///このエッセイは2005年に書いたものです///
「第九か、久しぶりだなー」
オーケストラのホルン奏者がスケジュールボードを見ながら呟(つぶや)いていた。今年は僕がルーマニアの国立オーケストラの指揮者になって十年目。記念のコンサートをしよう、ということになり、ベートーベンの交響曲第九番「合唱付き」が選ばれたのだ。最後にやったのはもう七年ぐらい前だろうか。その後、オーケストラには大幅な世代交代があった。だから実際半数くらいの団員は初めて演奏するという状態だ。
2009年ごろの写真
日本で第九といえばもはや年末恒例という感じだが、実はヨーロッパでは演奏機会が少ない。それだけに指揮できる指揮者も少ないので、僕が「第九はしょっちゅう指揮している」なんて言うと皆びっくりする。
普通こんなこと、そんな簡単には口に出せない。こんなことが言えるのは、いつも黒塗りの車で送り迎え、泊まるホテルは超一流、録音するCDは片っ端からグラミー賞、なんて指揮者だけ。いわゆる世間では巨匠といわれ、万人にひれ伏され、レコード屋さんのおまけのカレンダーの写真で暗いバックを基調に逆光で顔が半分影になって睨(にら)みを利かしてる指揮者くらいなのだ。
すぐに準備が始まり、この演奏会のための特別なポスターが出来上がった。赤を貴重とする巨大なポスターだ。「どうだ!シンヤ。これで人の目を引くだろー」アイデアを出した監督のムレシャンが、また皴(しわ)が増えちゃうんじゃないのというくらい、満面の笑みを浮かべている。見ると、大きなボードに「マエストロ・オザキ常任指揮者就任10周年記念演奏会」と大きく書いてあった。
練習はまず合唱団から始まった。僕のオーケストラには合唱団もある。国立でプロフェッショナルだから当然上手だ。彼等(ら)はなんとも幸せなことに朝から夜まで歌って暮らしているのだ。その合唱団員にしても、第九は最も歌いづらい曲だ。この曲は合唱のためには上手(うま)く書かれているとはいえない。器楽的で、ものすごく無理がある歌い方を要求する。
合唱練習風景
ベートーベンは素晴らしいピアニストで、実際に彼の一番の得意分野はピアノ曲だ。彼の新作発表の演奏会でも、交響曲は前座の出し物であり、最後に演奏するのは得意のピアノ協奏曲あたりで、きっと観客もそれを期待していただろう。
第九の合唱の話に戻ると、ソプラノは高すぎて声がキンキンするし、テノールは不自然な音の跳躍があって、目を白黒させて歌う状態。バスは掟(おきて)破りともいえる高い声を出さなければならない。まあ、そこは壮大な構成と、交響曲に初めて合唱を取り入れたという創造性で許されるかな。アイデアが実際のディテールに勝ったよい例だろう。
次にオーケストラの練習が始まった。久しぶりなので、なんだか新鮮だ。例の歓喜の歌のメロディーがチェロとコントラバスで奏されたとき、一番後ろの引退間近で経験豊富な男性チェロ奏者が演奏しながら口走った。「おっ!これは!なかなかいい旋律じゃないか!」。僕も含め、皆にどっと歓喜の笑いが起こった。こうやって、久しぶりの第九の練習は進み、最終日にはソリストも揃(そろ)って、大舞台にふさわしい雰囲気となっていった。
観客にも久しぶりの第九とあって、たくさん入ってくれて、みんな楽しんだ。
演奏会が終わり、みんなが帰ったあと、ステージマネジャーのボリシュが鼻歌で歓喜の歌のメロディーを歌いながら、ホールの入り口の赤い大きなポスターをはがしていたのが印象的だった。歓喜の中(うち)にコンサートは終わった。
2005/04/21
追記
現在(2022年)、このエッセイをあらためて読むと懐かしさが込み上げてきます。僕の常任指揮者を勤めるトゥルグ ムレシュ交響楽団では、多くの団員が去り、そして亡くなった団員もいます。オーケストラの写真の中の、コンサートマスター・ラズロー、セカンドバイオリンのトップ奏者のドンディ、セカンドバイオリンの2列目・シモンフィ(白髪の男性)は他界しました。「引退間近で経験豊富な男性チェロ奏者」はコズマ、そしてステージマネージャーのボリシュ、彼らも亡くなりました。監督のムレシャンは引退しました。
時が経ったのだなと実感します。そして、僕はこのオーケストラの指揮者になり今年で28年目です。
エッセイについて
これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。
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