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日本橋|その魚河岸としての歴史・江戸の繁栄を象徴する場所はここだ!

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日本橋は魚河岸として繁栄した

日本橋の名を聞くだけで、何を思い浮かべるでしょうか。

江戸名所図絵より「日本橋」

日本橋は江戸時代10回も焼失した!|20回ほど架け替えられた江戸の象徴・驚きの事実日本橋は江戸の象徴でした。その日本橋が焼け落ちたとは想像できません。ましてや、江戸時代10回も焼け落ちているのです。江戸の大火の記録から消失、日本橋の架け替えなど調べてみました。...

Google Map での日本橋

昔は日本橋というと魚河岸が連想され、日本橋の賑わいの第一とされたのです。17世紀初頭、江戸の人口は15万人に達して魚介類の大きな需要が生まれていました。さらに18世紀に入ると江戸は人口100万人を超える巨大都市となり、魚河岸も大きく発展したのです。

そして、江戸では一日に1000両以上の金が実際に動くところが三ヵ所あるといわれました。それがこの「日本橋」地域に全てあったのですよ。(1000両は大体ですが、現在の1億3千万円と考えていいと思います)

それは以下の3箇所です。

  1. 朝の魚河岸
  2. 昼の芝居小屋
  3. 夜の吉原

芝居小屋「堺町(人形町)の中村座・葺屋町(人形町)の市村座・木挽町(東銀座)の森田座」とありました。

日本橋地区にあった元吉原を詳しく調べたサイトがありました。

日本橋と明暦の大火

明暦三年(1657年)の江戸大火で吉原が新吉原へ移転します。それまでは、上記のように、豪勢な金の唸るところが三ヵ所とも日本橋にあったのですね。

新吉原の図

やはり「日本橋」は「江戸の繁栄の象徴」ですね。

明暦三年の江戸大火のあとは、三箇所あった「日本橋」地域で金の唸る場所が二箇所に減ってしまいました。しかし、江戸の町が100万人以上の大人口をもつ大都市になってからのこの魚河岸の賑わいはおどろくべきものだったのですよ。

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「お江戸日本橋」

「日本橋」は東海道五十三次の道中を歌詞に歌い込んだ日本の民謡「お江戸日本橋」にも歌われていますね。東京・日本橋を出発して、小田原、箱根、沼津、浜松、岡崎、亀山、草津、そして京都・三条大橋までまで、124里8丁、およそ500kmに渡る東海道中の地名・名所が次々と登場します。

「お江戸日本橋」の原曲・ルーツは、江戸幕府の第11代征夷大将軍徳川家斉(いえなり)、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の時代までさかのぼるそうですよ。

天保期の当時流行っていた俗謡「はねだ節」が、やがて「コチャエ、コチャエ」の囃子詞(はやしことば)を伴った「コチャエ節」となり、さらに東海道五十三次の替え歌が作られ、「お江戸日本橋」が誕生したそうです。

「日本橋」の発展過程

魚河岸は高札場とか、 金座銀座などとは成立事情がちがっていました。

江戸に移り住んだ摂津の佃・大和田両村の漁民

徳川家康が江戸入国後幕府を開くに至ったので、摂津の佃・大和田両村の漁民が江戸に移り住み、幕府へ納める漁業を行ないました。

それらは、森孫右衛門はじめ、34名の漁師たちと言われています。

西日本の漁民が江戸に移り住んだ理由は、彼らの漁法が東日本の漁民の漁法より発達していたからなのですよ。

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漁獲と販売の分業が始まる

慶長年間1596年から1615年までの期間)ごろから、幕府への納魚の残余分を一般市民にも売るようになります。一説には、森孫右衛門の長男、九右衛門が、江戸城に献上した魚の余りを一般に販売する許可を得たということです。

参勤交代で魚の需要が増えた

元和9年(1623年)、徳川家光が将軍に就任しました。この頃は参勤交代などの幕府の行事が増えます。

約2000人に江戸城で魚を提供!

行事が増えると食事の提供が増えました。毎日のように登城してくる諸役人、2000人にその位に応じて昼飯を提供する慣わしがあったのです。祝儀に欠かせないのは、でした。

そうして魚河岸の規模は大きくなったのです。

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市場の誕生

江戸城に献上した魚の余りを一般に販売するとなると、魚を売る場所に市場ができるようになるのです。

寛永年間1624年から1644年までの期間)には、本小田原町(現・中央区日本橋室町一丁目、日本橋本町一丁目)・本船町(現・中央区日本橋本町一丁目、日本橋室町一丁目)・本船町横店との三ヵ所の魚会所がありました。

いわゆる「古法式十ヶ条」といわれる魚河岸運営の規式ができたと伝えられています。

魚河岸としての形が出来上がった

寛永年間1624年から1644年までの期間)に、ほぼ魚市場としての形態が整ってきたと思われます。

その市場には「月行事」という当番役が市場の取りしきりをしていました。

その後、江戸の繁栄にともない魚市場が隆盛になり、魚を漁獲して回送してくる者との取引をめぐって複雑な利害関係がからみ厄介なことになります。そこで、延宝二年(1674年)には本材木町(ほんざいもくちょう/現・中央区日本橋一~三丁目)の河岸に新しく新肴場が、また天和三年(1683年)には安針町(現・中央区日本橋室町一丁目、日本橋本町一丁目)にも魚問屋が認められるようになりました。

富嶽三十六景「日本橋」葛飾北斎

日本橋での魚問屋の結成

このようにして間もなくこれらの町々に問屋の組合が結成されるようになりました。

拡張された日本橋魚市場では、江戸時代初期のうちに四組問屋と称する4組の魚問屋の組合が形成されるようになります。

  1. 本小田原町組
  2. 本船町組
  3. 本船町横店組
  4. 安針町組

そして、本小田原町に魚会所を設立して日々の幕府膳所の納魚をつかさどっていましたが,それを取り扱っていたのは本小田原町組だったのです。

「日本橋」魚河岸における二つの役割

日本橋の魚河岸には以下の二つの役割がありました。

  1. 幕府への納魚義務を行う
  2. 江戸市民に食糧として売る鮮魚その他の魚商業

江戸城用と庶民に違う魚の値段!?

