2021年、埼玉県 北本市の学校給食歴史館を訪れました。日本でただ一つの学校給食についての博物館です。
それでは、学校給食歴史館の展示物とともに学校給食の変遷を見ていきましょう。
Contents
この記事のまとめ
1)昭和2年に出た給食は、和洋折衷のものでした。
2)昭和2年の世相は不安なものでした。金融恐慌の到来、不況下での生活苦や疾病苦による自殺者も相継ぎました。その反面、ファッションショーなども初めて開催されたりして華やかな部分も見られ、不思議な世相の時代でした。
昭和2年の給食
メニュー
ごはん
ほうれん草のホワイト煮
さわらのつけ焼き
ホワイト煮
ホワイト煮とは、ホワイトソースだと思われます。
これは、バターで小麦粉を焦がさないように炒めてから牛乳を加えて好みの粘度にのばすものです。しかし、この時代、ふんだんにバターがあったかどうかわかりません。
ダマを作らないようにするのには結構技術が必要ですし、時間もかかります。
ホワイトソース(白ソース)は家庭でも作れる西洋料理の基本として、戦前も昭和に入ると、都会の少し「モダン」な家庭では、かなり一般的に普及していたようですよ。
バター
牛乳・乳製品が大衆の間に普及していったのは,明治に欧米の食文化が紹介されるようになってからです。
大正14年には、北海道において民間によるバター及びチーズ加工販売組合が創立しました。北海道酪農販売組合連合会(略称:酪連/後の雪印乳業)が創設され、カートン(紙箱)入りバターが発売されました。当時の国産バターの品質にはむらがあり製品として不安定であったそうです。そして、この給食が出された昭和2年にアメリカから輸入した最新式バター包装機の導 入によって品質は向上したということがあります。
といっても,この頃乳製品は一般的に,病気のときなどにとる滋養食品として食べられていました。その後,戦後になってようやく,穀類中心の食事から肉や乳製品をとる頻度が多くなったのです。
さわらのつけ焼き
これは照り焼きですね。美味しそうです!
和洋折衷の給食
この給食をみると、和洋折衷ですね。
明治後期になると和洋折衷のスタイルの「洋食」が生まれました。カフェー、バーなどの名称で西洋料理店より安い値段で食事を食べさせる店が出てきたのですね。明治30年代から大正にかけて「園遊会」と称して庭園に模擬店を並べる西洋のガーデン・パーティーのようなものが盛んになりましたが、その時には和洋折衷のスタイルで様々なものが出ました。
和洋折衷の飲食スタイルは徐々に家庭にも入ってきました。
明治後半は家庭向けの西洋料理本が続々と出版され、おもてなしの料理としてカツレツやコロッケなどが紹介されたのですよ。しかし、西洋料理を家で食べる人はまだ非常に少なかったと言えるでしょう。
この給食が出る昭和初期には家庭で洋食がつくられはじめ、和洋折衷の料理を食べることが多くなったのです。
ですから、このホワイト煮も給食に出たのが納得できる気がします。
学校給食歴史館とは
「学校給食歴史館」は、日本でただ一つの学校給食に関する博物館です。
埼玉県北本市にあります。北本市には「埼玉県学校給食会」があり、同じ敷地内に「学校給食歴史館」が建てられています。
中には多くの食品サンプルがあり、歴史的に、そして視覚的にも学校給食の流れが把握できますよ。自分の食べた給食と出会えるかもしれませんね。
そして、学校給食に関する歴史年表などの資料も充実しています。学校給食の歴史がわかりやすく展示してあります。
館内案内図
学校給食歴史館の内部は、非常にわかりやすく食品サンプルやパネルが展示されています。
学校給食歴史館の情報
- 休館日:土・日・祝日・年末年始(12/29〜1/3)・夏期(8/13〜15日)
- 開館時間:9時〜16時
- 入館料:無料
- 公益財団法人 埼玉県学校給食会
〒364-0011 埼玉県北本市朝日2丁目288番地
