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佃島漁民に与えられた特権1|家康人生最大の危機にあった!地獄の道行の隠された真相とは?

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佃島に行った

歴史に興味あり、佃島に行ってみました。とても興味深いところで、色々と散策しました。

もちろん佃煮も買いましたよ!佃島に行って佃煮を買った話は以下をご覧ください。歴史的なことも書いてあります。

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佃煮の老舗「天安」

そこで、佃島の成り立ちや、歴史を調べました。そこで、一般的に言われている話に「おや?」と、疑問を持ったのです。そして、色々と調べてみました。

江戸の漁業はは関西からの出稼ぎ者によって発展した

江戸を含む関東の漁業は、関西からの出稼ぎ漁業者によって開かれました。この時に関西からきた漁民は二つのタイプがあったとされています。

そのうちの一つ、佃島の漁民には他とは別格の待遇が処せられているのです。この理由は、一般に伝わる話だけでは、僕にはちょっと理解し難い話でした。あまりにすごい「エコひいき」なんです。

通説は

一般に伝わる話は、、、大阪 住吉神社に参拝するために川を渡れなかった。そこで、大阪・佃田村(江戸時代初期の地図には佃田と表記されています)の漁民が川を渡る手助けをした、、、、。それにまつわる話も少々ついています。

しかし、それだけで、破格の扱いをされたのだろうか?

そこで、色々と調べると興味深いことが浮かび上がってきました。

二つのタイプの漁民がいた

幕府に許可された漁民

徳川に誘致ないし認可された漁民のことです。幕府は江戸の地元漁民を保護的にあつかったのですが、いかんせん漁業が未発達だったのです。生産力を増強したい幕府には、すすんだ関西漁業の力が必要でした。

それに応えたのが畿内、つまり関西の漁民たちです。その代表に摂州佃・大和田両村(現大阪市西淀川区)の漁民の江戸移住があります。かれらは徳川家との特殊な関係から、多大な保護・特権が与えられました。江戸前海の干潟を拝領して佃島と名づけたのです。

渓斎 英泉(けいさい えいせん) /東都 花暦 佃沖ノ白魚取

権力のバックを持たない漁民

もうひとつが権力をバックにもたない自由出漁の漁業者です。こちらは紀州方面から三浦半島、房総半島ヘイワシ漁のためにやってきた者が多かったのです。漁業がもともと移動性の強い海洋民によって広められたように、かれらの冒険的出漁は、関東に新しい漁法を伝えました。

三代目歌川広重/大日本物産図会 上総国(かずさのくに)九十九里鰮(いわし)漁之図

他に例を見ない特権

佃島の漁民は江戸内海一帯における漁業特権をもっていたばかりか、他に類をみない巨大生鮮市場日本橋魚河岸の創始者でもあるといいます。

日本橋魚河岸

つまり、江戸前漁業のなかでも際立って特異な存在でした。そこには徳川家との深い結びつきがあり、関西から江戸に渡った最初の漁業者となったのです。

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原因は家康・人生最大の危機!「伊賀越え」か?

本国である摂州佃・大和田両村が徳川と関係をもつのは、江戸開府以前の、家康が浜松在城の頃とされています。これについては、代々魚河岸会所につとめた川井家の六代目新之助の編纂した『日本橋魚市場沿革紀要』(日本橋魚会所・1889)に「魚問屋ノ起源」として記されているのです。

NHK大河ドラマ「どうする家康」(2023)でも、取り上げられていたらしいですね。このドラマは見ていないので、どのように取り上げたか興味あります。

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表向きのお話

「天正年中、恐れながら家康公御上洛の折、多田の御廟、住吉神社に参拝されたが、神崎川を渡る舟がなく難儀された。そのとき安藤対馬守が田村名主の見一孫右衛門に命じて、かれの支配する船で無事に川を渡ることができた。その際に孫右衛門の家に立ち寄りご休息なされたので、古来より所持していた「開運石”」を御覧に入れたところ、家康公はこの神石を拝することは開運の吉祥なり、と賞美し、差し上げた白湯を召し上がられた。そして屋敷内の大木の松三本を御覧になって木を三つ合わせれば森となる。今後は森孫右衛門と名乗るがよい、と仰せになり、孫右衛門はありがたく賜った……」

その真相は、、、

天正年間(1573〜92)に家康は三度京都におもむいています。

歌川広重 京都名所之内「四條河原夕涼」

多田神社(現兵庫県川西市)と住吉大社(現大阪市住吉区)へ立ち寄ったのは、天正10年(1582)の一回目の上洛の時です。このとき西国征伐のために織田信長が京都に滞在していました。

本能寺の変が勃発した!

