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味噌の歴史はなが〜い|様々な味噌の歴史、知ってみませんか?

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古代の「醤」(ひしお)

古代から、食べ物を保存するために色々方法がありました。代表的なものは「醤」(ひしお)です。古代中国にあった「醤(しょう/ひしお)」という食品が、味噌の起源ではないかという説があります。

「醤(しょう/ひしお)」

「醤」(しょう/ひしお)には二つ意味があります。一つは、肉を、塩、麹、酒などで漬けたもの。もう一つは、米、麦、豆などを塩と混ぜて発酵させたもの、の意味です。

周礼」(しゅうらい)、つまり紀元前11世紀の中国の儒教教典に「醤」の文字が見えます。「珍用八物、醤用百二十甕(8種類の料理を作るには、120甕の醤が必要)」とあるのです。この頃にはすで「醤」が存在したのですね。

孔子は

孔子(紀元前552年または紀元前551年~紀元前479年)の論語「郷党第十」に、不得其醤不食(適当な味付け汁がないと食べない)と記述されています。「醤」が調味料であることが文書としてありますね。この時代はまだ、獣、鳥、魚を原料とした、肉醤、魚醤のことなんだそうです。

そして前漢時代(紀元前206年~紀元前8年)の「穀醤」が中国湖南省より出土したことがあります。後漢時代(25年~220年)の「論衡」(漢代の思想書)に「豆醤」の記述があり、この頃には大豆を原料とした「醤」が製造されていたことがわかり興味深いです。ここで、現在の「味噌」、「醤油」の原点が出現しました。

そして、北魏(386年 – 534年)の「斎民要術」(世界最古の農業技術書)に、大豆と糀を混ぜて「醤」・「鼓」(し/くき:味噌、豆をすりつぶして煮たもの)を作る方法が書かれています。

諸説あるのですが、上記のこの「醤」が日本には仏教伝来とともに伝わったというものが有力です。

奈良時代(「醤」の変化)

大宝律令」(701年)には、中国にはない「未醤」(みしょう)という言葉が書かれているのです。「未だ醤にならざるもの」と行った感じでしょうか。

味噌の呼び名の変化

「味噌」の呼び名は、「未醤」の音から、「みしょう」→「みしょ」→「みそ」と変化したものと考えられています。書き方としては、「未醤」→「味醤」→「味曽」→「味噌」と変化しました。

ちなみに「大宝律令」には「醤」を作る役所があったと記されています。国をあげて作っていたのでしょうね。尾張・隠岐・駿河・長門・但馬・伊豆・豊後の「正税帳」にも「未醤」・「醤」の記載があります。正税帳というのは、古代諸国の家計簿あるいは会計帳簿とも言えるものです。

この「未醤」という単語は中国の言葉にはなく、「醤」に日本人が手を加えた新しいものと考えられます。しかし、現在その「未醤」が正確にどのようなものかはわかっていません。

平安時代(貴族たちが味噌を作り始める)

日本三代実録」(にほんさんだいじつろく:901年 日本の平安時代に編纂された歴史書)に「味噌」という文字が出てきます。

近江国から納められた味噌が僧への俸給として与えられたと書かれているのです。この頃の味噌は、塩漬けの大豆のようなものです。

給料としての味噌

そして、高級官僚の給与として「醤」が支給されていました。そして、平安中期に書かれた「宇津保物語」(うつほものがたり:日本最古の長編物語)には「酢、醤、漬物皆同じごとしたり」と記されています。貴族たちは「醤」作りをしていたことがわかります。この辺りの「味噌」と「醤」の区別は定かではありません。

延喜式」(927年)に、当時の高級官僚には「醤」は調味料として使うものではなく、食べ物付けたり、なめたり、かけたりして食べられ、また薬としても使われていたと記載されています。当時の「醤」の材料は、以下です。大豆、米麹、もち米、小麦、酒、塩です。

当時の醤はなかなか庶民の口には入らない高級品でした。贈答品としても使われていたそうです。そして「延喜式」には、京都東市の「醤」屋と西市の「未醤」屋が記載されています。そして高級官僚への給料として「未醤、未曾、味醤、醤、醤滓、滓醤、鼓、鹿醤、鹿未醤」が支払われていたという記録があります。

