旧佃島に行き散策しました。旧佃島は、東京都中央区南東部、隅田(すみだ)川左岸にある旧地区名です。
今はその地は島ではありません。
旧佃島に行って、江戸時代から伝わる佃煮を買ってきました。
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佃という地名
佃島といっても現在は島ではありません。 その上、江戸時代以前も島ではなかったのですよ。今の向島あたりも含め、広大な入江だったのです。
佃と呼ばれるこの辺りは、江戸時代に人工の小島を作った場所なのです。
これは江戸時代の地図です。佃島と石川島が見えますね。佃島に赤い丸印をつけておきました。見えるでしょうか。
それでは、家康の江戸入城以前の様子を見てみましょう。
銀座が島になっている!
15世紀半ば、太田道灌(1432〜86)は、武蔵野台地の先端に居城を構えました。道灌の生きた時代は戦乱の時代で、房総の千葉氏を抑え込むために江東デルタ地帯を前にした江戸に居城を築城する必要があったのです。
このように江戸前島があり、現在の銀座は昔の江戸前島の中にあることになります!
湊と城の融合は城下町の繁栄を安定的にさせますね。
道灌が江戸城を築いた後の江戸の発展はめざましく、平川河口には諸国から商船や漁船が出入りし、鎌倉街道から商人が集まって毎日市が立ち、品川や浅草には社寺が建立され、人家が密集していたともいわているのですよ。
地名の由来
佃の地名の由来は、寛永年間(1624年~1644年)に摂津国(大阪)西成郡佃村の漁民たちを招いて、隅田川河口の干潟を埋め立て小島に住まわせたことから来ています。
関西からの由来なんですね。
隅田川河口の百間四方の干潟を摂津国から呼び寄せた漁民に与え、正保元年(1644年)に土地の造成が終わり、30余りの漁師世帯が住み始めたのです。
もとは大阪から
天正年間(1580年代)に徳川家康が上洛した時、多田神社(現在兵庫県川西市)や、住吉神社に参拝しました。その時に、摂津国西成郡佃村(現在の大阪の佃)と大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康の一行を運んだのです。
つまり家康のお世話をしたのですね。
現在の大阪の佃 神崎川も見えますね
スパイ活動
そして、その漁民たちは家康に白魚(シラウオ)などを献上しました。これが佃および大和田村の漁民と家康との関係の始まりです。
そして、慶長年間(1596〜1615)、徳川家康の江戸入府にあたり、摂津国西成郡佃村・大和田村(現 大阪府大阪市西淀川区)の名主森孫右衛門一族7名と漁民33名が江戸にくだってきたのです。
家康は佃漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えたといいます。
これは具体的には、1613年に佃漁民に与えたれた「浅草川と稲毛側を除く全国のどこでも漁をしてもよい」という漁業特権のことです。それは1614年から始まる大坂の陣で佃村の漁師が海上隠密活動をしやすいようにするためだったとの説があるのですよ。
とここまで書いて、、、「隠密」!?って思いました。つまり、スパイですよね。ということは、現在代々いらっしゃる元佃島の住民は、元漁民でもあり、元スパイでもあったわけですね!
江戸漁民の漁法は進んでいなかった
佃村の漁師が大阪から江戸に招かれた理由は、大阪湾沿岸や伊勢湾沿岸の優れた漁法を江戸に取りいれるためであったと考えられています。江戸の人口が急増するにつれ、それまでの江戸漁民の漁法による水揚げ量では江戸の食需要を支えきれなくなってきたのです。そのため、摂津佃村の漁師など優れた漁法を持った漁師たちが江戸に呼び寄せられたのです。
ということは、もともと江戸に住んでいた江戸漁民の漁法は、関西のものに比べると進んでいなかったのですね。
江戸時代になると、大阪佃の漁民は毎年11月から翌年3月まで江戸に滞在して、将軍家に白魚(シラウオ)を献上するようになりました。
佃島の漁師たちは白魚漁の特権を与えられ、江戸で漁を行いました。ちなみに、佃島の漁師たちが将軍に献上した魚の残りを販売したことが、日本橋魚河岸の起こりともいわれているのですよ。
「江戸名所図会1巻」より「佃島 白魚網」斎藤長秋編 長谷川雪旦画 天保5〜7(1834〜36)
大阪と江戸の往復は大変だ!
