と右肩を同時に主導させ,右,左,右,左,と歩くと,棒のバネと腰のバネがはじめて一致し,重心が安定するということです。
実際にはYouTubeで解説されている通り、ナンバ歩きでは手は振って歩くのではなく、上下運動になるのだそうですよ。
撮影について
東京江戸博物館の常設展は写真撮影OKということで、撮らせてもらいました。実際は、館内はかなり暗く、ISO感度をかなり上げてシャッタースピードを遅くして撮っています。フィギュアはけっこう小さいので望遠レンズを使っています。難しい状況で、なんとか撮れました。
守貞漫稿には「振売(ふりうり)」の挿絵があります。東京江戸博物館のジオラマやフィギュアはすぐに、その守貞漫稿の挿絵の立体化したものとわかりました。挿絵を挿入しようかと思いましたが、よりリアルに感じられるように今回東京江戸博物館の常設展示を撮影したものを使います。(5階、6階の常設展は写真撮影は許可されており、許可をとって撮影されています。写真の著作権はこのブログにあり、著作権の対象です。)
追記
この投稿に使った写真を撮影した東京江戸博物館は2025年度まで長期休館しています。
大規模改修工事を行なっているようです。新しくなった東京江戸博物館、楽しみです。