日本で初めて新しい箸食制度を、朝廷の供宴(饗宴)儀式で採用したのは聖徳太子といわれています。
聖徳太子/左に弟の 殖栗皇子 (生没年不明)、右に長男の 山背大兄王 (?~643)を描いたとされる
供宴(饗宴)儀式とは、客人をもてなすための宴です。
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箸文化に触れた遣隋使
推古天皇15 (607)年、小野妹子を中国 (隋)に派遣し (遣隋使)、一行は箸と匙をセットした食事作法によって盛んな歓待を受けました。翌年の推古天皇16(608)年妹子は隋使ら12人と一緒に帰国しました。
600年(推古8年) – 618年(推古26年)の18年間に3回から5回派遣されている。608年の遣隋使で天皇という君主号が使われたと『日本書紀』は記すが、懐疑的な意見が多い。なお、日本という名称が使用されたのは702年の遣唐使からである。
上記を踏まえると、第2回遣隋使の後にお箸の匙をセットとした宴により歓迎されたということですね。
ということは、推古天皇16 (608)年がお箸を使った食事の始まりと考えられます。
小野妹子の使節団が訪れる7年前の600年(推古天皇8年)、すでに隋に1回目の遣隋使が送られています。この時、文帝から日本の様子を聞かれた際に使者が明確な返答ができなかったと言われており、そのことに文帝は呆れ、日本は「野蛮で未開な国」という印象を持ったとされます。
遣隋使とは
中国大陸においては,589年隋が南北朝を統一して強力な集権国家となりました。
隋帝国〔煬帝時の領土〕と周辺国
この時期、聖徳太子は、推古天皇の摂政となりました。聖徳太子は国内政治を改めるとともに、中国および半島に対する外交関係を一新しようとしたのです。
遣隋使派遣の目的は主として中国文化の摂取です。これによって従来朝鮮半島を介して輸入されていた大陸文化が日本に流入することになりました。実際に、遣隋使に同行した留学生の高向玄理や僧旻らが、隋から唐への権力交替と、隋唐の律令を目のあたりにして、帰国後、日本の大化の改新など、中央集権国家の建設に大きな役割を果たしています。
「日本書紀」には、607年(推古15,大業3)、小野妹子(いもこ)、鞍作福利(くらつくりのふくり)らをつかわしたことが書かれています。
小野妹子の「子」とは
当時は、男性で名前に「子」を付ける慣習があったようですよ。
孔子、孟子等、中国からの影響が大きいようです。「子」は男という意味です。現在良く使われる名前の「○男」「○夫」「○雄」と、同じ使われ方なのですね。学校の日本史の授業で学ぶ男性で名前に「子」の付く人物といえば、蘇我馬子(そがのうまこ)、中臣鎌子(なかとみのかまこ)=藤原鎌足などですね。
現在でも、「帰国子女」という言い方をしますが、この場合の「子」は男子生徒、「女」は女子生徒という意味です。ということは僅かながら、飛鳥時代の言葉の意味が、現在まで継承されていると言えます。
小野妹子の肖像
有名な話
「隋書」には、遣隋使が「日出処の天子書を日没する処の天子に致す 恙なきや」の国書をたずさえて行き、煬帝(ようだい)の怒りを買ったと書かれているのは有名ですね。
隋はアジア諸国との外交においては、皇帝に貢物(みつぎもの)をして返礼を受けるというやり方をしていました。これを「朝貢外交」(ちょうこうがいこう)と言います。それに対して聖徳太子は、あくまで隋と対等の立場での外交を目指したのです。
以下、「隋書」倭国伝の大業(煬帝の治世)三年記事より
大業三年(607)、其の王多利思比孤、使を遣わして朝貢す。使者曰く、「聞く、海西の菩薩 天子、重ねて仏法を興すと。故に遣わして朝拝せしめ、兼ねて沙門数十人、来って仏法を学 ばしむ」と。其の国書に曰く、「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無き や、云云」と。帝、之を覧て悦ばず。鴻臚卿に謂て曰く、「蛮夷の書、無礼なる者有り、復 た以て聞する勿れ」と。
自称天子!?
その表れと言えるのが、文面にある「天子」という言葉。
「日出処の天子書を日没する処の天子に致す 恙なきや」
天子、これは隋の皇帝だけが使うことを許された言葉でしたから、日本人(倭人)が勝手に天子と名乗ったことに煬帝は激怒したのですね。
何!?恙(つつが)無きや?
「恙無い」とは、問題がなく物事がうまく行っている様子を表します。このことから、病気をもたらすダニの一種「ツツガムシ」の 名前の由来にもなりました。 事故や災難などの「つつが」がないことを 喜ぶ気持ちが込められているのですね。
しかし!、、、
本来は上位の者が下位の者に使う辞なんです。東夷(東方に住む未開人)が天子に「恙なきや」?と隋の煬帝は怒りを覚えたわけですね。
「致す」とはなんぞや!?
