エッセイ

尾崎晋也のエッセイ|61「シビウ」

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「グーテン・モルゲン!」。ドイツ語でシビウ交響楽団の監督にごあいさつ。でもここはルーマニア。

僕の街から車で三時間、シビウという中世にドイツ人がつくった街だ。ドイツ語ではヘルマンシュタット。僕がルーマニア・デビューした街だ。二〇〇七年、欧州文化首都に選ばれた。毎年EU加盟国の中から一都市が選ばれ、一年を通してさまざまな芸術文化に関する行事を開催し、文化の相互理解を深める、というものだ。

その、シビウ交響楽団の欧州文化首都記念コンサートに招かれた。この街へ来たのは十数年ぶりだ。中世の面影を残した街並みは変わらないが、EUからの援助も得て、古びた街全体が美しく修復されていた。石畳の中央広場には現代的な噴水、夜には教会の塔がライトアップされる。新しくコンサートホールも造られ、オーケストラの本拠地として華々しくオープンしていた。以前は専用ホールなどなく、軍人会館という所を借りて演奏していた。

朝十時、初めてのリハーサル。コンサートマスターも代わっていた。次席だった若い男性がその席に座っていた。指揮台から第一ヴァイオリンを見渡す。以前のコンサートマスターが後列におり、僕にウインクした。「今週はトゥルグ・ムレシュ交響楽団音楽監督のマエストロ・オザキです」。事務局秘書が楽団に僕を紹介する。感慨無量、初めて指揮した時には無名の指揮者だったもんなぁ。

ここの楽団事務所には忘れられない人物がいた。音楽秘書のトハティだ。彼の目にとまって僕のルーマニアでの活動が始まったのだ。だが彼は亡くなっていた。新しいホールに新しいスタッフ、時間の経過を感じずにはいられない。

この演奏会のためにメルボルンから呼んだ川端智恵さんの独奏で、チャイコフスキーのピアノ協奏曲第一番を演奏する。今週は僕と彼女の日本人演奏家二人が主役だ。頑張らなきゃ。といっても練習中は二人とも英語で話すので変な感じ。川端さんはロシア人の先生の下、特訓に特訓を重ね、日本人離れした演奏をする、お気に入りのピアニストなのだ。

演奏会ではスタンディングオベーションがもらえた。監督からも将来的にまた共演してほしいと言われる。ニッポン代表としての務めは果たせたかな。終了後、契約書にサインする。事務局から中年のおばさんが書類を持ってやってきた。「マエストロ変わってないですね。私を覚えてますか」。彼女の顔には見覚えがあった。「もちろん! ギャラをくれる人は忘れないよ」。二人で笑った。

翌日、迎えにきた運転手の車でトゥルグ・ムレシュに帰る。十五年前、トハティから紹介されて同じ道を走った。シビウでのコンサートの後、指揮者が急にいなくなったトゥルグ・ムレシュ交響楽団のために、助っ人として借り出されたのだ。不安げな僕にトハティが力強く言った。「大丈夫だ。シンヤだったらできる。君には才能があるから」。トハティの声と顔が浮かんだ。丘の上を車は走る。田舎の景色はあの時のままだ。

2007/08/12  

エッセイについて

これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。

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