しかし、この大阪と江戸との往復が大変だったのです。それゆえに、佃漁民は江戸に住みたいと幕府に申し出たのです。
これはわかりますよね。秋から春にかけてだけ江戸に来いと言われても、、、。今と違い、交通機関も違うし、住環境も違うのでそれは大変でしょう。
佃島の誕生
幕府はその佃漁民の申し出を受けて、江戸鉄砲洲の百間(約180m)四方の干潟を漁民に与えました。
そして、1645年に佃村と大和田村の漁民たちが江戸に移住したのです。
江戸の土地は故郷の名前をとって「佃島」と名付けられました。それは、現在は東京都中央区佃となっています。
住吉神社があるところが佃です。旧佃島ですね。
佃島の白魚(シラウオ)
佃島の白魚(シラウオ)は有名でした。白魚(シラウオ)とは、シラウオ科の魚です。
白魚(シラウオ)は江戸っ子になじみの深い魚です。川柳にもよくうたわれました。
春の吸物品川と佃島
夜や寒き白魚に出る佃島
白魚のかがりちよぼちよぼ沖に見え
白魚の名所一とちよぼ島篝(かがり)
白魚に佃の手紙ぬれて来ル
徳川家康がこの魚を大変好んだという記録があります。白魚(シラウオ)は透き通って見えるために、脳の形が三葉葵(徳川家の家紋)に見立てられ、徳川家では大変珍重されたそうですよ。
御止魚(おとめうお)
幕府は、白魚(シラウオ)を御止魚(おとめうお)としました。つまり「献上魚するもの以外は獲っていけない」と命じたのですね。
漁は夜間に行われました。佃島の漁民は、舟の舳先(へさき)に「御本丸」などと書いた高張提灯(たかばりちょうちん)を掲げました。そして、篝火を焚き、他の漁舟を蹴散らしたそうです。
「どけ、どけ〜!将軍様のための漁だぞ!」という感じでしょうか。
さらに、獲れたシラウオは葵の御紋の白魚献上箱に納め、天下御免と江戸城に駆け上がったのです。
運搬は「通行構いなし」の、大名行列よりも優先されたといいます。つまり、大名行列を横切ることさえできたのです。
水揚げされた白魚(シラウオ)は漁が終わった早朝に江戸城へ運ばれたそうですよ。幕府の賄所には白魚係さえありました。
白魚献上箱
白魚献上箱は、佃島の漁民が将軍の食膳用として、江戸城本丸へ献上する白魚(シラウオ)を運んだ箱です。朱漆塗の内箱を、黒漆塗の挟み箱に入れて、棒を通して担ぎました。
佃島の漁民がこの箱を担ぎ、大名行列さえもさえぎって、真っ先に江戸城に白魚(シラウオ)を届けた様子、想像するととても興味深いです。
大江戸線「月島」で降りる
月島は明治時代佃島周辺を埋め立てたところです。
月島といえば、「もんじゃ」が有名な下町ですね。月島の歴史はそんなに古くありません。明治25年(1892年)当時、江戸・東京の水上交通の大動脈であった隅田川の下流に土砂がたまってしまいました。その土で埋め立てられた時に初めて生まれた町が月島なのです。
大江戸線は深いところ!?
月島には「大江戸線」を使って行きました。大江戸線は全線が地下区間、しかも深いことから「ゆめもぐら」なんていう路線名も一時は候補となっていたのですよ。通常、大江戸線は新しい線なのでとても深く、ホームから改札階にいくには階段をたくさん登ることになります。
でも、月島駅のホームは地下1階の改札階の真下です。つまり、ホームから改札階まですぐに上がれるのです。しかも、東京メトロ有楽町線の月島駅は大江戸線よりずっと深いのです。思っていたのと反対です。
これは、月島駅では大江戸線が先に計画されており、有楽町線が後から計画されたからなんですね。
ちょっと不思議な地下鉄「月島駅」でした。
佃方面6番出口を目指します。
佃側へのエレベーターに乗ります。ちゃんと「佃」という地名が残っているのが嬉しいですね。昨今、各地で地名を変更することが多く、歴史感が薄くなると感じています。
地下鉄を出ると、いきなり近代的な大きな道路と橋が見えます。 「佃大橋」です。
佃大橋は都道新富晴海線が隅田川を渡る橋で、東京オリンピックに向けて晴海通りなどの渋滞を緩和するために昭和39年に架けられました。 高度成長期の日本を象徴するようなシンプルな箱桁橋ですね。
佃大橋ができるまでは、「佃の渡し」がありました。船で渡していたのですね。
昭和初期の佃の渡し
佃を歩く
佃天台地蔵尊
狭い路地に「佃天台地蔵尊」が見えました。
江戸時代から伝わる地蔵尊です。人一人がやっと通れる路地を通ってお参りできます。
佃浪除(つくだなみよけ)稲荷神社
旧佃島の佃大橋近くに鎮座している小さな稲荷神社です。創建年代は不明の様ですね。