上記の幕府への納魚と庶民への鮮魚売買は「日本橋」魚河岸初期にはスムーズに行われました。

ところが、江戸の発展により江戸城用の納魚価格と町人向け鮮魚価格とに大きな格差ができるようになったのです。江戸城用に設定された魚の代金は市中相場よりかなり安いものでした。これでは扱うたびに損失がかさみます。例えば、大ぶりの高級魚「鯛」では、幕府への上納価格と市中価格には5から6倍の差がありました。

「日本橋」魚河岸初期には、魚河岸は納魚制のための漁民や漁業が主な役割でした。しかし、市場が一般商業が主な取引となり、大金を取引する魚市場大町人が多く出現することになります。

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江戸っ子大町人の誕生

上記のように魚市場が発展し大金を扱う町人が誕生します。そして、江戸には以下の代表的な大町人が存在するようになりました。

  1. 大金を取引する魚市場大町人
  2. 木場の大町人
  3. 蔵前の札差

木場とは材木河岸のことです。江戸の材木商は日本橋付近に集まっていて材木河岸を形成していたのですよ。1657年明暦の大火の被害の後、深川に移転しました。

札差(ふださし)は、江戸時代幕府から旗本御家人に支給される米の仲介を業とした者です。

本所立川(深川の木場ですね)富嶽三十六景 葛飾北斎

幕府への納魚制の歴史

第1期

天正(1573年から1592年まで)末年から寛永(1624年から1644年まで)年間

上方摂津の漁村から関西漁民の森九右衛門一族などが江戸に移り住みました。そして、自分たちの漁獲物のほかに、本小田原町あたりで買いつけた魚を江戸城へ直接納めていました。

第2期

寛永(1624年から1644年まで)末年から寛文年間

幕府の諸制度や江戸の市街とか市制がほぼ整いました。魚問屋の法式書も同じように制定されます。そして、魚問屋組合の結成も進みました。この時期は、上記にもあります本小田原町組・本船町組・安針町組の各魚問屋によって魚が幕府へ直接納められていました。

第3期

延宝二年(1674年)から享保十五年(1730)までの約50年間

この期間は、江戸の魚市場が大いに拡張を見た時です。延宝二年に新肴場組、天和二年に安針町横店組が新設されました。このころから1ヶ月のうち上10日を新肴場組が、下20日を本小田原町組が、 それぞれ幕府へ納魚しました。

第4期

享保十五年(1730)から寛政四年(1792)までの約60年間

この時期は、日本橋魚問屋四組のなかの代表者六名が幕府への納魚を請負いました。請負納魚制時代と言われています。

第5期

寛政四年(1792)から慶応四年(1868)までの時期

この時期は約70年にわたります。幕府はみずからの手で魚納屋役所を設けたのです。そこで魚を買上げました。いわば強制買上げです。納魚買上げの時期です。

幕府に納めても儲からない!?

納魚制の大まかな流れ

上記のように、日本橋魚河岸から幕府への魚を納めました。納める方法は上記のように変化しました。幕府に魚を納めることから日本橋の魚河岸は始まったわけです。

最初は、御魚御用を務めることはかなり名誉なことでしたから、納魚を取り仕切る責任者は有力魚問屋が勤めていました。しかし、次第に幕府に納める魚の量は増えていきます。しかも、幕府に納める魚は高級魚です。

これでは、魚問屋の儲けは減るばかりです。

幕府からの支払いも幕府の財政次第。支払い遅れも出てきます。

上記、第4期のように、請負納魚制になり、「請負人制」になります。

上記、第5期のように、幕府が役所を設け、直々にというか、半ば強制的に魚を召し上げるようになったのです。

買取価格は、市価の10分の1。これでは、たまりません。安価で魚を持っていかれるのが嫌で、魚を隠す業者も出てきたということです。

「御用!」

第5期での幕府の役人は、幕府に必要な魚を召し上げなければ失態となります。こういうことを避けるために、魚河岸に精通した者を「買役」として雇いました。

「買役」は目にとまった魚を手鉤(てかぎ)で、魚を引っ掛けて「御用!」と捕物のように納めさせる者もいたそうです。そして、業者から金をせびる者もいました。

「日本橋」の昔の様子を映像でどうぞ

「日本橋」から関東大震災を経て魚河岸が移転

魚河岸は日本が近代国家になってからも存続して東京人の食卓に全国の魚介類を集荷・供給していました。しかし、1923年の関東大震災の被災を契機に、東京改造計画で築地への移転が決まったのです。しかし、日本橋を去ることに反対する人が多く、移転完了には決定から10数年を要したと言われています。

関東大震災の模様

「日本橋」魚河岸の歴史を動画で


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