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体格のよかった薩摩人
幕末の薩摩の武士は他の土地の人たちより体格が良い人が多かったと伝わっています。西郷隆盛は180cm~182cm。 大久保利通は178cm~183cm。写真で見る限り、村田新八、そして川路利良も大きそうです。これは現代においても背の高い人たちですよね。
これには理由が考えられていて、薩摩の武士は昔から肉食、特に豚をたくさん食べていたのが原因ではないかと言われているのです。
大久保利通・・・中列左から3番目(推定178cm〜183cm)
村田新八・・・・後列左から3番目(180cm)
川路利良・・・・後列右から3番目(約180cm)
大山巌・・・・・後列右から2番目
この写真を見る限り、薩摩人の体格の良さがわかりますね。例えば江戸時代の男性の平均が155cm、女性が145cmということを考えると上記の人たちは驚くほど大きいです。上の写真には写ってはいませんが、西郷隆盛の身長は180〜182cm 体重は114kg です。
エドアルド・キヨッソーネによる「西郷隆盛」の版画(西郷の親戚を参考に想像で描写)
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「薩摩藩」という記述(マチガイだが便宜上使います)
以下、便宜上、現在一般的に使われている「薩摩藩」と書きます。
江戸時代には、「薩州」、または、「島津の御家中」などと呼ばれました。時代劇(特に幕末)などで「我々薩摩藩の、、、」なんて言っているのはマチガイ。あり得ません!
公式に「藩」とは、明治2年(1869年)の版籍奉還から明治4年(1871年)の廃藩置県までの2年間だけの制度です。それに加えて、廃藩置県における藩の正式名は「鹿児島藩」で二重にマチガイです。)
日本人の身長の推移
ざっくりした話ですが、縄文時代には大体以下のような平均身長だったらしいです。
男性の平均身長=約158cm
女性の平均身長=約149cm
その後、弥生時代に身長は伸びていきます。
男性の平均身長=約163cm
女性の平均身長=約152cm
そして日本人の平均身長は弥生時代から低くなり、江戸時代に最も低くなります。
まず縄文時代から弥生時代にはそれまでの狩猟採集経済にコメが加わって安定度を増し身長が伸びたことが考えられます。しかし、コメへの片寄り、肉食の忌避、不労階級の増大による栄養不足によって再度身長が低くなった可能性が高いのです。
つまり、もともとは身長がそれほど低くなかった日本人は、食生活の変化により、江戸時代にかなり低くなったと思われるのです。
それに比べると、幕末の薩摩人の体格には驚きます。これには薩摩人が豚肉を食べたことが大いに関係あると思われています。
日本人の食は
天武天皇
天武天皇が675年に出した「肉食禁止令」に始まり、将軍綱吉が「生類憐み」の令を出すなど、歴史上、日本では何度も肉食を禁止されたため、江戸時代に肉を食べるのは一般的ではありませんでした。
絵本『豊臣琉球軍記』より 島津軍の琉球侵攻の様子を描いています。
1603年、薩摩は琉球、奄美に進攻しましたが、その時点で豚は持ち帰られたものと思われます。その後、豚肉はよく食されることになりましたが、その理由は、京都から薩摩は遠かったこと(都の慣習が行き届くことが難しかった)、薩摩は狩猟を奨励していたこと、琉球奄美と関係が深いこと、が考えられています。
旧薩摩藩邸では
「薩摩藩高輪邸表長屋」撮影・F・ベアド
1995年から1997年にかけて、現東京都港区の「旧薩摩藩邸」が発掘調査されました。
驚くことに、多くの獣肉の骨、多くは豚の骨が見つかったようです。その6~7割が豚またはいのししの骨だったそうです。しかも多くが成長の止まる1歳から1歳半のものであったことから、豚が飼育されていたと推察されています。
嘉永年代の地図と現代のもの 右上部に薩摩藩邸蔵屋敷が見られます/ここで、西郷隆盛と勝海舟の江戸城開城会談が行われました
他の藩邸跡では魚介や鳥の骨が見つかることはあっても、獣骨がこれほど多量に掘り出されることはなく、薩摩の食文化が他の地域といかに違っていたかを示すものです。
これは日本が鎖国をしていたときも、薩摩藩領の琉球は中国との朝貢(ちょうこう)貿易が認められていたため、貿易を通して海外の物資や食文化が琉球に入り、薩摩藩も影響を受けたためと思われます。
島津斉彬
また、嘉永(かえい)4(1851)、島津斉彬が藩主となって初めて鹿児島に戻ったときにも、勤務する藩士たちへのまかない料理に、豚汁や炒(い)り豚(豚肉の炒め物)などを出したという記録が残っています。
江戸時代の当初、脚気は、白米を食べることが習慣化した上流の大名の病気にとどまっていましたが、元禄以降、白米が広く普及すると、江戸に駐在する諸藩の家臣が、江戸では対面上、白米を食べるため、江戸駐在期間が長くなるにつれ奇妙な病が流行り始めました。(地方から出てきた武家は、それまで地元で食べられていた食事ではく、江戸で流行っている白米中心の食事を半ば見栄のために食べたと思われます)
白米を食べる習慣は都市部から広がり、地方ではまだまだ玄米食が中心だった当時、江戸を訪れた地方の大名や武士に、足元がおぼつかなくなったり、寝込んでしまったりと、体調が悪くなることが多くなったのです。
「熈代勝覧」から 脚気で歩けなくなった人と思われる
そんな人たちも故郷に帰るとケロリと治ってしまうことが多かったため、この病は「江戸患い(江戸わずらい)」と呼ばれました。
当時の明確なデータはありませんが、亡くなる人も少なくなかったと思われます。のちにわかったことですが、これはビタミンB1不足が招いた「脚気」という病気が原因でした。胚芽部分に多いビタミンB1は、精米で取り除かれてしまうため、白米にするとわずかしか残りません。当時の人々は一汁一菜が基本で、ご飯を大量にとり、おかずの量も数も少なかったこともビタミンB1不足の原因となっていました。
薩摩藩の武士が脚気にかからなかったという話はご存じですか?
