私たちは2022年、初夏、学校給食発祥の地、山形県鶴岡市の大督寺を訪れました。
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大督寺齋藤浩明ご住職とお会いする
事前に訪問のことをご住職に伝えておきました。齋藤浩明ご住職が暖かく迎えてくださいました。
齋藤ご住職と学校給食発祥の地記念碑の前で
さっそく、本堂に通していただき、そこで色々と齋藤ご住職に説明いただきました。
\大変興味深く読みました!/
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義民が駆ける
大督寺は小説「義民が駆ける」の舞台ともなった地です。
『義民が駆ける』(ぎみんがかける)は、天保義民事件に材をとった、藤沢周平の時代小説。1976年から1977年にかけて、中央公論社の雑誌『歴史と人物』に連載された。
これは、大変興味深い歴史小説だと思いました。天保期、荘内藩が命じられた理不尽な国替えに領民が抵抗した天保義民事件の実態に、藤沢氏が迫った作品です。いわゆる「三方国替」騒動の話です。長岡の牧野家を川越へ、川越の松平家を庄内へ、庄内の酒井家を長岡へ転封させようとする幕命が発せられます。しかし、思わぬところから抵抗に遭うのです。嘆願のために次々と江戸へ上る百姓たちです。この小説の中では、庄内藩の藩主を守るため藩内の百姓達が江戸に出て直訴し国替えを取り消した史実のみでなく、百姓達の本音の思惑も表現され人間ドラマとしても面白いです。
この小説の中では、鶴ヶ岡城が一つの舞台になっています。その理由は、大督寺のある場所は鶴岡公園(鶴岡城)から徒歩5分の家中新町(かちゅうしんまち)にありますが、この場所は鶴ヶ岡城の三の丸にあたるからです。家中新町は、庄内藩の家中(中級以上の武士)の屋敷町として整備されました。歩くと今も武家屋敷町の面影が残されていて風情のあるところです。
大督寺は鶴ヶ城の南西、つまりは裏鬼門を守護した役割も担っていたようです。大督寺が建つのは、鍛冶町木戸口跡です。鶴ケ城三の丸の中は郭内(くるわうち)といわれて外部との出入り口は11しかなく、これを11木戸と呼び、木戸の通行はなかなか厳しかったようですよ。武士は別として、鶴岡の町人もみだりに通ることはできなかったようです。
以下、丸印のところが大督寺の位置です。まさしくお城の三の丸に存在していますね。
出羽国庄内鶴岡城絵図(鶴岡市郷土資料館蔵)
現代の地図と東西南北が違うことに注意してください。
齋藤ご住職
齋藤ご住職は大変ユニークな経歴の持ち主です。ご出身は隣の酒田市です。お寺の次男として生まれ、そのお寺はご長男が継がれるそうです。齋藤ご住職は佛教大学に進み、大学在学中にインドに渡ります。そこで、食事や衛生について深く考察したそうです。
帰国後、大学を卒業。その後、齋藤ご住職はなんと調理師学校に通います。前大督寺住職から副住職になってくれと求められますが、「待ってほしい」と答えられたそうです。副住職の仕事は住職の補佐をすることで、住職見習いのようなものと捉えていいと思います。そうこうしているうちに、前住職が亡くなってしまい、齋藤ご住職は副住職を経ないでいきなりご住職になられたそうです。この話だけでは、詳しくわかりませんが、ご苦労は大きかったと想像します。明治時代に焼けた本堂は仮本堂として建物がありましたが、平成13年に本堂を再建立。そして齋藤ご住職が大督寺ご住職に就任なさったのが平成21年です。
大督寺本堂
古い本堂が火災にあい、前述のように新しい本堂は平成13年(2001年)に再建立されたものです。
この本堂のちょうど西側で子供達が勉強していたらしいです。明治22年にできた私立各宗協同忠愛小学簡易科学校ですね。ここで、日本で初めての学校給食が提供されました。
現在、庄内藩主酒井家のお墓が窓から見えます。
その当時はどのようなものだったかわかりませんが、お墓のすぐ近くにあったのですね。その当時の子供たちが勉強したり、給食を食べたりしている姿を想像すると、感無量です。
齋藤ご住職と資料を見た
さすが、学校給食発祥の地です。ご住職はさまざまな資料をご準備くださり、一緒に読みました。大変興味深いものがありました。
私立各宗協同忠愛小学簡易科学校の概要
齋藤ご住職とともに資料を読むにあたり、僕がすでに知っている情報と、そしてさらに新しい情報もありました。