TEL.048-592-2115 FAX.048-592-2496
地図
学校給食歴史館へのアクセスはリンク先にもあります。
JRを使う場合 JR北本駅から
- JR高崎線北本駅東口から約3km
- 市内循環「川越観光バス」北本高校先回りで約15分。「ワコーレ北本」下車
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昭和2年・不安な時代
1926年12月25日からの、たった7日間で昭和元年は終わりました。世の中全体が、まだ「昭和」に慣れておらず、年末ともあって慌ただしかったことでしょう。
そして「昭和」を完全な365日の1年間として迎えたのが、この昭和2年です。実際の昭和は、この昭和2年(1927年)からなのかもしれませんね。
不安な世相
この頃はなんとも不安な時代です。
金融恐慌の到来。不況は深刻となり、労働争議が続きます。そして、不況下での生活苦や疾病苦による自殺者も相継ぎました。その反面、ファッションショーなども初めて開催されたりして華やかな部分も見られ、「不思議な世相」の時代でした。
7月24日、芥川龍之介自殺(36才)。
芥川龍之介の遺言にある「何か僕の将来にあるぼんやりとした不安」は当時の社会の将来に対する不安を感じさせるものでもありました。
金融恐慌
昭和元年(1926)はわずか1週間で暦が変わりました。昭和2年になると、人々が天皇の践祚(天皇の位につくこと)を祝うのもつかの間、経済界に激震が走ったのです。事の発端は、大臣の失言でした。
3月15日、企業や銀行を救済する目的で作成した法案審議(関東大震災後の経済対策として打ち出した震災手形問題を審議)の中で、片岡直温蔵相の失言「今日、渡辺銀行が破綻しました」と口を滑らせてしまったのです。これを発端にして各地で銀行の取り付け騒ぎが発生しました。
渡辺銀行、あかぢ貯蓄銀行が休業。他の中小銀行数行も休業のほか、安田、第百、川崎など一流銀行も取り付け騒ぎに巻き込まれました。
4月22日、政府はモラトリアム(支払い猶予令)を発動しています。
モラトリアムとは、猶予のこと。金融用語としては支払い猶予のことを指す。モラトリアム期間は、支払いを猶予された期間のことである。天災、戦争、恐慌などの非常事態には支払いを猶予することで債務者を保護する。この支払猶予をモラトリアムと呼ぶ。日本国内でも国際間の金融でも、モラトリアムにかかわる法令が定められている。非常事態が起きたときに、このようなモラトリアムが実施されなければ多くの事業者が破たんしてしまい経済的な混乱を招くからである。
Weblio辞書より
地下鉄浅草線開通
12月30日 初の地下鉄、東京上野―浅草間に開通しました。運賃は10銭です。
日本で最初に地下鉄が開通したのが、今から80年以上前の1927(昭和2)年、浅草~上野間2.2kmでした。
東洋で初めての地下鉄が東京に誕生したことは、日本の近代化の一つの証として大いに歓迎されました。
地下鉄の父・早川徳次は当初、新橋~上野間5.8kmの建設を計画。ところが、不況や関東大震災のあおりを受けて資金調達が難しくなり、浅草~上野間2.2kmをまず建設することになったのです。
円タク
日本で客を乗せる有料自動車の誕生はかなり古く、残っている資料では明治40年です。大型6人乗り1時間7円と大変な高額料金でした。しかし、すぐに3円ほどになったそうです。それでも明治44年頃の市電料金が4銭だから、贅沢きわまりない乗り物ですね。
明治43年頃には、1マイル小型50銭、大型1円になります。今で云うタクシーではなく、ハイヤーのようなものだったようです。
タクシーの始まりというと、1912年/大正元年に6台のT型フォードで、有楽町に開業した{タクシー自動車会社}というのが定説です。