戦国時代から江戸時代にかけて日本は肉食をしてませんでしたが、薩摩藩だけは豚肉を食べていましたからなんです。
現在の黒豚
鹿児島の畜産物の代表的なものは「黒豚」です。しかし、ここに至るまでは色々なものを経過しています。1960年代に最初の黒豚ブームはピークを迎えます。しかし、1970年代に入り、全国の畜産試験場などでは成長が早く多産な白豚(三元豚・LWD)を導入をする動きが活発化します。そこで、「白豚を全面的に導入するか、もしくは、黒豚を残すのか」と大論争が起きるのです。
結局、当時の県知事、金丸三郎が「黒豚は鹿児島の宝であるから、これを残す」と決断しました。
これは今になってはですが、貴重な決断だと思います。黒豚は細々とですが、残っていくことになったからです。そして、1990年代後半に入り、空前の黒豚ブームが起こって、現在の黒豚有名ブランド化に至るのです。
とんこつ料理
薩摩の有名な豚肉料理は「とんこつ料理」です。現在の鹿児島では家庭料理で、各家庭により作り方が違って興味深いです。元々は、薩摩の武士の野戦料理なんですよ。それゆえに、男手でなされる料理で、焼酎を飲みながら車座でなべを囲み、取り分けながら食べるものでした。
薩摩の豚肉の食べ方は主に4種類でした。まず、肉は保存するために塩づけにされました。これは「塩豚」と呼ばれていました。そして、次にさばいた後に残った骨やクズ肉を、野菜と共に鍋で一緒に煮込んだ「さつま汁」。そして骨つきの肉を味噌で煮た「とんこつ料理」。最後に、クズ肉を細かく刻んで炒め、そして味噌煮を入れてさらに炒め、生姜を加えたものが、「豚味噌」です。
豚みそ
豚味噌は保存性がいいので、旅などの時に携帯していたようです。また、西南戦争時には食料の一部として竹の筒に入れて持ち歩いていたといわれています。ちなみに鹿児島で使われる味噌は主に麦味噌です。
さつま汁
「さつま汁」は、「薩摩汁」の名称で明治陸軍の公式調理マニュアルである「軍隊料理法」(明治43年)に記載されています。
全国から招集された兵士たちがこの「さつま汁」を食べ、除隊後、出身地に帰り「さつま汁」を広めました。
旧海軍では「鹿児島汁」と呼んでいました。(海軍関係は鹿児島出身者が多いことから、彼らにとって薩摩よりも鹿児島の方が呼び方として一般的だったからと想像します)
焼酎
また、焼酎を造るときに出た粕は、豚にとってよい餌となりました。まさに一石二鳥で飼育にも役立ったのです。現在も、鹿児島特産の豚の餌には、焼酎のもろみや粕が含まれている場合があります。肉の味をよりよくする秘訣なんだとか。
以上、薩摩人と豚肉食の歴史の話題でした。
鹿児島の黒豚を食べよう!
小さい時からよく鹿児島の黒豚は食べています。美味しいですよ。
以下、霧島高原ロイヤルポークのHPより。鹿児島・黒豚の特徴
- 肉色は淡灰紅色(美しいつやの淡いピンク色)で光沢があり鮮明です。
- 筋繊維がきめ細かく保水性がり歯切れがよい。
- 食味がよく、弾力があり肉の締りがよい。
- 脂肪は良質で色は白く硬く、臭みがない。融点が高く、口の中でまろやかにとろけ、ほのかな甘みがあり、しかもサッパリとしています。