住吉神社を参拝した家康が堺にいた6月2日に本能寺の変が起きます!

実は本能寺の変が起こったとき、有力大名のうちで徳川家康ほど困難な立場に陥った者も珍しいと言えるくらいに、危機にあいました。

楊斎延一 /「本能寺焼討之図」

家康の黒歴史「伊賀越え」

織田信長・信忠父子と明智光秀らの当事者を別とすれば、羽柴秀吉・神戸信孝・丹羽長秀・北畠 信雄・柴田勝家・滝川一益らは本拠地または出征先で大軍を率いていました。大軍の中、一応安全圏に居て、急には危難に遭遇する可能性がなかったのです。

がしかし、家康は、、、

家康は、事件突発時の六月一日夜は和泉、堺の客舎にいました。そして、事件の第一報を受けたのは河内飯盛山の麓に当たる高野街道の路上(現・大阪府四条畷市)です。そのとき、主従は本多忠勝・服部半蔵・武田氏の旧臣穴山梅雪等のわずか30人余りという少人数だったのです。

これは、上記、他の信長家臣たちの大軍の中ということとは大違いです。

権力の空白が生まれた

東は上野から西は秀吉の包囲する備中 高松城まで、巨大な織田領国が一瞬にして権力の空白地帯になりました。これは大変なことです。

つまり「無法状態」に陥るのと同じです。

つまり、家康は、本能寺の変直前まで、信長の強大な権力に支えられた領国内で、穴山梅雪を同道しての京・堺見物という物見遊山の旅をしていたのです。堺といえば、その当時ではディスニーランド的な貿易港でそれはそれは楽しかったと思います。

のどかですね。

大日本物産図会 泉州堺打物見世之図 三代歌川広重

この堺で、にわかに四面皆敵という困難に立ち至ったのです。

この急激な変化は、まるでシンデレラ姫の魔法が解けて、カボチャになったようなものです。つまりその魔法とは、信長が世に在る限りの庇護でした。権力による治安ですね。その魔法が信長が殺された途端、安全であるはずの旅が危ない地獄の道中になったのです。

落武者になってしまったら最後!

家康の命を狙っていたのは、予想される明智方の討手だけではありませんでした。

土民、土豪たちによる 落武者襲撃の慣行という、当時畿内近国で広くみられていた「落武者狩り」の脅威がありました。

落武者の主従一行を襲撃しても、その行為自体は咎められないという慣行なんです。

これは、すごいですよね。だから、落武者になったらもうおしまいなんです。落武者とは、戦乱において敗者として生き延び、逃亡する武士のことです。

戦国大名・戦国武将なる者は、つねに落武者になる可能性があります。ですから、いつも土民・土豪による襲撃の脅威にさらされていたということになります。

この慣行で最も有名な事件は、天正元年(1573年)7月、槙嶋城を退去した前将軍足利義昭が、山城富野(現・京都府城陽市)付近で土民らに身ぐるみ剥がれ、「貧乏公方」と嘲弄された事件です。命が助かってよかった!

他ならぬこの本能寺の変の当事者であった明智光秀は、山崎合戦で秀吉に敗れ、敗走の途中、山城小栗栖で土民の竹槍にかかって殺されています!

動画でもどうぞ

このような状況だったので、この本能寺の変の後に「落武者狩り」の非業に倒れた者も多かったのです。

伊賀を越えろ!

危険を察知した家康は堺を出発し、わずかな人数で伊賀の山中から伊勢にいたり、そこから船で三河へと渡る脱出行を試みたのです。これが、世にいう「伊賀越え」です。

堺から伊勢へ抜けろ!