佃小橋
住吉神社
天正年間(1573– 1592年)、徳川家康が上洛し、摂津国西成郡佃村(現・大阪市西淀川区佃)にある住吉神社(改称の経緯:田蓑神社→田蓑姫神社→住吉神社→田蓑神社)に参詣した際、佃村および近隣の大和田村(現在の西淀川区大和田付近)の漁民が神崎川に渡し船を出して家康一行を運び、白魚などを献上した。これを機縁として、以後、両村の漁民は家康から西国海上隠密の用を受けたり、大坂の陣の際には軍船や魚の調達をするなどした。また、家康は両村の漁民に対し、恩賞として全国での漁業権を与えた。
天正18年8月1日(1590年8月30日)、徳川家康が関東下降の際、先述の佃村および大和田村の漁夫33人と神主・平岡権大夫好次が江戸に移り、正保2年(1645年)には江戸鉄砲洲向かいにある百間(約180m)四方の干潟を幕府から下賜された漁夫らがこれを埋め立てて築島し、永住することになった。この島を故郷の摂津国佃村にちなんで「佃」(島は「佃嶋」、村は「佃村」)と命名し、正保3年6月29日(1646年8月10日)には、息長足姫命(神功皇后)と東照御親命(徳川家康の霊)の分霊を奉遷し、摂津国佃の住吉社(現・田蓑神社)の分霊(住吉三神)とともに祀るべく、住吉神社が創建された。
「此の場所には、江戸時代後期寛政拾年(1798年)徳川幕府より建立を許された大幟の柱・抱が埋設されておりますので立ち入ったり掘り起こしたりしないでください。佃住吉講」
三年に一度の本祭で立てられる、広重が描いたような大幟の「柱」とそれを支える「抱木(だき)」が、水中にタイムカプセルのように埋められているといるのです。すごいですね!
生活に欠かせない真水
佃は以前、佃島という島だったのはもうお分かりだと思います。しかし、村の維持に欠かせない真水はどうやって手に入ったのでしょうか。
それは井戸です。
江戸の本郷台地は「お茶の水」とも言われています。お茶を立てるのに適した良質な水が得られることで知られていたのです。その地下水脈は二つに分かれているのですよ。
一つは銀座方面へ。昔、銀座は井戸水を利用していました。
そして、この佃島です。佃島には水脈が来ていたのです。今でも、佃の井戸は現役で働いています。ここに来る前に、このことを地質学の本で読んだのですが、実際に井戸をみて「あった!」と感動しました。
干潟を埋め立てて人工島にした、その場所に水脈が通っているのです。佃では、今も変わらぬ地下水を利用しています。
佃煮を買いに行こう!
佃は佃煮で有名です。 これは大阪佃から移り住んできた人々により伝えられました。
江戸に移った彼らは住吉明神を住吉神社として分霊したが、その祭礼では雑魚を煮詰めたものを供えていた(醬油煮説と塩煮説がある)。これは自家用に小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としたもので悪天候時の食料や出漁時の船内食とするためのものであったが、雑魚がたくさん取れてこの佃煮が大量に作られるようになると彼らは浪花っ子気質を発揮してこれを売り出すようになったといわれ、佃煮はその保存性の高さと価格の安さから江戸庶民に普及していったとされる。
「天安」に行った
佃には佃煮のお店が数軒あるのですが、その中で「天安」というお店に行きました。
昭和39年まで運航されていたという佃島渡船の旧渡船船着場の近くにお店はあります。
「天安」は、天保8年(1837年)に創業された老舗です。天保8年と言えば徳川家慶(いえよし)が第12代将軍になった年です。古いお店ですね!
お店の間口は広くはありません。しかし、奥行きのある2階建ての歴史を感じさせる建物です。
中にはさまざまな種類の佃煮があって、いい香りがしますよ。
昔ながらの座敷で店員さんは働いてらっしゃいます。
アサリときゃらぶきを買いました。
- アサリ:100g 740円(税込)
- きゃらぶき:100g 380円(税込)
パッケージも味がありますね。
古い「天安」の写真を見つけました。
佃煮を食べてみた!
アサリの佃煮
器は有田焼です。
アサリの佃煮は生姜などがきいていて、食べやすいです。固さは全くありません。甘辛の味でご飯がすすみそうです。
きゃらぶきの佃煮
器は、志野焼です。
これはシャキシャキして歯応えあります。僕は大好きでした。
佃煮は、ご飯に合いますね!
以上、旧佃島に行って、佃煮を買って食べた話でした。旧跡を見ることもでき、大変楽しく感じました。