子供用の本などにもさまざまな情報があった
これは給食を作るきっかけになった話ですね。
私立各宗協同忠愛小学簡易科学校の概要
設立:明治22年10月
校名:鶴岡各宗私立忠愛尋常小学校
所在:鶴岡町家中新町
校舎:同所所在大督寺本堂二間(南客殿30枚、次間18枚、並に小部屋二間を充用)
所属:鶴岡朝暘学校管理庁
区分:学校令による公認私立学校
創立者:鶴岡町各宗連合
同代表者:西田川郡下川善宝寺第34世永野禅法大和尚
教師陣
正規の資格を持つ教師は一人だけだったようです。名前は、下田先生といいます。そのほかは、僧侶、医者などの学識者が教育にあたっていたということです。
この忠愛小学校は、「貧乏学校」の俗称で呼ばれていたようです。それもそのはず、貧しい家庭の子供たちの救済のために設立されたからですね。
忠愛小学校の給食
この学校の給食を卒業生の談話からまとめた資料がありました
- 欠食児に毎日学校で昼飯を給与したものであったこと。
- 給食内容も, 主食・副食の組合わせで, 栄養面でも充分考えられていたこと。
- 給食の方法も、 子供に卑屈感を与えないような配慮,あるいは, 時々全部の子どもに給食して差別感をなくするよう努力し、 実に教育的であったこと等が推定される。
佐藤霊山をたたえる新聞
そして、給食の設立に甚大な影響力のあった佐藤霊山師をたたえる国民新聞の記事も見つけました。
これは大正11年の記事です。この頃は忠愛小学校は焼失しています。
忠愛協会の設立
明治30年10月、大督寺の火災とともに忠愛小学校は焼失しました。そこで、忠愛小学校開校当時の大慈悲心を受け継ぎ、その実施方法は変更したものの明治33年7月、忠愛協会が設立されました。
忠愛協会の発起人は以下の人物です。
常念寺住職:佐藤霊山
長泉寺住職:菊池快住和尚
忠愛協会の資本金は、明治32年から「慈恵金」として取り扱われています。そして、協会の事業は次第に地域の人々に注目されるようになります。その影響で寄付は年々増加します。
大正初期には県当局はもちろんのこと、宮内省、内務省からも認められるようになったのです。その上、年々多額の奨励助成金が下付されるようになりました。
忠愛協会員の行乞(ぎょうこつ)
協会員の行乞は定期的に行われました。
行乞(ぎょうこつ)とは僧侶が乞食 (こつじき) をして歩くこと、つまり托鉢 (たくはつ) のことです。
毎月、1、10、15、25、の4日間、酷暑酷寒を厭わず実施されたのです!素晴らしいですね!
資金の使い方
忠愛協会の資金の区分は以下のようでした。
- 授業料
- 教科書
- 学用品
- 衣服費
- 給食費
- 雨具
- 履物
その中の給食費に関しては
忠愛協会の給食の方法は、給食費を児童数に応じてまとめて学校に支給する方法をとりました。各学校では、小使室で弁当を与えるとか、登校時に弁当をもらい下校時に空弁当を小使室に返す方法がとられました。時には、児童の机の中に弁当を入れてやったりもしたようです。
このように、忠愛小学校が大督寺におろした学校給食の種は、その焼失後も忠愛協会の手によって育ったのです。
大督寺境内にある学校給食の記念碑をバックに
齋藤ご住職とお会いできて大変嬉しく思いました。大督寺本堂を出て、境内の学校給食発祥の地の記念碑の前で写真を撮りました。
この記念碑のレプリカは「学校給食歴史館」の入り口にあります。
学校給食歴史館にあるレプリカ
実物を見ることができて嬉しく思いました。
佐藤霊山のお墓にお参りした
近くに学校給食を作った僧侶、佐藤霊山のお墓があると伺い、訪れました。
同じ鶴岡市の常念寺です。歩いてすぐのところにありました。
常念寺・動画でもどうぞ
佐藤霊山が住職を務めたお寺です。
常念寺の中のお墓の中に一際立派なお墓がいくつかありました。歴代御住職のお墓だそうです。
手前のお墓が佐藤霊山のお墓です。
佐藤霊山のお墓
西陽が強い中撮影させていただきました。
今回、学校給食にゆかりの深い、山形県鶴岡市・大督寺そして常念寺を訪れることができ、心に残る旅になりました。大督寺・齋藤ご住職はじめ関係した方々に感謝いたします。
\大変興味深く読みました!/
後日談
2023年になり、大督寺の齋藤ご住職から令和5年全国学校給食週間の期間(1月24日から30日)、雪が学校給食の記念碑の上に「まるでご飯のように」積もったと写真いただきました。まさしく、ご飯を盛っているような写真ですね!