家康にはお供として伊賀出身の服部半蔵がおり、甲賀者や半蔵が集めた伊賀者によって助けられたと言われています。このように、家康の一行は、彼らに守られ伊勢までたどりつきました。

服部半蔵

この「伊賀越え」以来、徳川家康は護衛にあたった彼らを召し抱え、甲賀・伊賀の忍者組織を手の内に入れたといわれています。

服部一族の伝承

●服部保次

中 生国伊賀。

永禄八年、はじめて大権現につかへたてまつる。(略)天正十年六月、大権現忍て御通りのとき、忠をつくし伊賀より三州にいたり供奉す。

時に鉄炮同心五十余人預けらる。同十五年四月十八日、遠州にをひて六十二歳にて死す。
法名長閑。

○服部貞信

別当 山城国宇治田原に居住す。

信長薨逝のとき、大権現泉州さかひより三州に御下向のとき、宇治田原山中の案内者となる。時に大権現これを感悦し給ひて、来國次の御脇指をたまふ。其後鈞命をうけたまハり大権現につかへたてまつる。慶長五年、七十歳にて死す。

「寛永諸家系図伝」より

伊勢から三河へ出でよ!

築地魚河岸が編纂した「魚河岸百年」(1968)の主要著者である三浦暁雄氏は、伊勢から三河までの船行を取り仕切ったのが森孫右衛門であるとしています。森孫右衛門率いる佃村の一党を武装した海賊衆と推定しています。

かれらは家康の命を救ったが、「伊賀越え」は徳川家の黒歴史として真相は伏せられました。

そこで三河船行の功績が神崎川渡船の話にすりかえられたのだといいます。つまり、「伊賀越え」の話は逃亡劇であり、あまりかっこいいものではない。家康的には伏せておきたい、それゆえに、「神崎川渡船」で世話になった大阪の佃田村漁民への感謝という話にすりかえたのです。

佃田漁民は水軍だった!?

先の「魚問屋ノ起源」には、森孫右衛門たちの徳川の軍事行動への参加を示唆する記述が続きます。

「……家康公が伏見在城の際には御膳魚の調達につとめ、瀬戸内海や西国の海路を徳川軍が隠密に往来するときには、孫右衛門へと命令が下り、その漁船でとどこおりなく通行させた。大坂冬の陣、夏の陣の戦役では、軍船を漁船に仕立て、海辺の状況を毎日本陣へと注進した……」


中世の水軍/これをどのように漁船に見立てるのでしょうか。

瀬戸内海や九州地方は、「海の領主」たちの支配する海域であり、安全航行には海の勢力と何らか結びつかなければなりませんでした。それに「軍船を漁船に仕立て」とはどういうことなんでしょう。西日本の海に武装船を操るかれらは、中世水軍の姿そのものに投影されます。

水産ジャーナリストの岡本信男氏は、「日本橋魚市場の歴史」(水産社/1985)のなかで、孫右衛門の最大の軍功を大坂冬の陣における「野田の海戦」にあったとしています。孫右衛門一党は、九鬼守隆指揮する九鬼水軍の後衛として、諜報活動のみならず、ときに命がけの任務も遂行したということです。

九鬼守隆は鳥羽藩の初代藩主として5万6000石を領しました。九鬼水軍を率いて大坂の陣を戦い、江戸城の築城時は木材や石材を海上輸送して江戸幕府に協力したといいます。

その九鬼水軍に対する論功行賞として得たのが、佃島漁民の江戸内海における漁業の特権だったのです。

九鬼水軍の図

九鬼守隆

志摩地方を統一し、水軍を指揮して信長・秀吉に仕えた九鬼嘉隆は、天正6年(1587)に鳥羽を本拠に志摩・伊勢で三万五千石の知行地を与えられました。次いで、慶長2年(1597)、嘉隆の隠居により子守隆が三万石を継承しました。そして、関ケ原の戦いでは親子がそれぞれ東軍・西軍に分かれ戦い、家康に認められた守隆は、1609年に関ケ原合戦の功績による二万石の加増と嘉隆の隠居料五千石を合わせて五万五千石を領することになりました。さらに、元和元年(1615)には大坂の陣の功績などによって一千石の加増を受けて、都合五万六千石の大名となったのです。

太平の世になり

これだけの結びつきの家康と佃田村漁民です。戦乱から太平の世になり、以下のようなやりとりがあったことは想像できます。

家康「所望するものを何なりと申せ。そちには世話になったからのお。この家康はこの恩を決して忘れんぞ!」

孫右衛門「はは〜。畏れ多くも殿に申し上げます。ぜひとも江戸に出とうござります。末長くお殿様にお仕えしとうございます。」

家康「そうか、ならば心配は無用。そなた衆に東国、いや全国の漁の権利を与えようぞ。」

孫右衛門「はは〜、有り難き仕合せでござります。」

次回に続く、、、

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