エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|62「一生の友ミッチ」

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「ワオ! 本当に難しいプログラムだね。シンヤのことを本当に誇りに思うよ」。「次はリストのダンテ交響曲を演奏するよ」と書いたメールへの返事だ。送り主はアメリカに住んでいる大好きな友人、ミヒャエル・スターマン。通称ミッチ。

彼とは留学時代フィラデルフィアで知り合った。

たまたま行った音楽大学生の演奏会で隣に座った。「僕はミッチ、あなたは?」と、アメリカ人には珍しいとても物腰の柔らかい静かな口調で話しかけられた。ありきたりの会話で始まった僕たちの関係は、一生の友とも言える間柄になった。

彼は当時フィラデルフィアの小学校で音楽の先生をしていた。「最初は香港フィルハーモニーにいて、そしてシンガポールフィルハーモニーに移籍したんだ」。両オーケストラの首席クラリネット奏者を務め実績を積んできたが、香港で知り合った中国人の奥さんと結婚して、二人の男の子ができて帰国した。演奏を断念するにあたり、簡単には話せないいろいろな問題があったという。「音楽で暮らすのは至難の業だ。現実は厳しいんだ。神様がチャンスをくれるのを感謝するしかない」。敬虔(けいけん)なユダヤ人らしい口癖だが、数々の大舞台も経験している優秀な奏者だった彼の言葉は重かった。

ミッチはとても優しかった。たどたどしい僕の英語にも我慢強く接してくれた。異文化での暮らしを理解している彼のまなざしが本当にうれしかった。アメリカの音楽事情、そして音楽上の英語の使い方、病院や、学校の授業の受け方まで教えてくれた。アメリカの食事にへきえきした時は、彼の奥さんの中華料理に感謝した。ミッチは僕の兄であり、家族同然の存在だった。

古い街に行こうと、ミッチが誘ってくれたことがあった。フィラデルフィア近郊には、建国当時の古い街が多い。厳寒の二月、ミッチの古くてぼろい車がエンストを起こしてしまい、零下20度の中、レッカー車を呼びに高速の非常電話まで二人で歩いたのは忘れられない。今では笑い話だが、凍死すると思った。その後ミッチはフィラデルフィアからカリフォルニアに引っ越した。学校の吹奏楽団の指揮者の職を得たのだ。立派に音楽で暮らしてるじゃないか。

今でもメールでのコンタクトは続いている。彼の主張は変わらない。「なんでみんな有名な作品しか演奏しないんだ。世界には知られざる作曲家の素晴らしい作品がいっぱいあるんだ」。昔と同じ彼に、僕はほほ笑んだ。「ところでミッチ、何歳になったんだい? 僕は四十八になったよ」。彼は、「信じられないと思うけど、五十七歳になったよ。僕と生徒の写真を送るから見てくれないか?」とホームページのアドレスを送ってきた。そこに久しぶりに彼の顔を見た。学生に囲まれた楽しそうなミッチ。昔のことを思い起こし、胸が熱くなってメールを書いた。

「ミッチ、幸せそうだね。生徒もとてもいい顔してるじゃない。僕はミッチのことをとても誇りに思うよ」

2007/09/09  

あとがき

アメリカ時代、さまざまな困難の中、助けてくれたのがこのエッセイに書いたミッチです。

ミッチはユダヤ系アメリカ人。元香港フィルハーモニー主席クラリネット奏者、元シンガポールフィルハーモニー主席クラリネット奏者です。そして、エッセイに書いたように奥さんは香港出身の中国系です。アンティークが好きな僕らはミッチの車に乗って、フィラデルフィア周辺のアンティークショップによく行きました。フィラデルフィアの「蚤の市」で、フィラデルフィア管弦楽団の所有していた古い指揮者用楽譜を見つけたときには二人で大喜びしました。

ミッチはフィラデルフィアのカーティス音楽院出身で優れたクラリネット奏者でしたが、繊細なその性格から厳しい競争社会の音楽界には合わなかったようです。最近、日本の古い掛け軸を手に入れたからと「友情の印に」と送ってきました。僕が漢詩が好きだということを知っているからでしょう。ミッチは香港時代に中国語を学んだので、漢詩を読むことは彼も好きらしいです。

英語もたどたどしかったと思う僕に根気強く付き合ってくれて、ミッチには本当に感謝しています。

異文化の中で暮らすのは簡単ではありません。だからこそ、その中で育まれた友情というのはとても大切に思います。

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

\エッセイをまとめた本・好評です!/

\珍しい曲をたくさん収録しています/

\ショパンの愛弟子・天才少年作曲家の作品集・僕の校訂です!/

\レコーディング・プロデューサーをつとめて制作しました!/

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