書を日没する処の天子に致す
この「致す」もまた問題です。これはこの時代、対等の関係であるからこそ使える表現なのです。
習ったことと違う!?
僕は若い時に学校の歴史の授業で違うことを習いました。
日出処の天子⇔日没する処の天子 日本は日の出てくる発展する国で、隋は陽が沈む没落していく国 という表現なので、煬帝は怒った、というストーリーです。
実は、最近の研究からこの日出処、日没する、は単に「東」と「西」という意味だということになっています。
箸文化の輸入
第2回遣隋使の派遣の後、急いで妹子らが受けた中国の食事作法をまねて、宮中で初めて正式な箸食作法による歓迎の宴が催されました。
この時、日本では食事は手食方法であったようです。絵は現代風ですが、こういう感じでしょうか。
このようにして、中国の新しい箸食制度は、推古16年の隋使の来日をきっかけとして、まず宮中の儀式や供宴の中で採用され、日本の箸食制度が始まりました。
古くは手で食べていた(弥生時代)
魏志倭人伝には倭人の食生活について書いてあります。「倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる」「飲食には高坏を用い、手づかみで食べる」「人々は生来酒が好きである」と書かれているのですね。日本では弥生時代のことですね。
魏志倭人伝というものはない!?
「魏志倭人伝」という書物は実は存在しないのです。「魏志倭人伝」と呼ばれているのは実際には三国志の一部です。
中国の歴史書「三国志」中の「魏書」第30巻 烏丸鮮卑東夷伝 ( うがんせんびとういでん ) 倭人条の略称なのです。
飛鳥板葺宮跡での発掘
大化の改新(645年)が行われた、飛鳥板葺宮跡での発掘によって、長さ約30〜33センチ、径0.5〜1.0センチの箸が発見されました。それは、全体を粗く削って形づくり、さらに両端または一端を細く削ったもので、材質は檜(ひのき)のものがみられます。しかし、これは祭祀用か儀式用のものではないかと考えられています。
飛鳥板葺宮跡(あすかのいたぶきのみやあと)
1959年(昭和34年)からの飛鳥宮の発掘調査により、多くの掘立柱建物、掘立柱塀、石組溝、石敷遺構などが検出されました。
その遺構の変遷は、大きく三時期に分類されます。
それぞれは以下のように分類できます。
- 飛鳥岡本宮(あすかのおかもとのみや)
- 飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)
- 後飛鳥岡本宮(のちのあすかのおかもとのみや)・飛鳥浄御原宮(あすかのきよみはらのみや、あすかきよみがはらのみや)
これらは支配体制の変革や王権の存在形態、その歴史的変遷を考えるうえで重要です。平成28年に、名称が「伝飛鳥板蓋宮跡」から「飛鳥宮跡」に改められました。
飛鳥宮跡 石敷井戸
壬申の乱(672年)以後
さらに、壬申の乱(672年)以後は、宮中の儀式にとどまらず、宮中で働く一般の役人にも箸食制度が適用されるようになっています。
壬申の乱は、天武天皇元(672)年に天智天皇の後継をめぐって弟・大海人皇子と息子・大友皇子により、今の奈良県、三重県、岐阜県、滋賀県などの広域を舞台に展開された古代史上最大の戦乱です。
昭和42(1967)年には、藤原宮遺跡(694年)からは、箸と匙が出土し、この箸は檜(ひのき)で、長さは約15〜22センチ、径0.4〜0.7センチで先端が削られており、匙も材質は檜(ひのき)です。長さ16センチで、頭部は浅いくぼみが作られ、柄が削り出されています。
この箸は、藤原宮を造営した材料の檜(ひのき)の余材を使って作られており、藤原宮で働く多くの人に支給されています。このことから、藤原橋には檜(ひのき)が使われていたと知り驚きました。
これは、現状の木材利用システムでは捨てられるはずの木材が、割箸という形で、むしろ有効活用されていることに通じますね。
しかし、藤原京も約20(686〜707)年で終り、このせっかくの箸食制度も、本格化しないままに終ったそうです。
奈良の都で生活革命を起こした箸
次の8世紀の初め、奈良の都・平城京造営の中で、箸食制度も本格的にすすめられます。
従来の生活習慣であった手食から箸食へと、生活革命が行なわれました(多くは手で食べていたのですね)。そして、箸は新しい文化のシンボルとして、日本人の食卓に登場することになったのです。
平城宮跡(710~784)では、内裏のごみ捨て穴から多くの箸が発見されました。
