江戸の四大食といわれた料理は蕎麦、寿司、天ぷら、そして鰻(うなぎ)です。 宝暦年間(1751~1763年)には鰻のことを「江戸前」と呼ぶようになりました。鰻(うなぎ)料理から始まった食文化もあります。
大野麦風「うなぎ」
Contents
和食の代表の一つ「鰻の蒲焼」
室町時代の食べ方
実は鰻の蒲焼は、上方発祥なのです。室町時代に山城国宇治で鰻をあぶって食べたのが、蒲焼の始まりです。しかし、この時代のものは、ちょっと後世の蒲焼とはちがいます。以下のような作り方でした。
- 鰻を焼く
- 鰻を酒と塩に一晩漬ける
- その鰻を寿司のようなものにして食べる
後に、作り方が変わります。
上方の鰻の蒲焼
- 鰻を腹から割く
- 頭と尾をつけたまま鉄串を3〜5本横に刺す
- 醤油にもろみ酒を加えたもので付け焼きする
- 最後に頭と尾を落とす
- 串を抜き切る
- 山椒を添えて客に出す
これが上方の鰻の料理です。
江戸に伝わると変化する
鰻の蒲焼は江戸に入るとさらに変化します。
- 鰻を目打ちして固定する
- 鰻を背から割く
- 背骨、はらわた、頭と尾をとる
- 洗ってヌメリを落とす
- 一切れに串を4本打つ
- 直火を避けて白焼にする
- 蒸す
- タレに浸しながら仕上げの焼きを入れる
近世職人尽絵詞 うなぎ屋
上方との違いは、焼く前に蒸して余分な脂を落とすことですね。
「江戸前」という言葉
「江戸前」という言葉はよく聞かれます。これは、鰻の呼び方から始まったのです。鰻の名産地は深川です。深川は隅田川の向こう側です。その昔、川向こうは「江戸の前」ということで、深川産の鰻を「江戸前」と呼ぶようになり、最上級とされました。
ウィキペディアよりいわゆる「深川」と呼ばれる広域地域(深川区全域)は、慶長の初期 (1596~1614)、江戸がまだ町造りを始めたばかりの頃、摂津国(現:大阪府)から移住してきた深川八郎右衛門が小名木川北岸一帯の開拓を行い、その深川の苗字を村名とし、これがこの地一帯を呼ぶ名称となった。江戸初期には漁師町だったが、明暦の大火 (1657) 以降に開発され、万治2年 (1659) に両国橋が架けられたことで急速に都市化し、永代寺(現:江東区富岡)の門前は料理屋や屋台の並ぶ繁華街になり、やがて岡場所が出来、信仰と行楽の場所として多くの人々が訪れる地域となった。
(歌川国芳「東都宮戸川之図)宮戸川は隅田川の別称。鰻掻きで鰻を獲る様子が描かれています。
やがて、鰻だけでなく、江戸の前の海で獲れた魚や貝類を、同じように「江戸前」と呼ぶようになりました。
深川には、文政年間(1818〜1830)に鰻蒲焼の店が22軒もあったといいます。
蒲焼の値段は
- 高級な蒲焼 一皿二百紋(約5千円)
- 安いもの 一皿百七十二文(約4300円)
- 屋台の辻売り 一串十六文(約400円)
庶民はよく屋台のものを食べました。
丼もの第一号は「鰻丼」
「鰻飯」と言って今の鰻丼と同じものがよく売られるようになりました。これは、文化年間(1804 〜1818)に流行します。
この「鰻飯」の値段は百文(約2500円)から二百文(約5000円)でした。丼ものの第一号は、この「鰻飯」つまり鰻丼だったのです。
鰻飯を作った人
文化年間に、江戸境町(中央区日本橋人形町)の芝居小屋の興行主、大久保今助が考え出したと伝えられています。今助は大変な鰻好きでした。しかし、忙しくて時間をかけて食べに出れません。そこで、「これなら芝居を見ながら食べれる!」と、鰻飯(鰻丼)を考えました。
江戸時代後期名店の数々
これらは「守貞漫稿」に書かれている名店です。
- 深川屋(神田)
- 岡本(茅場町)
- 大黒屋(霊岸島)
- 大金(浮世小路)
- 大和田(親父橋)
- 和田平(田所町)
- 椎木(神田明神前)
- 尾張屋(尾張町)
- 狐うなぎ(広尾)
- すざき屋(向両国)
- 奴(田原町)
- 喜多川(尾張町)
これらの高級店は「鰻飯」をあつかわなかったことが多いです。気取った鰻屋では、「鰻飯」を食べる客を喜びませんでした。「丼もの」は下司(心根の卑しいこと/下劣なこと/また、そのようなさまやその人)の食い物という解釈です。
この「鰻飯」が老舗のメニューに加わるのはやっと明治になってからのことなのです。それでも、「鰻飯」を注文する客は二階にあげないなど区別したようです。「鰻飯」には一段品質が落ちる鰻を提供し、その客には料理場の横で食べさせるなど、今考えるとひどい扱いをしていたのです。
料理に時間がかかる鰻
文化年間(1804〜1830)の頃には、鰻屋の隣に必ず風呂屋がありました。鰻を焼いている間に、一風呂という算段ですね。風呂のあと、浴衣に着替えて涼んでいるところに鰻が提供されるという風情でした。
「割り箸」は鰻料理から始まった
今も外食でよく使われる割り箸。これは江戸の鰻屋が考案しました。当初は「引割箸」と呼ばれました。そして、「鰻飯」に添えて出していたのです。その後、この「引割箸」は京都や大阪にも広まっていきます。
それ以前は竹箸などを使い、洗って何度も使っていました。割箸は二度の利用ができません。その清潔感が庶民に好かれ評判になったのです。
「守貞漫稿」には以下のように書かれています。
「必ず引割箸を添ふるなり。この箸、文政以来此より、三都ともに始め用ふ。杉の角箸半を割りたり。食するに臨んで裂き分けて、これを用ふ。これ再用せず。浄きを証すなり。しかれどもこの箸、また箸工に返し、丸箸に削ると云うなり。鰻飯のみなにあらず、三都諸食店往々これを用ふ。かへつて名ある借食店には用ひず。これ元より浄きが故なり。」
鰻は脂が多いですよね。その脂とタレの染みたご飯を一緒に食べる「鰻飯」では、箸にべたっと黒くタレがついて簡単に洗い落せません。「使い捨ての方が綺麗だ!」と広まったのですね。
それでも高級店では割箸は使わない
食器にも贅を尽くす高級店では割箸は使わなかったみたいです。
そもそも下司の食べ物「鰻飯」なんか出しませんからね。
今も良くみられる、割り箸を出す店は安い店という分け方は当時からあったのですね。
商品券は鰻に始まった
「うなぎ切手」という商品券がありました。先に代金を払っておき、受取書付に代金を書いておいておく。これを贈答として使うわけです。受け取った相手は、好きな時に「鰻券」として蒲焼を食べられるわけです。
テイクアウトも鰻から
江戸後期の儒学者、海保青陵が面白いものを発案します。
- おからを煎る
- 薄く醤油で味付けし、熱くしたおからを重箱につめる
- その上に蒲焼を入れる
- それを自分のところに取り寄せる
これは「おから鰻」と呼ばれ、鰻は食べたいけれども、どうしても店にいけない、または、身分をはばかって鰻屋に行けない人向けに最適なものでした。
このように江戸の外食文化に「鰻」は欠かせないものだったのです。