和泉式部の和歌

平安時代中期の歌人 和泉式部(978年~没年不詳)に、味噌を詠みました。

二月ばかり、味噌を人許遣るとて
花に逢へば身ぞ(味噌)つゆばかり惜しからぬ飽かで春にも変りにしかば

(意味)二月ころ、味噌を譲ってほしいと使いの人をよこすというので
桜の花に逢えるならば、自分の身は大事にしている味噌と同じように少しも惜しくはないなあ 満足しないで春にもかわってしまったのでしょうから。

和泉式部のもとまで味噌を譲り受けに使いの者をやるという人は、宮廷官吏など身分の高いお方でしょう。(前述のように味噌は高級官僚の給与にもなっています)(「身ぞ惜しからぬ」と、自分の身さえ惜しくないと気持ちを捧げる相手に、貴重な味噌は惜しくないから差し上げますよ、と伝えているのです。

和泉式部は、赤字での「味噌」と「身ぞ」をかけて詠っています。

鎌倉時代(味噌汁の登場)

それまでの味噌は食べ物にかけたり、つけたりするものでしたが、鎌倉時代に味噌汁が登場します。それまでの味噌は、そのまま食べたり、食べ物にかけたり、何かにつけたりするものでした。味噌汁ができたのは、禅僧の影響ですり鉢が使用されるようになったのが一つの原因です。粒状のものをすりつぶした「すり味噌」がつくられました。すり味噌は水に溶けやすいので、味噌汁に最適だったのです。鎌倉武士の食事の基本「一汁一菜」が出来上がり、それが現代の食事にも影響します。

吉田兼好

吉田兼好の書いた『徒然草』 第二百十五段

平宣時朝臣、老ののち、昔語りに、「最明寺入道、ある宵の間に呼ばるる事ありしに、やがて、と申しながら、直垂のなくてとかくせしほどに、又使来りて、直垂などのさぶらはぬにや。夜なれば異様なりともとく、とありしかば、萎えたる直垂、うちうちのままにてまかりたりしに、銚子に土器とりそへて持て出でて、この酒をひとりたうべんがさうざうしければ、申しつるなり。さかなこそなけれ、人はしづまりぬらん。さりぬべき物やあると、いづくまでも求め給へ、とありしかば、指燭さして、くまぐまをもとめし程に、台所の棚に、小土器に味噌の少しつきたるを見出でて、これぞ求め得て候、と申ししかば、事足りなん、とて、心よく数献に及びて、興にいられ侍りき。その世にはかくこそ侍りしか」と申されき。

ここには、平宣時の昔語りとして、最明寺入道(鎌倉幕府五代執権・北条時頼)と台所の棚の皿にこびりついていた少しの味噌を肴にして、二人で気持ちよく酒を酌み交わした話が書かれています。

室町時代(味噌汁が庶民に・醤油もできた)

味噌が現在の味噌汁のような形になって、庶民の食事に組み込まれるようになるのは室町時代になってからです。なぜ、味噌汁が普及し始めたかというと、大豆・稗・粟の栽培奨励策が出されたからです。そのために大豆の生産が増加しました。

ネコまんま!?

宗五大草紙」(そうごおおぞうし:1528年(享禄元年)に伊勢貞頼によって記された武家故実の書。武家奉公人としての心得、幕府殿中における諸作法・心がけ、先人の教訓などを書いたもの)には、「武家にては必ず飯わんに汁かけ候」と書かれています。つまり、今の「ネコまんま」!を武士は必ず食べろ、という意味です。この時代から戦国時代にかけて、武士はご飯に味噌汁をかけて食べるのが日常的だったのですね。

ちなみに、室町時代末期には、味噌を造る過程から醤油が発明されたとされています。

戦国時代(米と味噌で戦場に)