このときの箸は、粗削りです。長さは、約13〜26センチ、径0.5センチ(完全な形の302本を測ったそうです)、中ほどは太く両端を細く丸く削った、いわゆる「両口箸」と、先端を細く削った「片口箸」それからも先端も同型の「寸胴箸」の3種があります。
さらに、代表的な寺院においても、箸食制度は積極的に取り入れられました。
奈良時代から平安時代にかけての寺院の資材帖には、金・銀・鉄・白銀の金属製箸や、数多くの箸竹・筋竹が調達されたことが記録されています。(箸竹・筋竹とは、折箸や二本箸の材料にする竹の呼名です)箸竹とは細く削った一本の竹を中央で折り曲げたものです。
平安時代/箸が庶民に広がったか
庶民に普及したのは、平安時代、貞観(じょうがん)(859-877)のころ京都御所の東門付近に宮殿の廃材を利用した箸を販売する店を開いた「白箸の翁」が現れてから、と言い伝えられています。
廃材を利用した、というのがとても興味深いですね。
名と姓、出身地は不明。 通称は貞観末、京都で白い箸が売られた事による。 彼は白くて柔らかい髪をしていて、服や靴を片付けず、いつも古くて黒いひとを着ており、冬と夏に着替えることは無かったとされる。 市内の80歳の男性が「わたしは子供の時から翁を知っている。その服装や容貌が今と変わらない。」と語った。 人から食料をもらったときは、量を聞かずに満腹になって酔い始めるまで食べ続けていたという。
時々数日間食べたり飲んだりせず、空腹の顔色はない。 利己的で謙虚で、感情的に不安定だったという。 その後、彼は街の門で病気で亡くなったとされる。 市内の人々は老人を憐れみ、東河の東側に遺体を埋めた。 20年後、法華経の僧侶が南山石室で老人を見て「お元気でしょうか」と尋ねると、笑ったが答えなかった。 白箸翁が行った事を聞いた人は皆、この奇妙なことに感動したと言われている。
箸を使った食生活の推移(諸説あります)
B.C. 600年ごろ
中国では今日とほぼ同じような形の箸と匙による食事の形態が完成
日本では狩猟・漁撈時代 調理と食事は兼用だった
B.C. 400年ごろ
稲作が日本に広く伝わる 水田稲作農業の発達により、自然食から解放される
農業を主とする経済生活が始まる
3世紀後半
魏志倭人伝(通称/詳しくは前述を読んでください)には倭人の食生活について「倭の地は暖かく、冬も夏も生野菜を食べる」「飲食には高坏を用い、手づかみで食べる」「人々は生来酒が好きである」と書かれています
4世紀ごろ
細く削った竹製でピンセット様の箸があっのではないかと推定される。これを我が国最古の箸であるとする説がある
608年(推古天皇16年)
聖徳太子が日本で初めて新しい箸食制度を、朝廷の供宴(饗宴)儀式で採用した
712年
「古事記」に「出雲国の肥の河上、名は鳥髪という地に降りたまひき、この時箸その河より流れ下りき」とある。この箸は、「箸」と一瞥できるものであることから、二つ折りのピンセット型と考えられる
奈良時代
昭和38年、16〜22㎝くらいのものが何百膳と固まって出土する
正倉院に銅鋳造のさじが所蔵 丸さじ、長さじを一組として、10組を麻縄でくくったもの18組、計345 丸さじは約6㎝ 長さじは約19㎝
762年(天平宝字6年)
石山寺を造った後、写経が行われた時、竹箸を4束買ったという記述がある
奈良時代中期
銀箸 今日の利休箸とほぼ同形で、断面は丸く、銀に金メッキがほどこされている
「鉗(かん)」と呼ばれる鉄製でピンセットのような箸があった
奈良時代後期
宮廷儀式用に、竹箸が使用された
平安時代初期
箸をまじない用として一般庶民が使っていた
白箸翁/宮殿の廃材を払い下げてもらい、削って箸として街を商って歩いていたといわれる人物がいた 京の人々はこれも神棚に祭り難を逃れるまじないとした
藤原時代
晴れた時には銀器、銀箸、銀匙を馬頭盤の上にそろえ、祝った
鎌倉時代
木製の匙が使われる 根来塗の箸が発見される
室町時代
京都・八坂神社のおけら祭に、箸の削りかすが用いられ始めた この行事は今日まで伝えられているらしい
江戸時代
江戸の日本橋北一丁目に、白箸屋新九郎が箸屋を開く
京都では、近江の箸商人が一条新町において、御所の天皇の箸のお世話をする
塗り箸が江戸中期以降普及する 朱塗と黒塗があった
貞丈雑記(ていじょうざっき)/伊勢貞丈の手による礼法書、紙の使用法、書に対する礼儀を説く、中に、忌み箸に関する記述がある
ヨーロッパでは、今日とほぼ同形のスプーン・フォーク・ナイフによる食事形態が完成する
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以上、日本における箸の歴史の話題でした。