大正12年というと関東大震災が9月だから、7月開業とは震災の直前ですね。震災で寸断された交通復旧で、東京市が手っ取り早い手段としてT型フォードでのバス運行を始めたほどだから、このタクシーの開業は、実にタイミングが良かったことになります。
バス運行で利便性が立証されたせいで、タクシー業者も続々と開業します。しかし、料金がバラバラで、客とのトラブルが問題化しました。
そこで、大正13年大阪で、大正15年東京で、市内1円と料金が設定されたのです。円タクの始まりです。
1円均一タクシーは、直ぐに円タクと呼ばれるようになりました。
1円時代が終わると、積算計の距離x基本料金になり、運転手が売上げをごまかすのが経営者の頭痛の種となりました。その基本料金は、昭和5年に50銭/3.2メートル。昭和7年に30銭に下がりました。
昭和9年大阪で、13年に東京でタクシーメーターが登場します。その料金は、開戦の昭和16年70銭、17年80銭(木炭車時代)、そして終戦後の20年には、100円になっていました。
大正天皇の大喪儀
昭和2年の年賀状は、大正天皇の崩御で昨年12月26日から扱いが中止となり、それまでに受け付けた分は元旦に配達されましたが、東京で元旦に配達された年賀状は、昨年の3500万通に対して258万通でした。減刑等約18万3500人です。
北丹後地震
北丹後地震により網野駅で横転した列車。
1927(昭和2)年3月7日の北丹後地震(M =7.3)は京都府丹後地方に大きな被害をもたらしました。この地震が峰山地震ともも呼ばれるのは、峰山市街地の全域が倒壊と火災により全滅状態になったことによる。峰山町の他、網野町や 市場村、山田村などが北丹後震災における最激甚被災地となりました。
和洋折衷の住宅
最初に書きましたが、大正から昭和初期に渡って和洋折衷の文化が発展します。その中でも、和洋折衷の文化住宅というものが特徴的です。
これは、大正デモクラシーの高揚を背景にした、生活の洋風化と合理化を目指すものでした。そういう洋風なものに憧れる人たちが「せめて一部屋でも洋間を」と建てたのが「文化住宅」です。それは大体において、取ってつけたように玄関のすぐ脇の外からよく見える位置につけました。こうした赤や青の洋風な瓦をのせた家は一つのステイタスだったと共に、憧れの対象だったのです。
集合住宅でも、中流向けに建てられた同潤会アパートが建てられました。
ウィキペディアより同潤会アパート(どうじゅんかいアパート)は、財団法人同潤会が大正時代末期から昭和時代初期にかけて東京・横浜の各地に建設した鉄筋コンクリート造(RC造)集合住宅の総称である。
同潤会は1923年(大正12年)に発生した関東大震災の復興支援のために設立された団体であり、同潤会アパートは耐震・耐火の鉄筋コンクリート構造で建設され、当時としては先進的な設計や装備がなされていた。
同潤会アパートの台所(国立歴史民俗博物館で撮影)
同潤会アパートの居間(国立歴史民俗博物館で撮影)
地方との格差
この時代、地方と都市部には大きな格差がありました。
地方と都市部の格差が少なくなるのは、なんと1970年代半ばまで待たなければいけませんでした。
この記事で書いた昭和2年の給食などは、おそらく一部の子供達が食べていたと思われます。
農村の子供達
昭和26年、全国市制地に給食が実施されます。27年4月に至り全国すべての小学校を対象に実施されるのです。
都市の生活者たちは現在の人とあまり変わらないような、便利で文化的な生活をしていました。しかし、当時の人口の半数近くを占めていた農山村では、まだ江戸時代とほとんど変わらないような生活をしていたのです。
このような時代にこの給食は食べられていた
以上のように、昭和2年の前後の世相は不思議なものです。洋風文化への憧れ、不安な時代。そのような時にこの和洋折衷の給食は食べられていました。興味深いですね!
\一家に一台!便利です!/