戦陣での食料(戦陣食)は大事です。携帯でき、かつ日持ちするものが好まれました。

携帯味噌

味噌の携帯は、まずは干すか焼くかして味噌玉にします。それを他の食料と一緒に竹の皮や手拭いで包み、腰に下げるのが一般的だったようです。藁に味噌をしみこませて携帯したこともありました。また干し大根などを味噌で塩辛く煮詰めて干し固めたものを陣中では水に入れて戻す。今の「インスタントみそ汁」のようなものが考えられていますね。

江戸時代(味噌屋大繁盛)

幕府のある江戸は、その当時世界最大の100万人都市に成長します。そうなると味噌が足りなくなり、各地から運んできています。なぜなら江戸では毎朝味噌汁が飲まれていました。(対照的に、上方(京都を中心とした関西)は朝には茶粥を食べるのが一般的でした。)

味噌を買う家には蔵は立たぬ

「味噌を買う家には蔵は立たぬ」ということわざができたように、味噌まで金を払って買うような家はお金がたまらない、というほど、みな自家製味噌を作りました。武士、農民、大商人は味噌の自家醸造がほとんどでした。味噌の販売はもっぱら長屋暮らしの庶民。人口増と慢性的な土地不足で家が狭く、味噌を作って保存しておく余裕のない江戸では、長屋暮らしの庶民が味噌を自製するのが難しかったからです。「蔵は立たない」ということは、彼らの暮らしを表しているとも言えます。それにしても、たくさんの味噌が売られました。

「料理物語」には

江戸時代の料理本「料理物語」(1643年(寛永20年)にはなんと46種の汁物の調理法が載っています。味噌仕立ての汁の調理法が多いことに驚きます。

調味料以上の存在

本朝食鑑」(元禄10年(1697年):人見必大によって江戸時代に著された本草書)は、庶民の日常食品について医学的な見地からよし悪しを解説したものです。 味噌は体を温め、気分や心をゆったりとさせて血行をよくし、酒毒を解消するといった大豆の機能に加え、便通をよくし、元気を出し、血をつくり、血のめぐりをよくする力もある、と解説されているのです。また、塩分と相まって悪血をおさめ、体を丈夫にし、体毒を消し、血圧を低くし、体をつやつやさせ、痛みを止め、吹き出物などが出るのを防ぎ、食欲をそそらせるといった効果もあると書かれています。単なる調味料以上の存在として、注目されていました。

明治時代

大政奉還、王政復古の大号令、徳川幕府の終焉、文明開化など激動の変化の明治が始まりました。

食の世界もガラリと変わります。どんどん異国の味が日本に入ってきます。一番大きいのは、牛肉を食べることでした。

ざんぎり頭で

文明開化の象徴として、東京で流行したのが牛鍋です。東京をはじめとして牛鍋屋がどんどん開業します。
ざんぎり頭で、牛鍋をつつのくのが、流行の先端だったのですね。 西洋の影響を受けたとはいえ、この牛鍋は「味噌じたて」だったのです。

和洋折衷

牛鍋はシカ、イノシシ、ウマの肉を用いる紅葉(もみじ)鍋のアレンジ料理です。当時の牛肉はかたく臭いも強かったのですが、獣臭をやわらげる味噌での味つけを発案したのです。欧米から伝わってきた牛肉を、日本の伝統的な調理法で食べるという「和洋折衷」な料理、それが牛鍋です。

昭和に入ると

第二次世界大戦後、東京では戦火で味噌蔵が焼けて少なくなりました。味噌が不足していったのです。その不足分を補うために、東京では信州からの味噌を大量に入荷します。 米糀がたっぷり入った薄い、山吹色の信州味噌は、東京でお馴染みになったのですね。

出し入り味噌

その後、昭和にはだし入り味噌が登場しました。炊事の時間短縮にもなり、 その当時の社会進出する女性たちを後押しすることにもなったのですね。

様々な味噌

現代では、無添加、塩分抑えめ、など、様々な種類の味噌があります。

このように、味噌は、「糀の発見」、「貴族の楽しみ」、「戦の携帯食」、「一汁一菜の要」と、様々な流れを経て、「日本の食」に欠かせないものになっていきました。

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