仕事道具と生活用品を二つのスーツケースに詰め、知らない土地を渡り歩く。仕事柄そういう生活が日常的になった。どこにいても、それらを広げればそこが自分の生活空間となる。
どのホテルのベッドも、柔らかすぎなければ大概フィットできる体になった。枕もほとんど大丈夫。ただ夜中に電話がかかってくることだけは、今も慣れない。
スペインにいたとき、夜中にフロントから電話がかかってきた。寝ぼけて何語で答えたらいいか分からず、「モシモシ!」と答えた。おかげで次の日からずっと「ミスターモシモシ」と呼ばれる始末。夜中にふと起き、天井を見てどこにいるのかすぐわからない、なんてこともしばしば…。
いつもどこかのホテルに泊まっているような生活だから、各地に定宿ができた。スタッフの顔も覚え、だんだん自分の居場所がそこにあるように感じてくる。
川の対岸のお城の灯が映り、ロマの弾く、ちょっとおもしろおかしく崩したハンガリアンダンスが聞こえてくる。ブダペストではドナウ川沿いのホテルに泊まるに限る。それも川沿いの部屋。異国情緒たっぷりの空気と美しい景色が心に入ってくる。川沿いの道には恋人たちや家族連れがそのひとときを慈しむように散歩している。
ボーイにホテルの重いドアを開けてもらい、フロントに向かう。マリオットホテル。僕の、この街での家だ。「マエストロ オザキ!」
ここには素晴らしいコンシェルジュがいて、僕の名前を覚え、迎えてくれる。この宿の良さはドナウ川の見える部屋と、スタッフの温かい心遣い、そしてこのコンシェルジュだ。彼に会うと何だがほっとする。
僕はこの天才コンシェルジュの名前を知らない。客としては知らなくてもいいのだろうが、彼はいつ来ても僕の名前を覚えていてくれるので、少々心苦しくなる。その上彼の笑顔は、職業上のものとは思えないほど格別だ。愛されて育った人なのだろう、無邪気ないい笑顔に会うたび、旅の疲れた心が癒やされる。プロフェッショナルという言葉は、彼のためにあるようなものだ。
「ミスターオザキ、きょうもドナウ川はきれいでしょう」。日が落ち、ライトに照らされたエリーザベト橋が美しく水辺に映えていた。一九四五年、この橋はドイツ軍に爆破されたが、六四年に純白の美しい橋としてよみがえった。
その橋にちょっとだけ目をやり、僕は答えた。「そうだね。川は変わらなくても見るときの気分で違ってみえるね。それにドナウ川だけでなく、君の顔を見るのも楽しみだったよ。それとあともう一つ…」と言いかけたとき、彼は僕の言葉を遮るように、「午後のスイーツ食べ放題のメニュー! でしょ!?」
僕はそうだと答える代わりに、ほほえんだ。「長旅で疲れているんだ。スイーツが体にも心にも欲しいね」。彼は黙って人さし指を上げ、僕はまた笑顔で答えた。
2006/06/11
追記
これは、2006年に書いたエッセイです。この頃は甘いものをよく食べていましたが、最近は糖質制限をしていてあまり甘いものは食べません。最近、ブタペストに寄り、マリオットを覗いたらケーキ・ビュッフェはやっていませんでした。この投稿の話題になっている天才コンシェルジュもいませんでした。20年近い時の流れを感じました。
エッセイについて
これは南日本新聞に11年間150回にわたり連載した「指揮棒の休憩」というエッセイです。長く鹿児島の読者に読んでいただいて感謝しています。今回、このブログにも掲載します。
\エッセイをまとめた本・好評です!/
\珍しい曲をたくさん収録しています/
\ショパンの愛弟子・天才少年作曲家の作品集・僕の校訂です!/
\レコーディング・プロデューサーをつとめて制作しました!/